――その頃、ニトロは驚いていた。
ニトロを取り囲む皆も驚いていた。
彼の目の前にはシァズ・メイロンがいて、苛烈なほどに熱烈な『ティディア・マニア』で知られる西大陸の伯爵は、ニトロ・ポルカトへ……筋違いな上に一方的なことなれども真実『恋敵』である男へ、その右手を差し出していたのである。
ニトロはひどく戸惑ったが、しかし、断る理由はない。微笑を浮かべてシァズ・メイロンに応じて握手をした。するとシァズ・メイロンは握手には適さぬ力でニトロの強く手を握った。ニトロは顔色を変えず、それに応える力で握り返した。その時、シァズ・メイロンは顔を真っ赤に染め、唇をわななかせていた。何かを言おうとして言えないでいるらしく、その様子は彼の抑えられた感情の強さを見る者に伝えた。無論、ニトロにも伝わっていた。ニトロは伯爵の手を握ったまま、彼を見つめていた。真っ直ぐに、怒りと悲しみを綯い交ぜ、流れぬ涙を必死に堪えている男の瞳を真摯に見つめ返し続けた。
ややあって、シァズ・メイロンはニトロ・ポルカトへ深々と頭を垂れた。
長い時間と思えるほどに頭を垂れ、そうして彼は何も言わずに踵を返すとそのまま去っていった。
感嘆とも驚嘆ともつかぬため息が周囲にこぼれた。
押し込められた激情が沈黙によって紡いだ物語、それをまざまざと目にした恍惚が場に溢れていた。
そしてニトロの苦笑せざるを得ぬことに、その時にも鼻敏くヴィタがいて――もし獣人化していたら遠慮なく耳をパタパタさせていたであろうくらいの喜色を浮かべて傍でカメラを回していた。
……やがて、抽選会が終わった。
最後の時ばかりは皆、抽選会に注目していた。
当選を待つ二人を残してドラムロールが鳴る。1等が当たったのはロザ宮玄関でニトロとパトネトに鉢合わせした紳士(息子)であり、特賞が当たったのは、奇しくもあの不運なアンセニオン・レッカードであった。
アンセニオン・レッカードはその時、即座に宣言した。
「この栄誉を、フルセル氏に譲りたい」
フルセル氏は9等の商品券5万リェン分が当たっていた。それだけでも十分と思っていたところに驚くべき申し出である。彼が慌てふためくところに、意気投合して共にグラスを傾けていたグラム・バードンが「受け取られよ」と強く勧めた。公爵だけでなく、招待客の誰もがそれを勧めていた。ニトロも拍手を送った。
結果、フルセル氏はアンセニオン・レッカードの申し出をありがたく頂戴した。
アンセニオン・レッカードはこの行為により、一つ名誉を回復していた。
仕事を全て終えたパトネトは――皆驚いたのだが――壇上を駆け下りると周囲に人がいるにも関わらずニトロの元へと走った。
ニトロもまた、驚いていた。
迎えに行こうかと思っていた矢先に、パトネトが自ら走ってきたのだ。人の間をすり抜けて、多少瞳の中には周囲への怯えがあれども、それでも笑顔を浮かべて一人で走ってきたのである。ちょうどニトロがそろそろ名も知らぬ貴族や政治家相手に誤魔化し切るのも限界に感じていた頃でもあった。驚きながらも、彼には可愛いパトネトが本気で天使だと思えた。
ニトロは飛びついてきたパトネトを抱き止め、その頭を撫でた。パトネトは『余興』でのニトロの活躍への賛辞を口にしながら、一方でニトロに誉められている嬉しさで一層顔をほころばせていた。
愛らしい王子の作った微笑ましいワンシーンが過ぎると、やにわに招待客らはそわそわとし始めた。
11時40分。
そろそろ……王女が戻ってくる頃合であろう。
それを思えば、飲食や会話を楽しみながらも、気もそぞろになるのは無理もない。
11時50分を前にして。
ニトロがビュッフェ台から小ぶりなサンドイッチをいくつか取り、パトネトと並んで齧っている時だった。
給仕達がグラスや皿を手にする招待客らに声をかけた。ニトロにも一人の(アンドロイドではなく、人間の)ウェイトレスが上品に言葉をかけてきて、ウェットティッシュを差し出した。ニトロはその意味を察してサンドイッチの残る皿を預け、手渡されたウェットティッシュでパトネトと共に手を拭った。
11時50分。
楽団が、曲を変えた。
それまで演奏していた曲はニトロの知らぬ穏やかな曲であったのだが、今度の曲は彼も良く知るものであった。
その曲の名は『王に祝福あれ』と言う。何かしらのイベントの折、王族を迎える際に流される、短くも清らかな響きが印象的な曲だった。
およそ二分間の演奏が流れる間に、速やかに、壇の回りに皆が集まっていった。
『余興』の熱に
腹立たしいことに、気がつけばハラキリがいつの間にか戻ってきて良い位置をキープしていた。ヴィタの背後である。ちらりと睨むと、彼はへらりと笑い返してくる。相変わらずの親友の姿にはもう笑うしかない。が、ここで笑みを刻めば、それは『恋人』を迎えるための微笑みだと誤解されると、ニトロは唇を一文字に結んで――そのためとても凛々しい立ち姿で――ティディアを待った。
やがて演奏が終わり、ゆっくりと、壇上の扉が開いた。
蕩けるようなため息が、溢れた。
衆目の集まる先。
そこには、美しいドレスに身を包む蠱惑の美女がいた。
大きく肩を出した純白のドレス。
二の腕にかかるほど開かれた、緻密なレースに飾られた大きな襟。露となった胸元は、そのレースのために扇情的というよりも優雅で気品に溢れ、また、柔らかな谷間の作る滑らかな流れが際立たされている。
全体的にはシンプルに見えるドレスであるが、実際はそうではない。王女の美しい乳房の形やウェストからヒップにかける芸術的な曲線を活かすラインは秀逸と言う他なく、ひだやレースの作る陰影が、白一色であるのはずのドレスをまるで濃淡ある数種の白を巧みに塗り合わせているかのように演出していた。引き締まったウェストの下はふわりと柔らかに落ちるスカートで、彼女が一歩進むと脚線美が幽かに透けて見え、その裾は羽毛のように軽やかに翻る。翻る裾から覗く靴も白であった。そして一口に『純白』と言っても、それはティディアの肌色を最も映えさせる『純白』である。
ある意味では、一方で伝統的なウェディングドレスを想起させる装いであった。
しかし一方では“〜ドレス”というカテゴリを忘れさせる装いでもあった。
それは、つまり、そのデザイン、色、生地、見た目の印象、全てがティディアのためにあるドレスであり、それこそは、ティディア以外のためには存在しえないであろう唯一無二のドレスとなっていたのだ。
彼女は肘まで覆う白い手袋もつけていて、肌の露出はそのために少ない。
それなのに、そのドレスが彼女の肌にあまりになじんでいるために、ともすれば彼女は裸身を晒しているようにも思えてしまう。彼女は無数にダイヤモンドの輝くネックレスやイヤリングなど装いにアクセントをつけるためのアクセサリーを身につけてはいるが、それら人の目を引くはずの高価な貴石ですら彼女の肉体と自然に融け合っている。
思う存分見惚れた後にようやく思いを巡らせれば、ティディアの頭にティアラはないことに気がつく。それは彼女が一人の女性としてここに現れたことを意味していた。
上品に紅の引かれた唇は魅惑的な微笑を刻んでいる。
それぞれのパーツを特に際立たせようという化粧もしていないのに、目鼻、口、それぞれのパーツがはっと息を飲むほど心を惹いてならない。
黒紫の髪が純白の上で艶めき、長い睫は涙に濡れているように妖艶に揺れ、魔的に輝く黒曜石の瞳は、目の合った人間の魂を吸い込むかのように底深い。
ティディアが二歩目を踏み出した時、突然、拍手が鳴った。
誰もが蠱惑の美女の虜とされていた中で、ニトロと同じくその魔力に囚われぬハラキリが初めに手を鳴らしていた。
追って我に返った皆が熱心に拍手を打ち鳴らす。
歓声はない。
言葉は全て感嘆の吐息に変じてしまっている。
男も、女も、老いも若きもアデムメデス史上最も美しい王女の色香に酔いしれていた。
(何度見ても……ほんっと恐ろしい奴)
彼女の実弟であるパトネトまでもが、声にならない歓声を上げ、瞳を輝かせて姉を見上げていた。視界の端では人間の給仕達も仕事を忘れて動きを止めている。楽団は音を立てない。それがシナリオなのか……いや、きっと心を奪われているのだろう。元気に動いているのはアンドロイド達と、猫を思わせる動きで客の目を邪魔せず時々刻々と変わるベストポジションを取り続けるカメラマン――ヴィタだけである。
ため息と拍手の中に、ようやっとざわめきが混ざり始めた。
その頃には、ティディアは壇を降り、ニトロの眼前にやってきていた。
自然と拍手が止む。
ざわめきはひそひそ話に変わり、それもやがては無音となる。
ティディアも沈黙していた。
彼女は黙って佇み、じっと想い人を見つめていた。
彼女の眼差しはあることを雄弁に語っており、それを読み取ったニトロは胸中にため息をつき、
「――誰かに、お願いを聞いてもらいたいんだったな」
ほんの微かに、ティディアの瞳に失望の色が差した。
それに気がついたのは彼女と正対するニトロとパトネトだけだった。
パトネトがニトロを非難し繋ぐ手に力を込める。
しかし、それにはニトロは応えない。
ティディアは『誕生日おめでとう』、もしくは『ホーリーパーティートゥーユー』という
ニトロは言う。