両者共に達人であることには変わりなくとも、時間が経つにつれて、絶対的な体力の差が両者の間で顕在化したのである。技は互角であろう。しかしリーチもパワーもスピードも、スタミナも、悲しいほどにグラム・バードンが上であった。
 フルセルの顎からは汗が滴り落ち、肩は大きく上下し、老人は喘ぐように息をしている。
 グラム・バードンの額にも汗はあるが、少ない。息は一つも乱れず、肩もぴたりと制止している。
 フルセルにかかる声援の大きさは、それだけ彼の劣勢を証明してもいた。
 そしてフルセル自身、己の劣勢を認めていた。それどころか彼は誰よりも己の敗北を確信していた。
 されど、彼は今にも己を負かそうとする公爵と同じく、笑みを浮かべている。
 己の敗北を確信しながらも、老人は、充実していたのである。
 彼は今、人生とは実に面白いものだと実感していた。
 剣術を始めた頃の彼は才能の著しく欠如した少年であった。体質が弱く、筋力もなく、運動神経にも乏しい。意心没入式マインドスライドを用いたトレーニングにより誰でも一定レベルにはすぐになれる世にあって、しかし一定レベルにもなかなか届かず、一定以上となればどうしても至れない。学生時代は万年補欠。それでも剣術が好きで、赴任した学校で剣術サークルの顧問に自ら志願した。そこで彼は人生における最良の師に出会った。その師は、誰でもない、彼の『生徒』全てであった。実力の乏しい彼は生徒に教えるために改めて一から剣を学び、そして生徒らに教えることで逆に生徒から教えられてきた。未熟な指導のために生徒に涙を流させ、学ばされ。大会を制した生徒の涙を見て、また学び。何十年と学び続けることで、気がつけば、彼の中で剣の才能が人知れず花開いていた。随分と寝ぼすけな才能であったと思う。いや、才能と呼んでいいのか解らない。ただの技術だと言い切っても良いと思う。とにかく彼が己の剣に手応えを感じた時には既に体力は衰え、体のあちこちが痛み、今更大会に出るような気もなく、それからもただひたすら生徒に教え、それまでと変わりなくひたすら生徒から教えられ続けてきた。定年退職した後には、地域センターにやってくる子ども達が相手となった。
 そうして彼は、気がつけば、現代のアデムメデスにあって剣術を志す者なら誰でも知っている天才剣士と切り結んでいる。
 これが面白くなくて何であろう?
 眼前の天才は両手に構えた剣を真っ直ぐこの老兵に向けてきている。古語で熊を意味する構え――なるほど、何故この構えを『ヴォン』と呼ぶようになったのか。公爵を見ているとフルセルには解る気がする。
 老剣士は同じくヴォンに構え、息を整えながら素早く周囲を見回した。彼は、あの若者はどこにいるだろうか? 北副王都ノスカルラでの幸せな晩餐の席で、王女が、彼が弟王子にしてくれていることへの感謝と賛辞を述べている時に「単に自分が格好つけたいだけなんですよ」と照れ臭そうに(また、どこか心苦しそうに)言っていた、あの優しい少年は――
 ――ニトロは、試合場を駆け回りながら、二人の『本物の剣士』の一騎打ちを可能な限り視界に入れ続けていた。
 現在、参加者はおよそ三分の一に減っている。そしてティディアが七人目の挑戦者を下した時、ふと気がつけば、公爵と老剣士の戦いだけが試合場に存在していた。
 現時点で生き残っている参加者の全てが、達人同士の一騎打ちを見届けたいと動きを止めたのだ。
 お陰でようやく一息のつけたニトロは、その結末を自分もしっかり見届けようと足を止めた。視界に入った王女を見れば、彼女もまた、思いがけない名勝負を見届けようと両剣士をじっと見つめていた。
 と、その時、ニトロはフルセルがちらりとこちらへ目をやってきたように思えた。
 ……いや、きっとそれは勘違いではない。
 フルセルが、それまでの微笑とは違う笑みを刻んだのだ。
 老剣士は笑むと同時にニトロから目をそらし、グラム・バードンに目を戻して大きく息をついた。
「いやはや、歳は取りたくないものですな。息が続かない。お陰で恥ずかしい技ばかりをお見せしてしまい、閣下には大変申し訳なく存じます」
 静かなホールにフルセルの声が響く。彼は確かに疲労困憊で、声音もそれを如実に伝える。
「何を仰る。そのお歳で、素晴らしいものです」
 公爵が真摯に応える。フルセルは笑った。
「大変光栄ではありますが、閣下に言われると立つ瀬がありませぬ」
「おっと、それもそうですなぁ」
 公爵は豪快に笑った。
 フルセルは、ちらりと、今度はニトロではなく、この混戦の場にあって、まるで死人のように“目立たない”少年に目をやった。
 老剣士の目の動きから、グラム・バードンはずっと背後でプレッシャーを与えてきている曲者を意識した。
 そして、先ほど老剣士が『彼』を気にしたことも含めて、この伏兵の意図を探ろうとする。
 剣を交えている者同士のテレパシー……とでもいうのだろうか。フルセルは公爵の思考を察知したように、笑った。
「さて、そろそろ老いぼれは退場するといたしましょう」
「退場とは、まるで敗北を前提としているようですな」
「勝っても負けても、もう限界でございます。リタイヤですよ、閣下。明日はきっと立つこともできませぬ」
「……そのわりに、何か希望を持っているように思えますが?」
「これでも、昔は教職にありましてな。まあ、教え方の下手な駄目教師でありましたが、それでもありがたいことに、こんな私からも生徒は色々と学んでくれたものでしてなぁ。いやはや、才気溢れる若者を裏切らないようにするのに必死の人生でした」
「貴殿の教え子は幸せと思いますがな」
「お褒めのお言葉、ありがたく頂戴いたします」
 フルセルは大きく息を吸い、そこでぴたりと呼吸を整えた。
「幸運にもティディア様のお誕生日会にご招待いただき、さらには閣下とお手合せ願えたこと、余生の誉れといたしましょう」
 フルセルは両手で剣を握り直し、剣先を己の眼の高さに合わせる。
「それ以上の誉れもあるやもしれませんが?」
 そう言いながら、グラム・バードンも構え直す。
 二人とも同じ構えをし続けているのに、何故だか、皆には二人が全く違う構えを取ったように思えてならなかった。
 声援が、次第に消えていく。
 再び静寂が達人達を包む。
 静謐とも思えた。
 ここがロザ宮ではなく、どこかの神殿の中にも思えた。
 開け放たれた玄関からふいに風が舞い込み、薔薇の香りが戦場に迷い込んできた。
 ――と、次の瞬間。
 フルセルが、老人とは思えぬ伸びで袈裟斬りを放った。斬りかかると同時に彼は片手持ちに変化している。両手から片手に切り替えることで生まれるリーチの変化、それによる幻惑。両手で持っては届かぬ位置にまで届く剣の軌道、限界まで伸ばされた体勢はほとんど捨て身であり、それゆえに必殺の意志を閃かせる。
 誰かが「あ」の形に口を開く。が、その口から声が出るより先に剣の切っ先は公爵の肩に届こうとしていた。
 しかし、それを公爵は冷静に弾きにかかった。弾けば後は体勢の崩れた老剣士を仕留めるだけである。多くの人間がとうとう公爵がフルセルを討ち取った――と、そう感じたその刹那! ふいにフルセルの剣が変化した! 肩口に向けて振り下ろされようとしていた剣先が軌道を変え、公爵が上段の攻撃を防ぐために持ち上げた剣の下、大きな胴へと突きが迫る!
 誰かの「あ」という声がようやく事態に追いついた。
 その声の主は、フルセルの必殺の技が公爵をとうとう討ち取ったと感じていた。
 渾身の突き。
 全身全霊を込めた最高の突き。
 それは間違いなく、フルセルの剣術人生においても最高の突きであった!
 ――が、
「むん!」
 公爵の裂帛の気合がロザ宮を揺らす。
 つい直前までフルセルの袈裟斬りを弾こうと差し上げられていたはずの公爵の剣が、下段から振り上げられていた。
 キン、と、澄んだ音がした。
 それは清廉な音であった。
 主の手から弾き飛ばされたフルセルの剣が、宙を舞っていた。
「お見事にございます」
 フルセルが言った。
 彼の背後に剣が落ちて、また清廉な音を立てた。
 公爵は剣を鞘に収め、真摯にうなずき、大きな右手を差し出した。
 フルセルが老いに骨ばる右手で応える。
 両剣士が握手する姿を、歓声と喝采が包み込んでいた。

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