歓声の音量が増した。
 シァズ・メイロンが並より上の腕を持っていたがために、ニトロの技はより一層美技として輝き、観客の目に、心に焼きついた。あの『劣り姫の変』において強さを見せた次代の王は、その実力はやはり紛い物ではない! ホールには怒号にも似た歓声が沸き起こっていた。
 そして、その歓声は、次の瞬間、
「うわあ!?」
 ニトロの驚愕の声と同調するように、地鳴りにも似た驚愕の声へと変わった。
 ――誰もが信じられないものを見ていた。
 ニトロに向けて、どこからともなく中肉中背の男が宙を飛んできたのである。ニトロに背を向けて、我が身に起きた信じがたい出来事に目玉が飛び出そうなほどに瞠目して。
 しかしニトロを驚かせたのは、その男の背中だけではなかった。こちらに迫る背中を追って、こちらへ向けて恐ろしい速度で大熊のようなグラム・バードン公爵が駆け込んできていたのである。あり得ない、どうして公爵がこんなにも短い間にそこまで接近してこられる? 彼と自分との間には剣を持った参加者が何人もいたはずだろう!?
「!? ?!」
 驚愕と疑念に支配されながらも、ニトロは何とか飛んできた男をかわした。哀れな男は墜落するやごろごろと床を転がり、シァズ・メイロンと、彼に巻き込まれて転んでいた哀れな青年とに激突する。
 背後に悲鳴を聞きながら、ニトロも悲鳴を上げたい気分だった。
「いざ!」
 グラム・バードンの野太く雄々しい気合が耳をつんざく。
 その時には、ニトロは全てを理解していた。
 どうして自分の目前に今、公爵がいるのか。
 背中が通り過ぎたために視界に入ってきた公爵の背後。
 そこは死屍累々であった。
 少なく見積もってもニトロと公爵の間には六人の成人男性がいたのだが、グラム・バードンはこの短い間にそれら全てを打ち倒し、あるいは力任せに吹き飛ばし、脇目も振らず一直線に突撃してきたのだ。
 老齢でこの力。化け物である。
 グラム・バードンが大上段に剣を振り上げる。
 それは構えこそ違えど、シァズ・メイロンと同じ攻撃であった。
 周囲にいた人間の内には、ニトロが先と同じ光景を再現するという予感が芽生えた。が、その予感を得た人間は、きっと戦場では生き残れないであろう。
「!」
 ニトロは息を飲むと同時に素早くサイドステップを踏んだ。
 彼が『師匠』から最も叩き込まれたものは一にも二にも『逃げ足』である。
 彼のすぐ横で、グラム・バードンの剣が恐ろしい音を立てて空を切った。突進の勢いのまま駆け抜けていく公爵を辛うじてよけきった彼は、数歩のバックステップで一息の間に彼との間合いを大きく広げていた。
 不運だったのは、グラム・バードンがニトロを狙っている機を見て敏、と動いていたアンセニオン・レッカードであった。
 ニトロにかわされた猛者は、ちょうどアンセニオン・レッカードの直前で止まったのである。
 両者は、剣の間合いに入っていた。
 グラム・バードンはまたも剣を大上段に振り上げた。反射的に――顔を引きつらせ――アンセニオン・レッカードはその剣を防ごうと構えた。
 振り下ろされたグラム・バードンの剣の威力は凄まじく、完全に防御の体勢を整えていたアンセニオン・レッカードの剣をあっけなく打ち落とし、そのままレッカード財閥の御曹司の脳天に痛烈な一撃を見舞った。その衝撃は見た目にも凄惨なものであり、当のアンセニオン・レッカードは同じ剣であるはずなのに大槌で殴られたと錯覚した。冑に守られていたため頭部へのダメージは無かったものの、刹那、頭部を支える頚椎、その椎間板が押し潰されたかのような激痛が走り、アンセニオン・レッカードは耐え切れず短い悲鳴を上げて転倒した。彼の側で打ち落とされた剣が床に激突し、甲高い音を立てて一度大きく跳ね上がり、カラカラと音を立ててやがて主と共に横たわる。
 その時、観客だけでなく戦場の中までもが静まり返り、動きを止めた。ティディアまでもが!
 ……その光景は、ニトロ・ポルカトの判断の正しさを皆に知らしめていた。
 そしてニトロは、絶句して、先ほどの自分の考えがいかに傲慢であったかと猛省していた。
(全っ然児戯なんかじゃなかった、未熟のくせに調子乗ってましたごめんなさい……!)
 この王女の剣の師は、マジで洒落にならない。模造の剣をしてヴィタに劣らぬ恐怖感プレッシャー。特に殺気立たず、余興らしい余裕も纏っているのに、だからこそ、それらとプレッシャーとの凄まじいギャップに真の猛者への畏怖を見る。
 と、
「流石ですなあ!」
 グラム・バードンが、叫んだ。その声は歓喜に満ちていた。流石とニトロを誉めているものの、そこには賞賛ではなく手応えのある獲物を前にした狩人の至福が漏れ出していた。
 瞬く間にアンセニオン・レッカードを含めて八人を脱落させた(パトネトの頭上の大モニターにスコアが表示されている)グラム・バードンは、無造作にのしのしとニトロへ向かって歩いた。
 ニトロは剣を構えた。
 グラム・バードンが迫る。口元の笑みは獰猛にして、双眸は楽しげに閃く。
 ニトロは、じりじりと後退した。
 無造作に向かって来ているだけなのに、公爵の体のどこにも打ち込める隙を見出せない。なのに、公爵から打ち込まれれば防ぎ切れる気が全くしない。
 後退し続けるニトロの周囲からは、先ほどまであれほど『ニトロ・ポルカト』へ注目していた参加者達の誰一人としていなくなっていた。当然であろう。こんな怪物に狙われる人間を近くにするのは、生き残りをかけたゲームにおいては愚策に過ぎる。
 ――だが、果敢にも、その愚策に挑もうとする影があった。
 観客に回った招待客だけでなく、参加者も、あまつさえニトロも驚きの声を上げた。
 ニトロとグラム・バードンの間に割り込んできたのは老人だった。
 あのフルセル氏であったのだ。
「む」
 剣先を下げて構えるフルセルを前に、グラム・バードンの動きが初めて止まった。
 ニトロは思い出していた。そういえば長く中学の教師を勤めた彼は、クラブ活動では剣術を指導していたと、北副王都ノスカルラでのディナーの時にそう話してくれていた。指導に明け暮れて彼自身は大会などに出場していないためその実力は知れないのだが……
 グラム・バードンがまたも大上段から打ち込んでいく。
 フルセルはふわりと剣を持ち上げると、なんと公爵の獰猛な剣を柔らかく受け流してみせた。それどころか受け流した形からそのまま剣先の向きを修正し、一気に公爵の首へと突きを放つ!
 されどグラム・バードンも流石である。公爵はその巨躯からは信じられない体捌きで反撃の剣をかわし、次いで追ってきた二度目の突きを一歩下がることで最小限にやり過ごしてみせる。
 一瞬の沈黙。
 さらに一瞬後、歓声が沸き上がり、感嘆の吐息が会場を埋め尽くした。
 思わぬ伏兵の、しかも驚愕の登場である。
 観客は大いに盛り上がっていた。
「見事なお手前」
 グラム・バードンは喜色満面に笑う。
「いやはや、閣下には及びませぬ」
 フルセルのその姿は、当初の誕生日会の空気に縮こまっていた面影をまるでなくしていた。背筋を伸ばし、堂々とした目は活気に溢れている。グラム・バードンに比べてずっと小柄な体も、剣を持った今は玉鋼と変わったかのように力強い。
 と、この場において初めて公爵と剣を打ち合った老人がニトロを一瞥する。その目は距離を取るよう語っていた。
「――」
 ニトロは素早く目礼を返し――グラム・バードンの後方にいつの間にかやってきていた『我が師』の姿を目に留めつつ――この混戦の中で優位置を取るべく踵を返し、
「ッ! わおチックショーイ!」
 最上の獲物が怪物から離れたと見るや現金にも即座に殺到してきた狩人の群れを見て、彼は悲鳴とも抗議ともつかぬ声を上げたのであった。

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