これまでざわめいていたホールが、シンと静まり返っていた。
 あらゆる視線が『二人』に集まっていた。
 どこか冷やりとした空気があった。その空気の冷たさは、何か『良いものが見られるのでは』という期待から来る緊張感が生み出していた。その証拠に、空気は冷たいというのに、反面ニトロが背や首筋に感じるのはわくわく感を源にした熱視線である。彼は内心、苦く笑っていた。皆様の期待には応えられません――そう思いながら、彼は従僕に扮したアンドロイドから剣を受け取っている王女の前に立った。
 元よりニトロは、ティディアに対し跪くつもりはなかった。剣を賜る栄誉もロールプレイもいらない。それがここまで作られた折角の『空気』を壊しかねない行為であることは承知しているが、それと並んで自分だけは跪かなくても“許される”ことも彼は承知していたのだ。このまま事務的に受け取っても問題はない。自分の行為が名目上の『主』であるパトネトに泥を塗ることもない。何か問題があるとすれば、こちらの立位りついにティディアが文句を言ってくることだけだ。が、それも『漫才コンビ』のやり取りにしてしまえば、問題は、やはりない。
 堂々と、ニトロは王女を見つめ、その御前おんまえに進み出た。
 彼は当然ティディアが何か言ってくるものと確信していた。そのため即座に言い返せるよう呼吸も整えていた。そして実際、ティディアは立ちっぱなしで膝を突く様子のない彼に対して何かを言おうとしたように見えた。
 しかしティディアは、そこで急に息を止めたかのように、ふいに唇を結んだ。
「?」
 ニトロが怪訝に眉をひそめる。
 周囲にも訝しげな様子があった。
「……」
 ティディアは、ひたすらニトロを見つめていた。
 彼女は、燕尾服を身に纏い凛々しく立つ想い人の晴れ姿を改めて目の前にして、彼にかけようとしていた言葉を飲み込み、思わずじっくりと見惚れてしまっていたのである。
 彼女の脳裏にはニトロ・ポルカトに関する初めての記憶が蘇っていた。あれは、彼の高校の入学式だった。彼は当然制服に身を包んでいて、けれど、こんなに立派ではなかった。制服と正装の違いはあれど、中身が断然に違った。入学式のみならず、あの『映画』の頃、たった一年半前も彼はどこにでもいる運動不足のちょっと頼りない高校生に過ぎなかった。けれど今は全く違う。今日この日までに彼が辿ってきた成長の歴史が彼女の脳裏にどっと溢れ出す。私が彼にしてきたこと、彼が私に仕返してきたこと。懐かしさや驚嘆、嬉しさや幸福感がめまぐるしく心を巡る。それに連れて彼と関わることで変化してきた自分の心までもが逐次思い出され、それらがとうとう現在に至れば、全ての感情が深い感慨と大きな感動となって彼女の心を締めつける。
 そう、それこそは初恋の歴史だった!
 初恋の歴史の末に、今、華やかに開花した『彼』がいた。
 彼は、決して愛の眼差しではないけれど、それでも私を見つめ返してくれている。
 彼女の頬には紅が差していた。
 瞳は生気に溢れてきらめき、息苦しくはなさそうなのにひどく呼吸し辛そうにして、どこか恥ずかしげに睫が伏せられ、しかし瞳は彼を見つめ続けて、彼女は、唇を微かに震わせていた。
 沈黙は時に千の物語より雄弁に愛を語る。
 ホールは先よりも静寂に包まれていた。
 そしてその時には、ニトロは自身の失態を悟っていた。
(裏目に出た……!)
 顔の皮膚の下で顔をしかめる。これならば大人しく剣を下賜されていれば良かった。あるいは“言い返す”のではなく、こちらから何かしら声をかけた方がずっとマシだった。
 周囲の空気が、冷たさのある緊張から、じわりと火照るような緩和に移っている。
 目の端で『王女の下賜』を間近に見続けていた婦人の一団を捉えれば、その誰もが、まるで王女の頬の色が感染うつったかのように頬を染めている。
 そっと、やっと、ティディアがニトロへ剣を差し出した。
 剣は白地に金の飾りを施された鞘に納まっている。
 この空気を変えるための機を完全に逸したニトロは、黙って剣を受け取った。
 ティディアの唇の端が持ち上がり、ほんのかすかに笑みの形を作った。
 剣を受け取ったニトロが踵を返す、と、
「ぅ」
 彼は思わずうめいた。
 何と言うのだろう……周囲には、桃色があった。近くの婦人達だけではない、多くの女性が自らの初恋でも思い出したかのように――あるいは現在の恋心を掻き立てられたかのように色づいていた。恋に色めく人間を見ている方がドギマギする……というシチュエーションがあるというが、まさに今の一場面こそがそうであったらしい。恋の色香を放つ王女を中心にしてロザ宮のホールに慕情が満ちていた。気を回せば女性だけではなく男性にも色づきが見える。恋に艶めいた王女の美しい笑みに見惚れている者もあれば、連れ合いの婦人と何か睦まじく囁き合っている者もいる。
 恐るべきはティディアの影響力、だろうか。
 できれば自分がこの空間を生み出した一因だとは信じたくない。
 ニトロは“恋物語の主人公”に向けられる視線の中を居心地悪く歩き、ふとティディアに振り返った。
 ティディアは何事もなかったかのように平常を取り戻し、跪くグラム・バードンに声をかけながら剣を下賜していた。
「……」
 ひそひそと、どこかでティディアを見るニトロを見ての感想が囁かれている。
 ニトロは頭を掻き、気まずくきょろきょろと周囲を見回した。剣を与えられた者にはすぐに『鎧』となるプロテクターを持ったアンドロイドがやってくるはずなのだが……ああ、助かった。ちょうどプロテクターを携えたアンドロイドが足早にやってきている。
 ニトロはそのまま人の少ない場所へ足早に行き、遅れてやってきたアンドロイドを迎えた。

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