ニトロとティディアは、今や自分達の周囲でどのようなことが行われているのか全く理解していなかった。
 グラム・バードンがハラキリに話しかけたこと。
 ハラキリにライリントン嬢が質問をしたこと。
 その末に、ティディアの『最大の目的』が思いも寄らぬ形で具体的に達成されたことも二人は理解していなかった。
 今、二人の耳は何も聞いてはいない。
 今、二人は互いに手を読みあい、あるいは心までをも読み取りあうほどの最大の『敵』の姿しか目に入らず、それの音しか耳に入らず、それの動きしか認識されない――そう、極限の集中状態にあったのである。
 二人の視界には、もちろん『自分達以外の世界』も目に入ってはいる。なのにそれらは“情報”としてまったく処理されず、そのため二人にとって『自分達以外の世界』はのっぺりとした“背景”にしかならない。その背景にしても色彩の情報が混濁し、混濁の境界すらも曖昧で、白か黒かの一色だけにも見えるし、もっと無限の色彩の中にいるようにも思える。それでも“どこまでも意味のある存在”として目に映るのは、“どこまでも意味のない背景世界”から浮き上がって見える『敵』だけ。そうニトロにとってはティディア、ティディアにとってはニトロ――この二人だけが、今、この世界に存在することが許されていた。
 ――この世界。
 二人だけが住まう極限の世界。
 不思議なことに、二人は共に汗を流してはいなかった。あれほど動き、剣を振るい、スタミナも奪われ息も荒れてきているのに、二人の額には未だ汗の一粒すら浮かんでいなかった。それは、一つの証でもあろう。汗をかくことを体が忘れる――それほどの極限の集中力だけが生み出す二人だけの世界。
 その世界の中心で、突然、ニトロが不思議な構えを取った。
 両手で握る柄を右耳の横にまで持ち上げ、剣は地に対し垂直に立て、天地を貫く一本の槍のように体を真っ直ぐ伸ばして左足を前に出す。アデムメデスの宮廷剣術にはない構えだ。そして、
「クノゥイチニンポー」
 彼はつぶやく。
 じっと、この世界の中心に立つティディアを見つめて。
 見つめられるティディアは、ニトロの口にしたものがハッタリにもなり得ることを知っていた。その不思議な構えから何をしてくるのか。あるいは、何もしてこないのか。何かしてくるにしてもそれは彼の『師匠』が真面目に教えた奥の手なのか、戯れに教えたウケ狙いの隠し芸なのか。どちらにしろ、この場面でニトロのすることだ。油断はならない。彼女は迂闊には動かない。――動かないのが、ニトロには好都合であった。いくら平然と二手先を読んでくるティディアにしても流石に異星の剣ならば読み切れまい……この狙いは上手くいった。
 彼は大きく息を吸う。
 後は、ただひたすらに――!
チェストォ!!
 ニトロの雄叫びが耳をつんざく。声だけで押し倒されそうな大音声。それは裂帛の気合であり、殺気そのものであった。気の弱い者であれば声を聞いただけで降参を示してもおかしくないだろう。だが、ティディアには殺気の大音声すらもが心地良い。耳を震わせるだけでなく、体を芯から奮わせてくれる声と共に、彼は一気に間合いを詰めてくる。脚の勢いを腰で練り、腰で練った力を体幹で運び、上半身、肩、腕の力に上乗せし、全身の動きを連動させた渾身の力で剣を振り下ろしてくる。単純極まる直線的な突進と、何の裏もない真っ直ぐな斬り下ろし。受けるには容易い。受けて、そのままカウンターを決めようか? 大振りな一撃の後の大きな隙を突くこともまた容易なのだ。――が、剣を振り下ろす直前のニトロの双眸に閃いた輝きと、その心に満ちる全身全霊の勝利への意志が、脳裏に浮かぶ選択肢とは裏腹にティディアに自然とバックステップを踏ませていた。ニトロの剣が空を裂く。不思議な構えの謎の剣技、きっとおそらくは異星の剣術。もしそれを剣で受けていたら?――きっと私は負けていた、ティディアはそう思う。そう思わせるだけの風が吹いていた。ニトロの剣が生み出した鋭い剣風が、後退した彼女に追いつき、その頬を恐ろしく撫でていた。
 半ば屈みこむほどの渾身の初撃をかわされたニトロは、それでも直後には体を起き上がらせ、息をつく間もなく突進の勢いそのままに連撃を繰り出した。初撃をかわされたとはいえ、ティディアは真っ直ぐ下がった。あまりに真っ直ぐ下がってくれたから、ようやく彼女を自分の間合いに捕まえられる機会がやってきた!
「ッィィエエエエイ!」
 そうして彼は息の続く限り袈裟斬り・逆袈裟斬りと左右に振り分け打ち込んでいく。避けるには間合いが悪いと判じたティディアはそれを受け、いなし続ける。連撃には初撃ほどの威力はなかった。されど一撃受ければ彼女の手が痺れた。二撃受ければ鉛を受け止めたように腕が重くなり、三撃目には足もが重くなる。そのためニトロへ反撃することができない。何とか大きく回り込んで間合いを外そうと思っても先んじて彼は追ってくる。このまま受け続けていたら剣が手からこぼれてしまうだろう。その前にどうにか反撃に転じるか――否、ここは受け切ってみせる!
 ニトロは打った。
 ティディアは受けた。
 ニトロがさらに打ち、ティディアはさらに受ける。
 ティディアがいなし、ニトロはそれでも打ち込む。
 限界が来たのは、二人同時であった。
 ニトロの連撃が止まる。
 もしあと一秒ニトロが攻撃を続けていれば。
 彼は致命的な息の乱れを招いて自滅していただろう。
 ティディアの腕が下がる。
 もしあと一撃ティディアが剣を受けていれば。
 彼女の剣は手から打ち落とされていただろう。
 両者共に体勢を整えるため、一つ後退する。
 ニトロは喘ぐ血液に酸素を与えるために大きく息を吸い、ティディアは痺れて硬直したように柄に張り付く手を回復させるために懸命に力を抜く。
 二人は息を整えながら、睨み合う。
 見据え合い、見つめ合う。
 じっと視線を違えない。
 常に交わる視線が、いつしか二人の鼓動をそれぞれの耳にまで届ける導線となる。
 互いの呼吸がやがて同調し、深くなる。
  互いの体の熱が空を介して肌に伝わる。
   互いに読み合い、
    互いに読み取り合っているからこそ、
     互いの心の奥底までをも理解しているように感じられてくる。
    俺はお前に勝つ。
   私はあなたに勝つ。
  双方向のその単純な意図が、二人をこの二人だけの世界に強固に縛りつける。
 一種の快感があった。
 それは脳内麻薬のせいにもできよう。
 あるいはスポーツで言う『ゾーン』の恍惚なのかもしれない。
 だが、今こそティディアは思う。
 幸せだ、と。
 極限の意識が作る世界の中、気がつくと彼女の心の内で絶叫していたはずの『弱い私』が肩を縮め、いつしかどこかへ隠れ去り、爆発しそうな勢いで早鐘を打つ彼女の胸の中には、気がつけば、ただただ純粋なる歓喜が溢れていた。
 戦いが始まる前に、あれほど感じていた不安も恐怖も今はない。
 それどころか、未だにニトロには『私との関係を終わらせるための意志』があり、それはこの凝縮した世界でより濃密に伝わってくるのに、それでも彼女は歓喜に溢れ、天にも昇りそうな快楽に包まれていた。
 何故か?
 何故なら、彼女の心の内で今また愛の深まっていたために!
(ああ!)
 彼女の愛は高らかに歌う。
 こうして彼と戦っているこの時間は、なんと掛け替えのないものか!
 楽しい
 嗚呼、楽しい!
 彼だけだ。
 ニトロ・ポルカト、あなただけだ。
 どうしてあなただけなのかは解らない。
 けれど、こうして現実に私をここまで追い詰められて、それなのに私をここまで悦ばせてくれる男はニトロ・ポルカト以外にいないのだ。これほどに手応えのある獲物はなく、これほどに愛しく思える人間もいない。
 嗚呼、ニトロ、愛している。
 私はあなたが愛しくてたまらない。
 屈折している?
 そうだろう。きっと私の愛は歪んでいる。
 だけど、それでもいい。この気持ちだけが真実なのだ。この心臓に血よりも熱い火をくべられ、この命を太陽よりも眩しい魂で照らされて、私はこの世に産まれて来たことを心から謳歌している。『弱い私』の出る幕などこの世界にはない。嗚呼、この幸せは、『弱い私』では決して手に入れることのできない幸福なのだから!
(ねえ、ニトロもそう思わない!? とても楽しいでしょう!?)
 ティディアの内心の叫びに、ニトロが応える。
 両手に構えられた剣の先で、彼の双眸がはっきりと叫んだ。
(そう思うわけもねぇし楽しいわけもあるかド阿呆!)
 二人はその時、無言なのに互いの声を確かに聞いていた。
 しかし、無言なのに互いの声を聞いていたということを、二人はそのやり取りがあまりに自然であったために全く自覚していなかった。
 ニトロの強烈な『否定』を直接心に受けたティディアは、されど身震いするような微笑を浮かべた。
(これだからあなたのことが大好きでたまらない、何度言っても言い足りない、愛しているわ、ニトロ!)
 ニトロは何も言わず、だが、否定もしない。
 それで十分だった。
 今、私の愛を否定されない。
 それだけで泣きたくなるくらいに十分だった。
 ティディアは唇を震わせ、そして実在の声でこう言った。
「名残惜しいけれど、決着をつけましょう」

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