勝者が決まり、全ての戦いが終わっても、試合場内に人は押し寄せない。近寄りがたい神秘性がそこには存在していた。――いや、『奇跡』の攻防の直後である。青い光によって他と隔てられた試合場は間違いなく聖域であり、外からは声と拍手という音だけが内に入ることを許されていた。
 そして、ホールに反響する大歓声の中、ティディアは剣を収めると冑を脱ぎ、脱いだ冑を小脇に抱えると踵を返し、勝者の誉れに胸を張り、凛々しく壇上へ向けて足を踏み出した。清々しい笑みを浮かべ、観客達の声援に手を振って応える彼女の額には大粒の汗が浮かんでいる。勝利を収め、拳を握り、勝ち鬨の声を上げるのではなくその喜びを噛み締めていた時に一気に噴き出してきたのだ。額から頬へ、頬から顎へと伝い落ちる汗は、蠱惑の称号を戴く美女にまた、得も言われぬ新たな美を与えていた。
 ロディアーナ朝最初で最後の内乱を治めた五代女王――『覇王姫』のイメージは、今や皆の脳裏から消し去られていた。伝説の『覇王姫』の鎧は過去の王女のために存在した物ではなく、この会場にいる者にとっては、その美しい鎧は現代の王女のためにこそ存在する物であると上書きされていた。余興の演出として用意された模倣、それが少なくとも今この時だけは“本物”と化していたのである。
 ティディアに、心からの声がかけられる。
 賞賛が、そしてその裏には、彼女の『恋人への想いの深さ』への礼賛もが。
 一方、ニトロは試合場のちょうど中心で力なく佇んでいた。何の因果か、終わってみれば決闘の始まりの位置に戻っていた。だが、そんな因果はどうでもいい。
(負けた……)
 千載一遇の好機が、手からこぼれ落ちた。
 自分にも歓声が、喝采が、賞賛が投げかけられている。いつしか流れ落ちてきた汗が目に入る。しかし、ニトロは何も気にならない。彼は壇上へ向かうティディアの背中以外、何も心に入れることができないでいた。
 去っていく。
 千載一遇の、最大の、奇跡にも勝る絶好機が。
 いや、もう去ったのだ。
 勝ち取れなかった。その事実は認めねばならない。そして賭けに負けた以上、この後にどんな『無茶振り』が待っていようと……正々堂々勝たれた以上は……受けなくてはならない。その事実も彼の心から力を奪っていた。
 何が何だか、色々折られた気分であった。
 ここまで彼女に『負けた』と思わされたのは、もしかしたら初めてのことかもしれない。
 戦っている時、あいつにも強固な意志があった。クレイジー・プリンセスとしてふざけている時には決して見られない、いや、希代の王女として大衆に向けて真剣に演説している時にも見られないほどの勝利への意志があった。それが自分への『愛』のためかと思えば――その深さにも打たれてしまう。認めたくはないが……しかし、全て終わった時、噴き出した汗と入れ替わるように、ニトロには一つの理解が浸透していたのである。
 ティディアは、勝利を噛み締めた後、ほんの一瞬だけ、こちらに慈愛の眼差しを向けていた。
 彼女の底深い黒曜石の瞳は言っていた――「これで大丈夫よ」と。
 一体何が大丈夫だというのか……それを理解することは、ニトロには容易かった。
 ティディアは全力で、何かを願おうとする『ニトロ・ポルカト』を受けて立ち、撃退した。となれば“勝ち取れなかったニトロ・ポルカト”は彼女に願うことはできない。それはすなわち、例えもしそれが『プロポーズ』であったとしても、いかな『ニトロ・ポルカト』でも彼女に願いを聞き届けさせるのは容易ではないという証明となるのではないか?
 しかも、ちょうど『ニトロ・ポルカトのお願いならティディア姫は簡単に言うことを聞くだろう』という思惑が透けて見えた直後でもある。きっとこの『余興』で彼女が身をもって明示したことは、この場にいる有力者のネットワークにこそ深く浸透するはずだ。
 と、いうことは、ティディアは――東大陸の“関係者”の言葉は偶然にしても――初めからこのためにこの『余興』を設けたのか。
 無論、これにはこちらが参加しないという事態や、あるいはどちらかが先に敗退するという不測の事態も考えられただろう。他にもリスクはあったはずだ。が、それらを考慮しても賭ける価値があると考え、あいつは、勝ったのだ。あらゆる全てに勝ち切ったのだ。
「……」
 ニトロは打ちひしがれていた。
 脳裏にはシゼモの一件が蘇っていた。そう、あの日も、ティディアは大馬鹿な『裏切り』をしでかしてくれる前には、こんな風に俺のためを考えてくれていた。
 ……あの時から、ティディアには、確かに愛があったのだ。
 愛が。
(……負けた)
 我知らず、ニトロはうつむいていた。
「胸を張りなさい、ニトロ君」
 その声に、ニトロははっと我に返った。
 気がつけば、空の鞘を手にしたハラキリがすぐ側にやってきていた。
 ティディアは立ち止まって、肩越しにこちらに振り向いている。
 観客は未だ試合場には入ってこない。王女と『英雄』の二人だけの戦場は未だ青い光線枠に囲まれてもいる。それも手伝い、王女と『英雄』の作る聖域だとか神秘性だとか、そういったことを全く気にしないハラキリ以外は入って来られないでいる。
 ……いや、違った。
 むしろハラキリが入ってきたために――ニトロ・ポルカトの親友にして、王女の胸の内をも代弁した彼であるからこそこの聖域に入ることが皆に許されていたのであり、また彼を『特別だ』と皆が認識した故に、それ以外の人間達は自分自身をこの場における明らかな“異物”であるとより強く認識してしまって余計に入ってこられないでいるのだ。口々に王女と『英雄』の決闘への感想を語り合うざわめきを作る一方で、彼ら彼女らの意識は、意識だけでもせめてとばかりに内に向けられて、少年二人が何を語り合うのかと耳がそばだてられている。
 その中で、ニトロに見つめられるハラキリはいつも通りの飄々とした顔をしている。
「君は立派でしたよ。『師匠』として実に鼻が高い」
 そして不器用に、ハラキリはウィンクをしてみせる。
 ニトロは思わず吹き出した。
 ハラキリのウィンクとは貴重なものを見られた。しかも下手だ。物凄く下手だ。
 ニトロはそのまま笑いたい気持ちにもなったが、しかし目を落とし、
「……知ってたのか?」
 ニトロは、ハラキリから鞘を受け取り、剣を収めながらそれだけ小さく聞いた。
 ティディアの目的が解った今にして改めてハラキリの突然の参戦を思えば、それはやはり芍薬が依頼してくれたのではなく、ティディアの意図に沿ったもののように思える。ただ、それでも疑問として残るのは、親友とあいつの間には『作為』で結ばれた様子は感じ取れなかったことだ。それを感じ取れなかったのは何故だろう? 巧みに隠されたのだろうか。それならいいが、しかしニトロが何より不安に思うのは、その“気づかなかった”という事実が、もしや自分がティディアに対して何らかの心情的な『隙』を生んでしまっているためではないかということだった。
 ハラキリは微笑を浮かべ、口を動かさず、ニトロにだけ聞こえる声で言った。

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