彼は彼女の願いを告げる際の口調から、自分がどのような台詞回しと行動で応えればいいのかを理解していた。
 本音を言えば、いくら予想より軽い願いとはいえ、いつもなら絶対に聞き届けないものである。
 それでも彼は微笑みを浮かべた。
「身に余る光栄、喜んでお受けいたします。
 我が、愛しきプリンセス」
 そう言った直後、彼は微笑みの影にほんのわずかな間、ティディアにだけ解る表情を見せた。酸い虫と苦虫を同時に噛み潰したような顔であった。
 ティディアは、唇を少しだけ彼をからかう形に歪ませた。
 ニトロは息を一つ吐き(それは緊張をほぐすためのものだ)そして王女の前に片膝をついた。恭しく貴婦人の手を取り、一度恥ずかしげに躊躇い、それからそっとその手にキスをする。
 黄色い歓声が上がった。
 ――その瞬間、ティディアは、死ぬかと思った!
 ニトロの唇を手に受けた時、そこから全身に強烈な電撃が走り、それと同時に心臓が破裂しそうなほどに膨張したのだ――それとも、心臓が潰れてしまいそうなほどに収縮したのだ。
 腰が砕けてへたり込みそうになるのを必死に堪え、彼女が胸の痛みのあまりに大きく息を飲んだ音は、しかし招待客らの大きな歓声によって誰にも、ニトロにも聞かれずにすんだ。
 ニトロが立ち上がり、すると彼の背後の招待客らが心得たとばかりに二つに割れる。その先にはホールがある。先刻は戦場、これからは舞踏会場となる無人の踊り場が。
 ティディアはちらりと時計を見た。
 11時58分。
(ああ)
 何て素晴らしいタイミングだろう!
 ティディアは思わずため息を漏らした。遠慮なく自惚れ、誰に憚ることなく自画自賛して回りたい。今日この日、私は誰よりも幸運に恵まれているのだ――
 と、その時、
「きゃ」
 小さく、ほんの小さくティディアは声を上げた。
 彼女の右手を左手に受け直したニトロが、その力強い右手を彼女の背に回し、彼女の体をぐいと引き寄せたのだ。それにしても不意を突かれた彼女の唇を割って出たのはやけに可愛らしい声であり、彼女は恥ずかしげに口をつぐんだ。
「……なんだよ」
 ティディアに思わぬ反応をされてしまい、ニトロが口を尖らせて問う。
 息のかかるほど間近にある彼の瞳を覗き込み、ティディアは目を潤ませ、未だ少しの恥ずかしさが残る口で小さく言った。背中に触れているニトロの手の温もりにまどろむように、柔らかに、
「嬉しいのよ」
「ああ、そうかい」
 ぞんざいに応え、ニトロは彼女をリードするように足を踏み出す。
 一息を挟む間もなくティディアも彼に合わせる。
 ミリュウの成人お祝いのパーティーで一度踊っているため、互いの呼吸は解っている。特にティディアはダンスも名手であるために、彼にリードされるように見せかけながら、それでいてどちらがリードする必要もなく二人の呼吸は抜群に合っていると強調することもお手の物だった。
(ごめんね、ニトロ)
 招待客が開けた道を通りながら、ティディアは胸の中でほくそ笑む。
 ふと、忌々しそうに立ち止まっている給仕アンドロイドの姿が彼女の視界に入った。
(流石、芍薬ちゃんはもう気がついたのね)
 そう、このダンスは、ティディアの最後の仕上げだった。
 王女ティディアはニトロ・ポルカトの頼みであっても簡単には聞かない――その厳しさ。
 その反面、ティディア・フォン・アデムメデス・ロディアーナはニトロ・ポルカトを心から愛していて、そして二人は愛し合っている――その証明。
 無音の中、ステップを踏みながら招待客らの作る囲みから抜けていく最中さなか、ティディアは企ての成功を確認していた。それと同時、ニトロの眉間にかすかに影が走る。やはり彼も流石だ、気がついたのだ、こちらの狙いに。が、彼はもう抜け出すことが出来ないことをも察していた。次に彼の眉間に現れた諦観に、ティディアは目を細める。
(そうよ、ニトロ、あなたも大正解)
 先ほど、ダンスを所望した王女には確かに失望が向けられていた。
 だが、失望はとっくに消えている。完全に消え去っている。それどころか先ほど失望したことを恥ずかしく思っている者までいることだろう!
 何故なら、たった一歩目からあの比翼の白ツバメのようにぴたりと息の合った二人の姿は、そう、二人はまさに比翼の白ツバメなのだと皆に確信させていたのである。
 これこそが、最初の登場時にわざわざ神話を想起させたティディアの狙いであった。
 神話に語られ、現代にまで語り継がれるほど理想的な愛の顕現。
 この愛の形を見て失望し続けられる者がいるだろうか。
 この愛の確認を望む女の心へ失望を向けたことを恥じぬ者がいるだろうか。
 そして、先の失望があればこそ、それを一瞬にして拭い去った私達の愛の姿はより鮮明に皆の記憶に刻み込まれる。
 この素晴らしい光景を、あの『社交界の情報源』は恍惚として言いふらすだろう。他にも噂好きの女達は多くいる。男達もこの光景を見る栄誉に預かった身を他者に誇るだろう。様々な階級から招待された客達は、ニトロ・ポルカトへの無責任な期待を寄せることへの恐怖リスクと共に、次代の君主夫妻が睦まじく踊る姿を彼ら彼女らの生きる様々な社会に大声で伝えてくれるだろう。
 そうして王家広報から流される誕生日会のダイジェストを証言者達の誇張された言葉が補強して、アデムメデスはその情報に支配されるのだ。そうやってニトロ・ポルカトが何を否定しても抗えぬ強固なイメージが構築されるのだ。
 ――嗚呼!
 今日は、本当に思惑の何もかもが上手くいった!
 幸運に助けられたとはいえ、いや、なればこそ、困難なミッションを、完全無欠にクリアした充足感がティディアの満ち足りた胸をさらにさらに熱くする。
 また、一連の幸運を思えば、『運命』と言う言葉が好きではないティディアであってもそれを意識してしまう。特に、この誕生日会にあって重要な働きをしてくれたあの老夫婦が北副王都ノスカルラで抽選に当たってくれたことには、初めて真心を込めて幸運の女神に感謝の祈りを捧げたいくらいだった。
「……ねえ、ニトロ。フルセル夫妻は、とても素敵なご夫婦ね」
「ああ」
「将来、私達もあんな風になりたいものね」
 ニトロは、一瞬唇を引き絞った。このまま何も応えたくないが……しかし、それはフルセル夫妻に失礼となる。不意にもたらされた王女のあまりに過分なる言葉に息を飲んでいる老夫婦の姿を目の端に、彼はやられたと思いつつも、言った。
「ああ、そうだな」
 その声は観客にも聞こえ、ため息を呼んでいた。
 ニトロはティディアを睨む。
 ティディアは彼にだけ見える程度にちらりと舌を出す。
 彼女の頬からは満足と至福のために微笑が絶えない。
 一方ニトロはぶっきらぼうな顔でステップを踏み続ける。
 やがて、良いタイミングで、二人のリズムに合わせて楽団が演奏を始めた。
 二人のステップに合わせてワルツの曲が奏でられた瞬間、一気にホールが華やいだ。まるで庭の薔薇がホールにも咲き誇ったかのようだ――二人きりで踊る『恋人達』を見つめる皆にはそう思えてならなかった。
 と、突然、中空に浮かぶ時計が軽やかな鐘の音を鳴らし出した。
 12時の鐘であった。
 鐘の音はワルツと同じ三拍子で打たれている。
 踊りながらホール中央に移っていた二人の頭上で、溶け合うように調和して踊る二人を祝福する鐘が燦爛さんらんと鳴り響いていた。
 楽団の音と鐘の音は奇跡的なまでに融合し、その美しい音色のあまりに涙を流す者がある。そして流れる涙は美しい音色のためにのみではない。美しいハーモニーの中、おお、二人きりで踊る恋人達はまた一段と美しい!
「ホーリーパーティートゥーユー! お姉ちゃん!」
 そう叫んだのはパトネトだった。
 信じられないくらいに元気で大きな声だった。
 思わず周りの大人たちが仰天する。
 しかし、皆はすぐに王子に追随する。
 グラム・バードンが、シァズ・メイロンが、アンセニオン・レッカードが、東大陸の伯爵夫妻が、ライリントン嬢とその父が、噂好きの夫人とその娘が、クロムン&シーザーズ金属加工研究所のモーゼイ代表とその妻が、フルセル夫妻が、ヴィタが、ハラキリが――片隅でこっそりとミリュウが――その場にいる全ての人間が、鳴り続ける12時の鐘の音に重ねてティディアの誕生日を声高らかに祝う。
「ニトロ」
 踊りながら、ティディアは涙を浮かべてニトロを見つめた。その唇は震えていた。
「私ね、こんなにも幸せを感じたことはないわ」
 ティディアの背中に回したニトロの右手には、彼女の心臓の音が伝わっていた。
 ――心臓の音だけではない。
 掌に感じるティディアの体は、火のように熱い。
 ニトロの脳裏に、あの『隊長』の率いる『王立ティディア親衛隊』に襲われた時の記憶が蘇る――あの時もティディアは“俺のため”に動いていたが、それでもまだあの時は“作為”が勝っていたと今でも確信している。だが……当時のミリュウは、驚いていたという。お姉様が生涯初の風邪を引いたことに、それとも、お姉様に“風邪を引かせた存在”に。……遡れば、あの頃から、なのだろうか? 俺を『夫婦漫才の相方』という道具として利用したいだけだったはずのバカ姫様が心を移ろわせてきたのは。あの時から、ティディアはこの熱を生む『病』にも罹っていたというのだろうか。
 あの夜、この背に負ったティディアの体は熱かった。
 けれど、今夜、こうして向かい合って触れるティディアの体は記憶の中よりもずっと熱い。伝わってくる熱は、ずっと温かい。
「……」
 ニトロは、口の片方だけを引き上げ、
「ああ、そうかい」
 それだけを言った。
 ティディアがニトロを覗き込む。
「……それだけ?」
「そうだよ」
「いけずー」
 そうは言うものの、ティディアの顔から微笑みが消えることはない。
 そこでニトロは苦笑とも仕方無しの笑みとも言えぬ表情を浮かべ、言った。
「でも、これだからこそ――なんだろ?」
 その笑顔は、そうだ! ティディアの愛してやまないニトロ・ポルカトの、お人好しの笑顔に違いなかった。
「ええ、これだからこそよ」
 ティディアはうなずき、瞳を煌かせて麗しく微笑んだ。
 12時の鐘が鳴っている。
 祝福と美しいメロディに包まれて、彼女は愛する男性と共に幸せに踊る。
 ティディアの21度目の誕生日は、彼女の人生における最良の日であった。

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