跪き敗北を認めたグラム・バードンの肩に、東大陸の伯爵の時と同じく受勲の儀式のように剣を当てて失格の“火”をつけた後。
 笑顔で歓声に応え、ゆっくり試合場中央へと歩きながら、ティディアは早鐘を打つ胸の中で全ての幸運に感謝していた。
 ニトロと最後に一対一で戦えることに。
 ハラキリが難敵である我が剣の師をよく抑えてくれて、最後には決定的な勝機を作り上げてくれたことに。
 それにしてもハラキリの突然の参戦には驚いたものだった。
 彼に剣を渡す時、彼にははぐらかされたが、状況的にミリュウがパトネトに協力を求めて――パトネトが直接、はない。弟は彼を怖がっている――『保険』をかけてくれたのだろう。この結果から慮れば、グラム・バードンを抑えることが本来の目的ではなく、場を自分とニトロの『一対一』に整えることこそが依頼だったろうか。
 だとしたら、妹は私にはできなかったことを見事に行ってくれたことになる。
 その依頼について言えば、実はティディアにもハラキリにそのように依頼しようという“思惑”はあったのである。何故ならこの余興のラストとして『王女と英雄の一騎打ち』以上に最高の結末はなく、また、そうでなければならないために。
 しかし、ティディア自身がハラキリに依頼するには、非常に大きな問題があった。その大問題とは、彼女の『作為』に鋭いニトロ・ポルカト。他の誰でもない、ティディアを悩ませるのはいつだって彼だけなのだ。
 今回、特にティディアに苦悩を呼んだのは、彼女がニトロを“企て”の内に入れている状況下での彼の勘の鋭さだった。その感度は異常の一言に尽きる。もし彼女自身が事前の“思惑”を実行しそれを『保険さくい』にまでしていたら、それとも妹に『保険ほけんをかけるよう』頼んでいたら、きっと彼はいずこからともなく何らかの違和を感じ取り、警戒し、ハラキリが身も名も犠牲にするようにしてまで作ってくれた絶好機にもこちらと協力して挑むことはなかっただろう。それどころか、途中で自らリタイヤする可能性だってゼロではなかったはずだ。
 それを考えると、自分がハラキリに頼むのはあまりにリスクが高い。
 しかし、この余興にかける『最大の目的』のためにはハラキリの協力は喉から手が出るほど欲しい。なのに、その『最大の目的』のためにこそ――ニトロをちゃんと参加させるためにこそ彼の協力を一切諦めねばならぬ酷いジレンマ。
 さらにこの余興を決して『出来レース』にしてはならないという問題もあった。ニトロには私の庇護を除いて実力で勝ち上がってもらわねばならない。何故なら、そうでなければ『最大の目的』の説得力が薄れ、従ってその効果までもが薄れてしまうからだ。下手にハラキリを“味方”にすることは簡単にニトロを生き残らせることにもつながり、それは参加者にも観客に『出来レース』を印象付けるだろう。それではいけない。この余興は、もしかしたら決勝は王女と“ニトロではない誰か”かもしれない、そう思わせるような真剣な『余興』でなければならない。あるいは優勝者は王女でもニトロでもない誰かでは? と思わせるようなものでなくてはならない。その上でのニトロと私との決勝戦こそが理想なのだ。ハラキリは、何も言わなければその性格から参加はしないだろう。私の意図を知れば彼は『出来レース』を避けたうえで上手く振舞ってくれるだろうが……しかしそうすれば、間違いなくニトロに疑われる。ハラキリの行動からは感づかれずとも、頼れる友達への私の信頼感からきっと感づかれる。それならいっそニトロに私の意図を話してしまうのは?――駄目だ。あのシゼモの時と同じく、ニトロに意図を知られていてはこちらの目的は果たせない! では、やはりハラキリには何も頼まず不参加を促すか。でも、彼の助けがなければ、あとは運の助けに頼るしかなくなる。しかしそうなればほとんど不確定要素だけで計画が成り立つことになってしまう。混戦という紛れの生じやすい中で、それはどうにも怖ろしすぎる。やはり彼の助けは欲しい! それなら一体どうすれば!?……
 結局、“サプライズ”としてこの余興を思いついてからおよそ一月に渡る思索と逡巡の結果、彼女はついに『保険』としてハラキリに頼み込むことは手控えた。それにしても人事を尽くした上に天命を引きずってでも連れてくるのがポリシーのこの私が、人事を尽くせぬまま“運頼み”に走るなど!――だとしてもやむにやまれぬ、苦渋の決断であった。実際、どうやらこちらの意図を察してくれたらしい彼の素晴らしい働きを思えば、苦渋どころではすまない決断でもあった。
 ――だからこそ、この状況で妹が与えてくれた『ハラキリ・ジジという保険』はまさに最高の贈り物であった。自分の作為が介入していない分、こちらも彼の行動には戸惑い、彼がどのように動くかという不審が胸にある。それはニトロに対する絶好の目くらましとなろう。まさにこれ以上ない最高の贈り物であった!
(……何だか、私には過ぎた妹になってきたわね)
 ミリュウが、あんなにも惨い仕打ちをしたこんなにも非道い姉のために、これほどまでに気を遣ってくれることが……心の底から嬉しい。
 そして彼女は思う。
 全てが上手く回った今、こうなると本当に、
(あの時、ニトロが私の願いを聞き入れてくれなくて良かった)
 北副王都ノスカルラのチャリティーイベントの楽屋で、ニトロ、あなたが『髪を伸ばしたい』という私の希望を拒絶してくれて、本当に良かった!
 あの時と現在では状況が大きく違っている。
 当時は髪を伸ばすことが――恋心に片目を潰されていたことは否めないまでも――自分のために“より最善”を得られることに間違いはなかったが、東大陸での一件が燃えている今、髪を伸ばすことよりもこちらの『余興』の方が“より最善”を得られるものに変じている。しかもその“最善”は、東大陸の一件を背景にすると、現在の自分にとって何よりの喫緊の課題ともなっているのだ。
 そう、東の領主会議ラウンド・テーブルで激怒する直前、彼女はその激怒の結果、少なからずニトロに迷惑がかかることを予期していた。
 そして実際、“その言葉”は会の前に聞くこととなった。
 ――『ニトロ・ポルカトの取り成しがあるのではないか』
 私は、無敵の王女。
 私は恐怖のクレイジー・プリンセスだ。
 そしてニトロ・ポルカトは、その私を唯一、いざともなれば力づくで止められる人間である。
 今や『英雄』とまで言われる彼の初期のあだ名――『身代わりヤギさん』……その性質は、彼が『英雄』となった今でも変わらない。いいや、『英雄』となった今だからこそ、その性質への要求は以前とは比べものにならぬほど弥増いやましていると言っていいだろう。
 その要求は、こう述べる。
 ――いざともなれば彼に頼ればいいや
 私が“無敵の”王女であればあるほど、“英雄”である彼への期待とその要求は否が応にも高まってしまう。
 ……高まるだけならまだいい。
 彼への期待とその要求は、最悪、しかしそう低くない確率で、いつか身勝手な押し付けへとまで高じることだろう。
 そうなれば、王女ティディアから(『クレイジー・プリンセス』ではない、『王女ティディア』からであっても)少しでも不利益を受ける者は、貴族も民も、階級資産に隔たりなく必ず『ニトロ・ポルカト』を呼ぶこととなろう。そして言う。私達を助けてください。貴方様は英雄でしょう? 助けてくれるでしょう? いいや、助けてくれるはずだし、助けなければならない。何故ならあなたは英雄であり、私たちよりずっと強く、地位も名誉もあり、何よりあの暴君の恋人だ。例えお前がどうなろうとお前にはその義務がある!
 直接口に出す者は少ないだろうが、その眼差しをニトロが察しないわけがない。
 それに対面した時に彼がどう対処するかは判らないが……きっと芍薬やハラキリが支えになってくれると思うが……それでも、苦しむことは間違いがない。実際、今だって苦しく思っていても無理はない。少なくとも動揺はしているだろう。――王史には、市井の出の王が自殺した歴史も刻まれている。その王は、暗愚の王女に見初められたその男は、元々とても聡明で優しい人だった。彼とニトロが同じだとは言わない。が、それでも悲劇の前例として無視することは絶対にできない。
「……」
 もちろん、あの『ニトロ・ポルカトの取り成し』を期待した者――その“関係者”を、あるいはその“関係者”が下っ端であればその主人を私は許さない。ミリュウの取り成しとレド・ハイアンの出方次第で領主の大半を許すことになったとしても、その発言をした“関係者”だけは必ず洗い出して厳しい処罰を下す。見せしめとして。そのように厚顔な愚考を口にすることがどれだけ浅はかであるかを、横暴だ暴君だ何だと言われようとも私は徹底的に知らしめる。
 だが、それだけでは、足りない。
 それで例え何十人が、あるいは何百人が路頭に迷うことになっても、それだけでは打ち込む『釘』が浅過ぎる。何故なら、王女に無情に罰される貴族らの、私の激怒を買ったその理由が明確でなければ、それはあらぬ憶測を生み、それがレド・ハイアンに与しなかったからだと理解されるのであればまだいいが、ともすれば大衆にはただ『クレイジー・プリンセス』の“気分”としか意識されない可能性まであるがために。
「……」
 試合場中央に辿り着いたティディアは、周囲に安堵が満ちていることを見て取り、その安堵を顔に浮かべるほとんどの者が“甘い結末”を期待して、そうして既に試合を見守るのではなく、恋人達の行く末を見守りに入っていることをも見て取った。

→3-f04へ
←3-f02へ

メニューへ