ティディア姫は背を向けたままである。
 ニトロ・ポルカトは残り数歩のところにまで接近している。
 背後からの斬りかかりを大歓迎する型破りな王女である。
 そして変幻自在に戦える上、公爵へジャーマン・スープレックスをかますようなある意味彼自身も型破りな『英雄』である。
 観客達は、理解できなかった。
 何故、ニトロ・ポルカトは隙だらけなティディア姫へ斬りかからないのだろうか。
 背を向ける天才剣士を目前にして、千載一遇のチャンスであろう? なのに、ニトロ・ポルカトは剣をだらりと提げ、じいっと王女の“全体像”を見つめて動かない。わずかな踵の動き、わずかな腰の捻り、わずかな肩の予備動作――その全てを見逃すまいと、じいっと警戒を続けている。
 それはまるで、背を向けているティディアが自分の位置を正確に把握していて、あと一歩でも間合いを詰めれば先手を打って斬りかかってくるだろう。……そう予期しているようであった。
 大きな疑念の混ざる不思議な緊張感の中、ティディアがゆっくりと振り返る。
 ニトロはまだ剣を構えない。彼は王女を真っ直ぐ見つめている。
 ティディアも構えない。彼女は伏目がちに英雄を見つめている。
 量産された鎧と冑を纏う少年と、明かりに映える白い鎧に身を包み、この星で高貴な色を示す黒紫の瞳を輝かせる王女の作る光景には何とも言えぬ雰囲気がある。戦いの終わった静かな戦場で、その戦に勝利をもたらした平民上がりの騎士が共に戦火を生き抜いた王女の下へ歩み寄ってきた……とでも言おうか。公爵と老剣士の作り上げた聖域とはまた違う、静謐な厳かさがそこにあった。
 周囲が静まり返る中、二人はしばし対峙し合う。
 やがて、ティディアがニトロを真っ直ぐ見据え、口を開いた。
「二人きりね」
 ニトロは応えない。
 彼の目は鋭く、口は一文字に結ばれている。
 明らかに集中しており、明らかに、勝利への執念を瞳に灯している。
 ティディアは気圧されそうになる『弱い私』を押し殺し、もう一度言った。言わねばならぬことを、言った。
「ねえ、ニトロ。あなたの『お願い』は何かしら」
 周囲がざわついた。
 ここでそれを聞くかという驚きと、彼は我々の思う通りの願いを言うだろうという期待が表出する。
 ニトロは、言った。
「お前は、知っているだろう?」
 彼の答えは周囲の期待には応えていない。しかし、それでもざわつきは大きくなる。彼の願いを『彼の恋人』は知っているという事実に、否が応にも心をくすぐられる。
「そうね、知っているわ
 ティディアがそう言うと、ざわめきの中に黄色が差し込んだ。
 彼女は婦人達の恋物語への関心の高さを利用するように、続けた。
「叶えて欲しい?」
 黄色い声が静まり、固唾が呑まれる。
「叶えて欲しいものだな。ひょっとして、今ここで聞き届けてくれるつもりか?」
「どう思う?」
「そうは思わない」
「何故?」
「『何故』? それはお前が一番解っているだろう。もし俺が、俺の頼みならお前は二つ返事で叶えてくれるとでも思うようなら、ここで今こうしてお前と剣を向け合うことになんてなってない。とっくの昔に愛とやらじゃあなく怒りをもらって、今頃どこかでひっそりと暮らしているだろうさ」
 ティディアは、微笑んだ。
 それは不思議な微笑だった。
 ニトロが当てこすりをしていることを理解しながら、それを満足に感じ、それ以上に至福を感じているような微笑み――ニトロは、まさか自分がティディアの希望に100%適ったセリフを吐いているとは露にも思わなかった。何故なら、これは『いつものこと』だからだ。いつものように皮肉を返した、そこにティディアはいつもながらの満足の笑みを返してきて、しかし、いつもと違うのは、どうやらティディアはいつも以上に喜んでいる。
 何かがある――そう思ったニトロは、一つかまをかけるように言った。
「それとも、今日だけは『特別』なのか?」
 ニトロのセリフに、やや沈みかけていた周囲の期待がまた高まる。
 ティディアは微笑みの下で歯を食いしばっていた。指も痺れている。ともすれば、最後の最後で私に大きな幸運を運んでくれているニトロに抱きつき大声で愛を叫んでしまいそうだ。彼女はその歓喜を押し殺すために、あえて恐怖と不安を胸に呼び戻した。これから彼と――こんなにも愛しい彼と戦うことへの……あるいは、彼を失うかもしれないことへの恐怖と不安によって頭を冷やし、そうして声も冷静に、言う。
「あなたは、そうね、『特別』よ。そして今日を『特別』な日にしたいとも思う」
 周囲の期待が、さらに高まる!
 しかしニトロはその期待が裏切られることを知っていた。続けてティディアは言うだろう、
「だからこそ特別に願うわ。愛しいニトロ、あなただからこそ私から勝ち取ってみせて」
 やはりティディアはニトロの思った通りのことを言った。一方で思った通りのことを言ってもらえなかった婦人達が少しばかり失望の色を差す。と同時に、改めてそう宣告した王女の声に強固な意志が込められていることを察する者がいた。ティディアが朗々と続ける。
「全力で私を打ち負かし、そして私の心をあなたの言葉で奪い取って。そうすれば、あなたは私の魂までをも永遠に手に入れられることができるわ。ねえ? 愛しいニトロ、私とあなたの特別な関係は、そういうものでしょう? この特別な日に、そうでなければ意味がないでしょう?」
「……ああ、そうだな。その通りだ」
 二人のやり取りに、再度周囲が固唾を呑む。婦人達の失望は一息に吹き消された。そこには、二人だけの世界があった。『恋人』以外の人間が立ち入れない世界があった。そしてそれを支えるのは、あまりに強固な二人の意志である。それを見れば、どれほど二人が反目しているように見えたとしても、どれほど二人が理解しあい信頼しあっているのかが伝わってくる。婦人達のみならず、この場には、それだけ強固に心をつなげあっている二人への羨望の眼差しが生まれていた。
 ティディアは――私がニトロを愛しながら、それなのに彼の頼みを容易には受け入れない――それを改めて強調しながらの“地固め”が(しかもそのことをニトロも受け入れているという事実のオマケつきで)上手くいったと内心安堵しながら、一つ吐息をついた。そうしてニトロが何かを言う前に、
「それにしても、私は隙だらけじゃなかった? ニトロ、あなたは最後の勝ち取るチャンスをみすみす逃したのよ?」
 どこか挑発じみた口調である。ニトロはしばし黙する。その沈黙が周囲に緊張感を取り戻させる。彼は、言った。
「いいや、お前に隙はないな」
 その声は、この宮殿に来て彼が発したどの声にも似ていなかった。ドスの利いた声というわけではないが、それを耳にする者は彼の“敵意”に震える思いがするのであった。
 ――本気である。
 ニトロの様子に『余興』への趣はない。
 その一瞬に、もう誰もが気づいていた。
 勝ち取ってみせて――王女のセリフがリフレインする。
 その通りだ――『英雄』の肯定がリフレインする!
 静けさの中、観客達の心に未だしつこくこびりついていた『運命の一戦』へ向ける“安堵”や“期待感”が霧散していく。それでも『恋人達の行く末』を見守ろうという気配は消えないが……いや、安堵や期待感が消えたからこそ、二人の決着がどのような形となるのか観客達には一向判らぬものとなり、結果、一層この『運命の一戦』を見守ろうという気配が生まれていた。
 そして、それと同時に、いかに本気だとしても何故この“愛し合う”二人がこれほどの緊張感を生んでいるのかということへの戸惑いも生まれていた。
 ティディアがため息をつく。
「隙がない?」
 問いかけられても、ニトロは肯定のうなずきも返さない。
 ティディアは微笑み、
「やーねー、こんなに私、隙だらけなのに」
 両手を無造作に広げる彼女の口調はいつもの気軽な『ティディア姫』のものだ。その声音は緩やかで、この緊張感にあってなお聴く者の心もふと緩めようとする。実際、彼女の背後にいた『社交界の情報源』たる夫人の娘が――他人の影響を受けやすいのだろう――少しばかり肩から力を抜いていた。他にもちらちらと、ニトロの視界の中だけでも、男女問わずに王女の言葉にくすぐられたように微笑を湛える者も見える。
 しかしニトロは、剣を構える。油断なく、両手でしっかりと剣を握る。
 宮廷剣術、両手持ちのヴォンの構え。
 その立ち居にこそ隙がなかった。無論、グラム・バードンやフルセル――そしてティディアといった剣豪にかかれば甘さもあるのであろう。されど観客の大多数は、剣を構えたニトロに対し一種の畏れを胸に抱いた。
 今の彼には近づけない。
 近づけば、彼の剣をかわせはしまい。
 事実、命懸けの戦いを切り抜けてきた戦士の佇まいにほとんど誰もが魅了されていた。――ティディアも、魅了されていた。
 その時、ニトロが一気に間合いを詰めた。
 ニトロ自身、何故その時に体が動いたのか判らない。しかし、ここだという内なる声が彼を突き動かしていた。
 ティディアは――完全に虚を突かれた

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