会場にはもはやどよめきもなかった。
 会場には、ただ沈黙だけがあった。
 二度の打ち合いの後、ニトロとティディアは互いに攻めあぐね、これまで剣先のみをぶつけ合い続けていた。間合いを取り合い、立ち位置の優位性を取り合い――時々ティディアが何もしていないのにニトロが慌てて大きく間合いを広げる。その度にティディアはどことなく嫌そうな様子を見せ、また、彼女の剣の動きをニトロは非常に鬱陶しそうに睨みつける。
 今、ティディアの右肩がわずかに下がり、今、ニトロの左膝がわずかに曲がった。と、次の瞬間、二人は互いに怖気を感じたように肩を揺らし、一歩ずつ下がり合って深く息を吐く。
 ……二人の、時に不可思議な動作を完全に理解している者は少ない。
 しかし素人目に解らぬことを二人がしていることだけは解り、その緊張感は、今や切羽詰った緊迫感へとまで移り変わっている。
 今、戦場に立つ二人に動きは少ない。
 今、この瞬間にどちらかが勝利を得るであろう予感もない。
 だが、誰もが目を離せなかった。
 グラム・バードンとフルセルの一騎打ちとはまた違う、その迫力。やけに冷たく、やけに心を落ち着かせなく、異様な重さを漲らせているその切迫感。段々と、二人の手にある剣が刃引きのされた模造品ではなく、触れれば切れる、まさしく、触れれば切れてしまう真剣なのだと思えてくる、見ているだけでも喉が渇いてくる!
 老齢の達人同士の戦いにあったのが畏怖ならば、王女と『英雄』の戦いにあるのは得体の知れない恐怖であった。
 気の弱い者の膝はその冷たい迫力のために震え、普段度胸があると自認する者も、その張り詰めた空気は冷たいはずなのに、手にじっとりと汗をかいている。
 ニトロ・ポルカトとティディア・フォン・アデムメデス・ロディアーナ。
 二人の足音と、時折剣の擦れ合う金属音、そして二人の気合にも似た呼吸音だけがロザ宮を厳かに震わせていた。
 ――と、
「解せんな」
 ふと、野太い声が沈黙を破った。
 グラム・バードンである。
 左の目で決闘を、右の目で灰色熊のような巨躯を見るように、皆の注意が彼にも振り分けられた。
「ポルカト殿は、たった数分の内に急に達人になったように見える」
 彼は独り言を言っているように見えたが、実際には傍らで腕を組む細目の少年に語りかけていた。が、ハラキリ・ジジは迷惑そうに眉を垂れるだけで応えない。その無礼さ、あるいは豪胆さに彼らを見る方が肝を冷やす。
「なあ?」
 グラム・バードンはそれでも気安く彼に声をかけた。顔の半分を決闘に、もう半分をハラキリに向けて朗らかに応えを迫る。
 ハラキリは、にこりと笑った。
「先ほどは数々の非礼、失礼いたしました」
「今度はしてやられんぞ?」
 公爵はにやりと笑う。
「それにしてもいよいよ貴殿が欲しくなった。どうだ、王太子殿下の前に小生の下につかぬか」
 ハラキリは嘆息し(これには特に貴族の人間が肝を潰した)小さく肩をすくめた。ここで話を切り替えることは、つまり話を本筋に載せるためにこちらの嫌な話題をあえて振ってきた公爵にやり返されたことになるが――まあいい。
 彼はちらりと公爵を一瞥し、その視線を再び決闘に戻すことで相手の意識を話題の中心へと誘導する。そして、
「良くも悪くも相性がいいんですよ。ティディア様と、ニトロ君は」
「相性だと?」
「ええ、相性です。相性が良い相手というのはやりやすい。しかし二人共に、相手が相性の良い相手だから、逆にやりにくい。その意味では、二人共に最悪の相性の敵と対峙していると言っていいでしょうね」
 ハラキリの声もホールに響く。どこかで納得の吐息がこぼれる。だが、
「なかなか面白い理屈だ。確かに現実にも見る『要素』ではあるな」
「例えばプロ格闘の世界ではしょっちゅう語られていることですね」
 ハラキリはあわよくば話をずらそうと試みたが、公爵はそんなフェイントには乗ってこない。彼はハラキリに同意のうなずきを小さく見せるだけで、間合いを詰め合う王女と少年を見つめ、
「しかしそれだけで――」
 と、次の瞬間、またも、ティディアが何もしていないのにニトロが大きく横に逃げた。
見えないフェイントにも的確な対応をできるものかな? これはあくまで実力の問題で、相性でどうこうなるものではない」
 その言葉に、またどこかで感嘆の息がこぼれる。
 ティディアが剣をわずかに動かしながらニトロを追う。それは公爵の言葉とは違い“見える”フェイントであったが、何を思ったかニトロが両手に構えていた剣を片手に持ち替え、体をかすかに半身に構え直した。見た目にはほぼヴォンの体の開き方で腕だけをビィオに構える中途半端な構えだ。が、すると彼を追っていたティディアがフェイントを止め、眉間に険を刻むや足をも止めた。
 その様子を見守る公爵の目には、ニトロから優位を奪おうとしてどうしても奪えずにいる王女の――免許皆伝の弟子の苦心がありありと見えていた。
「そして、あれほど間合いを極められるものかな?」
 ハラキリは笑い、
だから、良くも悪くも、それほど相性がいいんですよ。
 何だかんだでティディア様を最も理解しているのは彼です。だから虚動なんぞには引っかからないし、ティディア様の計算もご破算にできる。
 一方、彼を最も苦しめられるのはティディア様です。だから彼の抵抗は無効にされるし、非常に困難な壁となって立ち塞がる。
 公爵閣下の仰りたいことは判りますし、実に正しいご指摘です。実際、ニトロ君は達人ではない。彼はティディア様以外に対してはあれほどにはなれないでしょう。しかしティディア様に対してだけはあれほどになれる。これはあくまで“二人だけ”に通じる話。されど、なればこその『あの二人だから』――ですよ」
 どこか人を食ったかのような飄々とした物言いを、その真意を理解した者はどれだけいるだろうか。ほとんどの者はそれを恋人同士の絆の故と解釈しただろう。いくらかの者は考察の余地有りと受け取ったろうか。だが、グラム・バードンは違う。彼は完全に理解し、非常に含蓄深いものを噛み締めるような顔をしてハラキリ・ジジを目の端で眺めていた。
 そこへ、闖入する声があった。
「あの……」
 おずおずとした、反面どうしても好奇心に抗えないらしい声に引かれてハラキリが目を動かせば、公爵とハラキリの間に体を割り込ませるようにして同年代の少女が観客の内から現れた。ハラキリはそれが誰だかを悟った。自分の背後にいるであろう政治家の、つまり最大野党の副党首である彼女の歳の離れた父の顔が赤くなっているのが手に取るように解る。
 彼女を無下にあしらうのは簡単であったが、ちょっとした悪戯心(それとも意地悪心)を芽生えさせ、戦場ではニトロが突きを狙いかけて止めるのを傍目に、ハラキリは最大限真摯な口調で応えた。
「何でしょうか」
 その声色に勇気を得たか、少女が問いかける。
「なぜ、あんなにもして、ティディア様はニトロ様を拒むのでしょうか。勝ち取ってみせてと、本当はニトロ様を受け入れたがっていらっしゃるのに、なぜ、あんなにも?」
 あまりに無防備な問いかけに、思わずハラキリは笑いそうになった。
 ――ティディア様がニトロ様を拒んでいる?
 本当は全くの逆だ。ニトロ様がティディア様を拒んでいるのだ。
 しかし、そうは言っても彼女の質問はてんで的外れというわけではない。実際、現時点では、何も知らなければ、そして“何も考えなければ”、この光景はティディアが恋人からプロポーズを受け取る折角の機会を潰そうとしているようにしか見えないだろう。事情を知るハラキリだからこそ――ちらりと見れば公爵閣下は流石のポーカーフェイスだ――彼女の問いかけを意地悪に受け取ることができるのだ。
 とはいえ、それでも、“何かを考えるならば”この光景は彼女の言うようなものには見えないはずであろう? この光景には何かがあると窺うだけの材料は既にある。何しろ、
(お姫さんはそれを否定するための前振りをわざわざしていたというのに……)
 ハラキリはティディアへの同情半分、呆れ半分に思ったが、と、そこで考えを改めた。

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