ティディアがふいに声を発した。
その声は小さく、それを聞き取れた者はわずかしかいなかった。
それでも誰もが理解した。
終わりがやってくる。
緊張が一気に高まり、再度ホールが沈黙する。
ハラキリも、グラム・バードンも固唾を呑んで見守った。
ティディアが気楽な様子で右手に持った剣を突き出す。
それは、あまりに突然のことで、またあまりに気楽な様子であったため、見ている者はそれが彼女の一体何をしようというものであるのか、理解が一瞬遅れた。ハラキリにグラム・バードン、別の場所ではフルセルまでもが理解できていなかった。見たままに言えば王女はニトロへ片手突きを放っているのだが、それが『突きという攻撃』であることを少しだけ認識の外側へずらされて、完璧なまでに虚を突かれ、そうして理解が遅れてしまったのである。
それは、百万の内に一つ見られれば幸運たる奇跡の突きとでも言おうか。
しかし、ニトロは、ニトロだけはそれにも反応した。
ティディアの突きが攻撃であると強者にも理解できなかったことにはもう一つ理由があった。
間合いが遠すぎたのだ。
されどニトロは自分の剣を持つ手に怖気が走ったことから、追ってティディアの剣先が手を狙ったものであることを知ったのである。
手を守るために、彼はとっさに手首を返す。
機械のように正確なティディアの突きである。その剣先は、ニトロが手首を返した分、彼の剣身と鍔との境に激突した。と――ティディアの剣が、くにゃりと曲がった。
「あ」
思わず、ニトロはうめいた。
それはこの特別製の剣の特性。“突き”による怪我を防ぐための、一方向への極端な柔軟性。……ここで、こんな形で、それを利用してくるとは!
ティディアは、さらにその刹那、ニトロの右横へ回り込むようにして一歩、速やかに接近していた。ニトロの剣から遠ざかりながら、しかし、彼女の剣の柄は彼にずっと接近してきていた。
(――ッ!)
理解したくなくてもニトロは理解する。『天才』の意味を嫌というほど実感する。
ティディアは、これを初めから狙っていた。
奇跡的な突きすらも捨て駒にして、こちらの防御反応も見越した上で初めからこうするつもりだったのだ!
ティディアの右手首が、返る。
彼女の剣の切っ先がニトロの剣から離れ、支えを失い――瞬間、バネが跳ねるように剣の形が戻ろうとする。人の意志の介在しない合金のただひたすらに物理的な反応。剣の軌道が全く解らない! 剣で防ぐのは不可能!
「クッ!」
それでもニトロは短く唸り、反撃していた。彼は最早どうして自分がそう動いているのか、どうしてそう動こうとしたのか理解してはいなかった。だが、腰を引くことで体の位置を後ろへずらし、なおかつ背を反らして相手の剣の到達時間を少しでも遅らせ懸命に自身の限界を超えた速度で剣を薙ぐ! 理解のないままに……彼を突き動かすのは、ひたすらに、執念。負けてたまるか、ここで勝利を……その執念!
リーチはこちらが勝っている!――剣は――届く!
ニトロの剣が先にティディアの脇腹をかすめた。
されど、ティディアの脇腹に“火”は灯らなかった。
そして、ティディアの剣は――
――ティディアが渾身の力で勝ち鬨の声を噛み殺し、その傍らで、左胸に紛うことなき“火”を灯されたニトロが……天を、仰いだ。
決着を目の当たりにして、ロザ宮は声を失っていた。
決着を目の当たりにしてなお、誰も現実の光景を理解できていないようであった。
王女の魔法のような突き。
それをも防ぐニトロ・ポルカト。
続いてティディアの剣が曲がったのは偶然のようにも見えたが、その後の迷いのない彼女の動きを見ればそれが“偶然”ではないことは明らかだ。さらに驚くべきは『“偶然”ではない“狙った偶然”』――それにすら初見で対応した『英雄』である。しかも彼はあのような信じ難い攻撃に対してすら反撃をしてみせた。
銀河最高峰のプロ剣士のチャンピオンシップでもお目にかかれないであろう奇跡的な一瞬。
歓声はなく、ひたすらに息が飲まれている。
いや、その静寂こそが大いなる歓声であった。
ニトロ・ポルカトから『プロポーズ』の機会が奪われ、それを見られずに終わった観客達ではあるが、未練はない。ただ『奇跡』を目の当たりにした感動が皆の心を支配していた。
やがて『奇跡』に飲まれていた息が観客達に戻り始める。
最初に起きたのは、ぱちぱちと、やけに可愛らしい拍手だった。
壇上にいるこの『余興』のシステムの監督者、パトネト王子が立ち上がっていた。彼が頭上に掲げた両手を懸命に打ち鳴らしていた。多くの注目を浴びても気にしない。気にする余裕がないのであろう、頬を紅潮させ、感動のためか大きな瞳を潤ませ、彼はひたすらぱちぱちと手を打ち鳴らしていた。
それに引きつけられるように、そこかしこでも拍手が鳴り出した。
ハラキリも心から拍手を送った。
それから声が戻ってくる。
グラム・バードンが咆哮するように賛辞を送る。
万雷の拍手、大歓声、大喝采!
その日一番の轟音が、ロザ宮を心ゆくまで揺らし続けた。