ティディアが観客の一人を見れば、その紳士は王女の視線に気づかず、ただ彼女の背後へ戸惑っているような、それとも驚いているような目を向けている。しかしその引き締められた口元は、おそらく、彼の見る先にいる『英雄』の顔を映したものであろう。
「っ……」
ティディアはその瞬間、胸が張り裂けそうになるのを感じた。手の汗が量を増す。額に熱がこもり、滲もうとする汗を必死に抑える。急に心が千々に乱れそうになる。ああ、喉が渇く! 彼女は静かに深呼吸をした。
(――そう)
私は、例え請願者が愛するニトロであっても簡単には願いを聞き届けない! 皆は思っているだろう『きっと、姫様は恋人に勝利を譲られるだろう』……そんなことはないのに。そんなことはないはずなのに!
しかし今、彼女は思う、心の片隅で、どうしても思ってしまう。
――ニトロの願いなら『叶えてやりたい』――どうしてもそう思ってしまう自分が確かに存在する!
初め、ティディアはそんな愚挙極まる己の思いを軽く否定した。
されど、いつまで経っても否定しきることはできなかった。
それどころか、初めは軽く否定できたはずのその思いは日が経つにつれて重みを増し、否定される度に粘度を増し、そして、とうとう今になっても彼女はその考えを心の中から移動させることも引き剥がすこともできないでいた。
だが、それもそうであろう!
ティディアには、本当は初めから解っていた。
その愚挙極まる己の思いは……『叶えてやりたい』と私に囁くのは、他でもない、『弱い私』なのだ。彼を愛するが故の不安、恐れ、そういったものをぎゅっと抱え込む『弱い私』が生み出す絶叫なのだ! それを心から捨て去ることなどできるものか。何故なら『弱い私』にも一理がある。彼の願いを叶えないと、ほら、そうしないと――そうよ、そうしないと私はもっと嫌われちゃうんじゃない?――いいえ! 元々嫌われている私が今更この程度のことで……でも、嫌われているのだからこそ、ほら、馬鹿な私、そんな強がりを言っていないで? ね?
(……)
グレイフィード宮殿の――初め五代様のものであった宮殿の鏡の中に見た私が問いかけ続けている。少しは折り合いをつけたと思ったのに、またそちらからおどおどと手招きをしてくる。弱々しい態度のくせに、やけに強く頑迷に自己主張を繰り返し続けている。
「……」
ティディアは呼吸を整え続けた。
ニトロに背を向けたまま……いいや、ニトロに目を向けられないまま。
彼のその決意に固めた表情、その願いを秘める瞳をまだ見たくない。
私は彼を愛しているのに、彼は私と別れるために戦う。
彼のその思いが強ければ強いほど望ましい状況なのに、彼の思いが強ければ強いほど私は苦しい。
今更?
そうだ!
今更だからこそ、苦しい!
「……」
大体、これは彼と一騎打ちになることが理想であると考え至った時から解っていたことだろう? ティディア・フォン・アデムメデス・ロディアーナ。
彼と一騎打ちになればこの苦しみとも戦わねばならないのだと、お前は解っていた。
そうだ、全ては『今更』だ。
しかし、彼が拒絶してくるのは今更のことだが、今日はいつもとは違う。今日は、彼の『拒絶』が実現する絶好機。それも私自身が叶うことを保証したこの機会。彼の拒絶の表出はいかほどのものだろう? それを見るのが怖くて未だに彼へ振り向けないまま、振り向けないほど怖い拒絶を胸に戦う彼と相対し続けることを予感すれば、ここにはただただ息もできないほどの苦しさしか存在しない。
ああ、だけど、それだけならまだ良かったのかもしれない。
何よりも怖いのは――『弱い私』がまたも言う。「私が彼に譲れば、愛のために譲れば、彼はそれで
「……」
ティディアは、己の人生でこれ以上ない緊張を味わっていた。
負けてはならない。負けたくない。絶対に負けてはならない!
だが、ニトロ・ポルカトは強敵だ。
もちろん、彼と私の腕の差は歴然としている。私は剣を持ってニトロに負ける気はしない。『映画』では負けたが、あれは私の実力ではない。あれこそ余興だった。本気を出せばグラム・バードンからも勝利を奪える私が、ハラキリ・ジジにも勝てないニトロに負ける道理もない。
なのに、ティディアは、どうしても確固とした自信を得ることが出来ないでいた。
ニトロに負ける気はしない。
けれど、勝てるとも思えない。
ニトロは時に驚くべき力を発揮する。絶望的な実力差があったとしても、これまで数々の困難を乗り越えてきたように、時に驚異的な爆発力で状況をひっくり返してしまう。
そうして私は、打ち負かされてきた。
そう、そうして彼は私を打ち負かすのだ!
もしかしたら、今夜も?
でも……もしそうやって打ち負かされてしまったら、私はどうしよう……
「――ッ」
ティディアはその時、全ての不安を振り払うように一つ大きな息をついた。
(五代様も、出陣前はこんな心境だったのかしら?)
時を経て伝説となった女性のものと同じデザインの軽鎧で守る胸に、目を落とす。
(貴女は国の命運を懸けて戦ったけれど、それは私も同じなのよ――って言ったら、怒られるかしら)
冗談めかせた思いを千々に乱れそうな胸に無理矢理流し込み、精神を整える。
手汗で滑らぬよう剣を握り直し、感触を確かめる。
(……よし)
ニトロの足音はもう直後まで来ている。
周囲の観客の目、無数の視線それぞれの角度を比較することで互いの距離は計算できる。
そのまま彼は背に斬りかかってくるだろうか?
(いいえ、きっと、斬りかかってこない)
それは彼が今更騎士道に則るためではなく、背後へのカウンターが得意な私に――彼の位置からは私の持つ剣の位置が把握しづらいはずだ――背中から斬りかかることは危険だと、きっと鋭く感づくために。
そしてティディアの予想の通り、ニトロは、いつまでもそれ以上は進んでこなかった。