「ッ!」
ニトロの突きがティディアの喉元に迫っていた。両手持ちから片手持ちに変えながら、半身を伸ばすように放たれる突き。流石はハラキリ・ジジの愛弟子と言おうか、その無駄のない動き、例えトップアスリートのように恵まれた筋力がなくとも、無駄を省いたが故に疾い突き!
タイミングとしては、避けられるものではなかった。
されど、剣先がティディアの喉へ届こうという直前、彼女の体は速やかに横にずれていた。たった半歩の横移動。しかし、トップアスリートのように、あるいはその中でも特に恵まれた筋質を備える王女の敏捷性は驚くべきものだった。
ティディアの頚動脈からたった数センチ離れたところを切っ先が通り過ぎる。
ニトロはそのまま剣を横滑りさせようとした。切れるだけの威力は要らない。刃で触れれば、それだけで勝ちなのだ。
だが、
「!」
ニトロはぞっとした。
得も言われぬ恐怖に突き飛ばされるように彼は尻餅をつく勢いで屈み込んだ。
すると彼の首があった空を王女の剣が通り過ぎていく。剣を振る動作など体のどこにもなかったのに、それなのに、気づけば彼女の剣は、もしそれが本物であれば首を刎ね飛ばせる威力で振るわれていた。
そのまま尻餅をつけばそこで負けると判じたニトロは強引に脚力を爆発させ、エビのように背後へ飛んだ。勢い背中から倒れこむようになり、その勢いを殺さぬままに後転して立ち上がる。立ち上がった時には、また彼は構えを取っていた。
ティディアは深追いをしなかった。
やはりニトロは恐ろしい。
ティディアは恐ろしい敵への警戒心のために顔を強張らせ、下手に深追いすれば一瞬の交錯の内に彼に殺されると判じ、目も鋭く
会場は、どよめいていた。
驚愕、感嘆、あるいは……恐怖?
希代の王女と『英雄』のファーストコンタクトはあまりに衝撃的であった。
一切の手加減や手心というものの感じられない、まさに当初よりの緊張感がそのまま剣筋と化したかのような鋭さ。
二人の手にしている剣が、いくら競技用とはいえ見た目には『真剣』そのものであることが今になって安全圏にいるはずの観客の心に怖気を走らせていた。
その剣が、もし見た目のままに『真剣』であったなら……二人は、そこに対峙する『恋人達』は何という……!
一方、観客とはまた別の意味でティディアの心にも怖気が走っていた。
そう、やはり、ニトロは怖いのだ。
(解ったでしょう?)
彼女は胸中にそう問いかける。ここは、この戦場は、『弱い私』――お前がのこのこ顔を出せる場所ではない。お前は彼に勝ってもらえればいいのかもしれないが、断言する。もしここで私が負ければ、殺されるのはお前自身だ。
「……」
ティディアは誰にも悟られぬよう、唇の内側を小さく噛んだ。……足りない。噛み切った。口の中に血が広がる。鉄の味が舌を這い、新鮮な生臭さが鼻の裏を刺激する。
「ふう」
と、小さく息をつく
や否やティディアはニトロへ斬りかかった。
上段から脳天へ真っ直ぐ打ち下ろすために剣を振りかぶる。ニトロは応じて防御のために剣を寝かせる。と、その瞬間、ティディアは突きを放っていた。フェイントにしても直前の形から変化する凄まじい速度、驚くべき技であった――が、ニトロは突きが放たれるより刹那の前に小さくバックステップを踏み、寝かせていたはずの剣を振り下ろしにかかっていた。されど既に王女の刃は彼の体には届かない。もはや互いに互いの刃が剣を持つ手にすら遠く届かない。それでもニトロは剣を振り下ろす。それは防御のための“弾き”ではなかった。ティディアは理解する。ならば狙いは、
(打ち落としか!)
ティディアは歯を食いしばり――ニトロの剣がティディアの剣の背を叩く! 限界まで伸ばされていたティディアの腕に痛みが走り、その衝撃に彼女の手から剣がこぼれそうになる。しかし前もって力を込めていた彼女の手は彼の『打ち落とし』に堪え切った。
ニトロが、ティディアから見て大きく左に回り込みながら、右手に持った剣でやはりティディアから見て左から右に抜ける横薙ぎを狙ってくる。
ティディアは己の剣の切っ先を、現在彼のいる場所から、彼女から見てわずかに右に置いた。
するとニトロがびくりとして動きを止める。
彼の横薙ぎは間合いからわずかに外れていた。それはフェイントであり、剣の動きに沿いながら体を横にずらし、また剣筋もずらしての変則的な軌道で彼女の頭を打とうと狙っていたのだ。
それを、まるで……いいや、まるでなどではない。それを二手先から完全に見切られていたことに戦慄し、ニトロはまた一度間合いを広げる。
(……まったく)
今の攻防で解ったが、距離感はティディアが完全に上だ。半端な距離は不利である。どちらも触れ得ぬほど広く取るか、あるいはゼロに詰めるか。どちらにしても勝利を奪うには剣の間合いに入らねばならず、純粋なリーチはこちらが上であってもそれは難儀である。距離をゼロに詰めての力比べならこちらが勝てるが、しかしその際には怪力のヴィタすら投げ飛ばす王女の技を警戒しなくてはならない。何にしても、やはり簡単にはいかない。
その上、こちらは一手先を読むのがやっとであるが、あちらは少なくとも二手先を読んでくるらしい。いや、もっと先まで読めるのかもしれない。フェイントはまず通用しないだろう。初めから解り切ったことではあるが、やはりティディアは恐ろしい。
「……」
彼は唾を飲もうとして、ふいに気づいた。
喉がカラカラに渇いていた。