知りませんでした
 その偽りない答えに、ニトロは安堵する。ハラキリは続けた。
「“拙者”は妹君から姉へのプレゼントです。そして拙者も、結果はどうあれ『一対一』で終えるのが最善と判断したまでです」
 ニトロは目を見開いた。
「ミリュウの?」
 思わず大声を上げそうになったのを懸命に囁きにまで落とし込んで言った直後、ニトロはワインリストを見ながら何やら熱心に給仕アンドロイドと話し込んでいたハラキリの姿を思い出し、そこで妙に納得するや、小首を傾げて苦笑した。
「今度からはそっちにも気をつけないと駄目かな」
「気をつけないと、と言っても、相手は姉への『愛』ですよ?」
「愛?」
「ええ、愛です」
「そりゃ……強敵だ」
「とはいえ“お姉様一辺倒”ではなく、同時に君への思い遣りにもなりましょうがね」
「ん?」
「彼女は君の勝利の場合であっても受け入れると言っていました」
 ニトロは目を丸くする。ハラキリはその驚きは当然だとばかりに微笑み、
「加えて拙者の言葉で語るなら、例えば君が公爵閣下に負けて、その後お姫さんが優勝したとして、すると君は不完全燃焼だったでしょう? きっとほぞを噛む思いで決勝を見守ることになったでしょうね。最悪、閣下が優勝した場合は目も当てられない。けれど二人が決着をつけるなら、それはない」
「だから、一対一で終えるのが最善――か」
「よって“会談は合意に達した”というわけですね」
 ニトロはまた苦笑した。今度の苦笑は柔らかい。二人の声があまりに小さいために、それを聞き取りたい周囲はざわめく音量を下げている。特に敗北のショックから立ち直るようなニトロの柔らかい表情を見た時には、ハラキリがどのような言葉をかけているのかという好奇心のために一層音量を下げた。
 ニトロは一つ吐息を挟んだ。
「でも、やっぱり今度からはそっちも警戒することにするよ」
「はあ、ですがやっぱりどうしたところで君にとってはそれこそ相性の悪い相手だと思いますけどねぇ」
「愛だから?」
「愛ですから」
「参ったね」
「参りましたね」
「……本当は『参った』なんて思ってないだろ」
「それはまあ、正直他人事ですからね」
「そりゃまた友達甲斐がないことを言ってくれるもんだ」
 そう文句を言いながらもニトロはさばさばとした笑顔であった。が、その笑顔には“一味”足りない。それに気づいたハラキリは、すっと背後に一瞥をやり、うなずいた。
 すると、ニトロとハラキリの会話をその真意とは全く違う形で――ニトロにとっては皮肉なことに、結局断片的な言葉しか聞こえなかったが故に今回の『プロポーズの機会喪失』を“王女と平民の恋物語”に降りかかる『愛の試練』になぞらえ語っているのだろうと好意的に解釈して笑みを浮かべている人垣を掻き分けるようにして、一体の給仕アンドロイドが試合場に飛び込んできた。そのオッドアイのアンドロイドはほぼ無表情で歩いてくる。手にはタオルとニトロの上着がある。アンドロイドはニトロの眼前にやってきた時、ほんの一時だけ、何だか泣いているような表情を作った。
「気ニ病ムコトナンテ何モナイヨ、主様。立派ダッタ。格好良カッタヨ。あたしハ誇リコソスレ、“負ケタ”コトナンテチットモ気ニナラナイ。機会ハ次モアルダロウ? ダカラ、胸ヲ張ッテオクレヨ、主様」
 ニトロにだけ聞こえる指向性の声は、震えていた。慰めるための感情一杯の声なのか、それとも純粋に感動で胸が一杯の声なのか、あるいはマスターを焚きつけた結果負けさせてしまったことへの痛恨の念もあるのか……芍薬が表情を無に戻したからには窺い知れない――いや、ニトロは考えを改めた。確かに痛恨の念もあるのだろう、だがそれ以上に慰めであり、またそれ以上に誇らしい感動であったのだ。
 ニトロは芍薬からタオルを受け取りながら、ハラキリを一瞥した。彼は「だから言っているでしょうに」とばかりに片眉を跳ねる。
 ニトロは、微笑んだ。
 ――芍薬とハラキリ。二人が認めてくれるなら、自分はいつだって本来いるべき場所に着地できる。
「ありがとう」
 今や彼の浮かべる微笑みは、何の偽りもない、心の底から誇らしく胸を張るニトロ・ポルカトそのものの笑顔だった。
 そして、試合場の、あるいはこの『場』の中心にいる三人の姿を、ティディアは壇上からパトネトと共に見つめていた。彼女は冑と剣をフレアに預けた後、余興の締めを告げるタイミングを計っていたのだが、その最中にニトロとハラキリと芍薬の作る空気に目を奪われ、我知らずため息をこぼしていた。
(いいわねー)
 あの三人の間には、まだまだ入り込めそうにない。
 最高の勝利――全てが思い通りに行ったというのに、その上、つい先ほどには何よりも得難い至福の体験すらしていたというのに、それでも手が届かないものがそこにある。
 しかし、三人の強い繋がりを目の当たりにしてなお、ティディアは微笑んでいた。もちろん悔しさはある。が、それでも、これだからこそ私は彼を求めるのだ。あの戦いを経た今、彼女には純粋にそう思える。
 いつか私もあの場所に混ぜてもらって、いつの日か、私も一緒に笑いあおう。
 ニトロとなら、どこでだって、誰とだって私も対等にその場所にいられて、そうして同じように笑いあえるはずだから。
「いいなぁ」
「?」
 一瞬、ティディアは我知らず羨望までもが口から漏れ出したのかと驚いた。
 が、違った。
 そう言ったのはパトネトだった。
 見れば、弟は少しだけ口を尖らせて、じっと三人を見つめている。
「……パティにも、きっといつか、あんな風になれる人ができるわ」
 微笑みながら、姉は言った。
 弟は姉を見上げる。
「それは、ニトロ君?」
「さあ、それは分からない。ニトロとかもしれないし、全く別の人かもしれない」
「ニトロ君とがいいな」
 ティディアは、パトネトの頭を撫でた。この子には、それからミリュウにも後でうんとたくさんお礼を言わなくてはいけない。
「そうね。私もニトロとがいいな」
 姉に頭を撫でられて、弟は面映そうに笑う。
 まだ『ニトロ・ポルカトという他人』にしか心を開かぬ弟だけど、しかし未来は既に開かれ始めている。彼がこれから出会う人間、彼がまだ望めぬ人間の中からも、きっと彼にとって重要となる者が現れることだろう。何よりも、彼自身は気づいていないが、ニトロだけでなく、この子はあそこにいる怖がっているはずのハラキリも含めて『いいな』と言ったのだから。
(何て素敵な日だろう)
 ティディアは微笑み、さらに思う。
 その素敵な日をさらに素敵にするために、もう一つ、最後の仕上げの企みがあるのだ。
 時計を見ればもう11時……少し、急がないといけないか。ちょうど観客達も『英雄』に近寄りたくてそろそろ痺れを切らしかけている。いい頃合でもあろう。
「さあて、ご来場の皆々様!」
 ティディアは声を張り上げ言った。まるで何かしらイベントの口上のような調子に、招待客らの目が一斉に彼女へと向けられる。プロテクターを脱ぎ燕尾服姿に戻ったニトロも、芍薬に形を整えてもらいながらそちらを見やった。
「本日開きましたるこの余興、何かと不備もあったと存じまするが、紳士淑女の皆々様にご満足いただけたとなれば、僭越ながらわたくしこれ幸い至極に存じ申し上げ奉りまする!」
 歓声が彼女に応える。
「それではわたくし、何ともはしたないほどに汗をかいてしまいましたので、ここで少々お暇を頂き、水浴びなどしてさっぱりして参りたいと存じます」
 つまり、衣装チェンジだ。また歓声が上がる。
「優勝者が手にする栄冠が何となるかは再び私が参りました折に。それまでは、どうぞ参加賞たる抽選会をお楽しみいただきとう存じます。
 なお抽選会は、引き続き我が最愛の弟が公平に取り仕切りますので、温かいお心をもってご参加下さいませ」
 そう言って、ティディアは一転真摯な顔を作ると右足を軽く引き、両手をまるでスカートを持ち上げるように動かし、膝を曲げ、次いで深く腰を折り曲げる。それから頭を垂れることで、彼女はアデムメデスでの貴婦人の最上の礼を行った。
 と、腰を折り、辞儀をしたまま、彼女がふと顔だけを上げ、
「ニトロ、今日は残念だったけれど、次はよろしく。私達に相応しい機会に今度こそ『うん』と言わせてね?」
 おどけた調子ながら、その声には限りない愛情が溢れ、ぶすっとしたニトロとの対比に奇妙なおかしさが会場にこみ上げる。そのおかしさはそのまま歓声と拍手となり、ティディアは温かな音に送られて、パトネトをその場に残し、自らは最後に微笑みを残して開かれた扉の向こうへと消えていく。
 すると試合場の形を保っていた青い光線枠も消え、その途端、ニトロは激しい既視感を覚えつつ叫んだ。
「うわぁぁお!?」
 驚愕に身を引く『英雄』めがけて――芍薬は彼を守るようにその場にいるが、ハラキリはいつの間にか消えている――招待客らが我先にとばかりに一斉に殺到したのであった。

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