大きさを調整されていく試合場――ざわめくロザ宮ホールの中央にぽかりと開いた空間で、ニトロは周囲の空気の変化を感じながら、その心中では寒いものを感じていた。
 彼は己の手の内、鞘に収めた剣へ目を落としている。
 グラム・バードン公の一撃を防ぐため、彼は剣を鞘に入れることを選択していた。フルセル氏と公爵の戦いを見ていて、そうしなければ自分の腕では力量では剣を折られる――そう思ってのことであったが。
(本当に、良かった)
 合成木材製の硬い鞘は半ば割れていた。しかも剣は微妙に歪んでしまっているようであり、さらに、どうやら金属製の剣身がちょっとばかり斬られている。その部分がササクレのようにめくれて内部で引っかかり、いくら引っ張っても剣を鞘から抜くことができない。
「……剣を換えるのは?」
 ニトロは壇上に向かって訊ねた。
 壇上にいるゲームマスター・パトネトが大きく丸を作る。彼は大好きな姉と『兄』の活躍に喜色満面である。純粋な喜びに支配された幼い心は自身の『他意』をまたも忘れさせていて、それ故にニトロは何の引っかかりもなく可愛らしい『弟』へ微笑む。ニトロが軽く手を振ると麗しき王子も手を振り返す。その様子に若い婦人達が黄色い声を上げていた。
「さて」
 ニトロはつぶやき――と、その時、こちらに一瞥もくれずに試合場中央に歩いていくティディアを視界に捉え、異様な感覚を味わった。
「?」
 共闘のために極めて短く打ち合わせた時のティディアは、いつもの憎らしいほど得意気で才気溢れる彼女であった。こちらが目で促しただけでハラキリの意図を察し、一言を言う間もなく話に乗ってきて、周りの参加者を一掃する間に作戦を立案し、要点だけを抜粋した箇条書きをそのまま口にするような簡潔極まる言葉だけでこちらに内容を十分伝えてくる。その時の様子には勝機を逃さんとする眼差しの他に特別おかしな点はなかった。
 だが、今、ニトロはティディアの横顔におよそ彼女らしからぬ『影』を見た。
 この余興の盛り上がり。
 その上――自分で言うのもなんだが、決戦として最高のシチュエーションとなったであろうに、ティディアの目には上機嫌というものが欠片も見えなかった。それどころか、自分の目は、あの反則じみた天才の顔に、これから何十年と続く苦役に直面した囚人が目の下に浮かべるような青褪めた黒を見たのである。
 振り返ってよく見ようとしてみると、試合場の真ん中に辿り着いたティディアは、こちらへずっと背を向けて佇んでいる。
 と、ふいに、ティディアが声援に応えて横を向いた。
 彼女の横顔には明るい笑顔があった。
 観客が振りかける応援に応える彼女にはどこにも『影』はない。やはり、上機嫌そのものである。
(見間違いか?……)
 距離があるため明確には判じ得ないが、いいや? 上機嫌な笑顔のわりに、目の動きに少し違和感がある気もするが……それもすぐにティディアが顔の向きを変えたために判断ができない。
「……」
 釈然としないまま、ニトロはある場所へ向かった。そこにはグラム・バードンに弾かれたハラキリの剣が落ちている。自分が誰かに剣を借りるとするならば、それは親友の剣をおいて他にない。
 剣を拾いに歩くニトロにも大きな声がかかっていた。応援、賞賛、激励。しかし、彼は非礼を承知で、それら全てに応えなかった。ティディアへの疑念もそうであるが、彼には現在、それらに関わっている余裕がなくなりつつあり、また、既になくなっていたのである。
 彼の、声援のどれにも応えず、それどころか明らかに声援を無視して黙々と歩く姿に、初めは誰もが戸惑っていた。中には反感を得た者もいただろうが、しかし、やがて誰かが気づき始めた。
 ニトロ・ポルカトの表情が、これまでにも増して雄々しく引き締まっている。
「……」
 ニトロは、一歩踏み出すごとに心を整え、集中力を研ぎ澄ませていっていた。
 ――運良く、ここまで生き残ることができた。
 ここからが正念場だ。
 これから始まるのは『運命の一戦』――まさに、自分の運命を決める一戦!
 だが、正直、まともにティディアと剣でやり合って勝てるとは思えない。ヴィタさんは言っていた。あいつが剣を持てば敵わないと。剣を持ってもヴィタさんに敵わない自分が、それなのにあいつに敵う論法がどこにあろうか?
(いや)
 論法など、そんなものはどうでもいい。
 ただ、ここでは、勝つのだ
 勝って堂々と宣言しよう。
『ニトロ・ポルカトはティディア・フォン・アデムメデス・ロディアーナを愛さない。今ここに、決別を望む!』
 それがどんな結果をもたらそうとも、勝って、望むべく未来を勝ち取るのだ!
 ――ニトロの表情を目にした観客達は、戸惑っていた。
 何故、この『王女の恋人』はこんなにも険しい顔をしているのだろう。
 何故、この希代の王女に愛された幸運な少年はこれまでのどの時よりも危険を感じているかのように張り詰めているのだろう。
 そのように戸惑いながら、観客達は、いつしか自分達の『運命の一戦』へ向ける“安堵”や“期待感”が崩れていくことを感じていた。
 ――きっと、姫様は恋人に勝利を譲られることだろう。
 それを、誰よりも『ニトロ・ポルカト』が信じていない?
 ――そしてきっと、今日のこの良き日に、我々は歴史に名を残す『プロポーズ』の証人となるのだ――
 ……本当に?
 にわかに緊張感が湧き上がる。それは人から人へと伝わっていく。ニトロの近くにいる観客から、ニトロの背を見るしかない位置にいる観客にまで。最後には、試合場を包み込む全ての観客にまで。
 目的地に辿り着いたニトロは片膝を突くと壊れた自分の剣を床に置き、そして『師匠』の剣を手に取った。
 立ち上がり、円形――正確にはパトネトがいる壇に面する場所の開いた蹄鉄形――となった試合場を囲む人々を見渡す。
 ハラキリは少し離れた場所にいた。試合場を区切る青い枠線レーザーのすぐ前、観客の最前列に位置し、既に燕尾服に戻っている彼は、近くで『鎧』を脱いでいるグラム・バードン公の視線を努めて無視するようにして会場の様子を眺めていた。
 と、ハラキリがニトロの視線に気づく。
 ニトロは剣を差し上げた。借りるよ、と。
 ハラキリはうなずいた。頑張りなさい、と。
(ああ、頑張ろう)
 一つ、息をつく。
 と、そこで彼は目の前に王家広報のカメラマンがいることに気がついた。余興を最高の位置で撮影し続けていたらしいその女カメラマンが、片目でレンズを覗いたまま、もう片目でこちらを見やって小さく手を振ってくる。王女の登場以降どこに行ったのかと思ったら……ヴィタだった。面白好きの彼女は再びカメラマンに戻り、どうやら常に最前列で(おそらくは時に“カメラマンの特権”を利用して試合場内にも入り)熱心に余興を楽しんでいたらしい。
 ニトロはヴィタの目とカメラのレンズの双方を見つめた。
 レンズ越しに――同時に直接女執事のマリンブルーの瞳に向けて眼で語る。俺は勝つよ、今日があなたのお楽しみの終焉だよ、と。
 ヴィタはそれを読み取った。片目を細め、きっとレンズの向こうの目も細め、唇の隙間から愉快そうに時に牙ともなる白い歯を見せる。
 ニトロは踵を返し、また一つ息をつく。
 ――また一つ、息をつく。
 息をつく度に、彼の体は熱を帯びていく。
 その熱は、闘志という名を持っていた。
 最後にニトロは、オッドアイの給仕アンドロイドを探すために一度周囲を見渡した。
 観客の壁もあり、給仕アンドロイドも十数と歩き回っている。流石に一度見渡すくらいでは見つけ出すことはできないかと思えたが、芍薬は、いた。ある婦人と紳士の隙間の先で、こちらを見つめてきている芍薬の姿がニトロの目に飛び込んできた。芍薬は信頼の瞳を向けていた。マスターと目が合った芍薬は、ふっと小さく微笑を浮かべてうなずいた。
 ニトロは、息をつく。
 ティディアは未だこちらに背を向けている。試合場の真ん中で、そうして『運命の相手』を待っている。
 ニトロは感触を確かめるように剣の柄を握り、力強く足を踏み出した。

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