最後には直接的な問いを受け、ミリュウはハラキリを見つめたまま、言った。
「『結婚』は交際のある二者の取り得る生活形態の一様式に過ぎません。あるいは、民法に従った契約ですね」
「……つまり、そんなことより気持ちが大事と?」
もっと具体的に言えば、愛が大事なのです」
 その切り返しに、ハラキリは大声で笑いそうになった。実に面白い回答だ。セリフに反して具体的には答えていないくせに、そのくせ本質的には答えてくれているように思える。――が、ミリュウが至極大真面目な顔をしているから、ハラキリは辛うじて肩を揺らす程度に心を抑えた。
 まあ、生活形態でも民法に従った契約でもなく、とかく望むは『愛のため』と言うのであればそれでもいい。
 最近ちょっと心配になるほど『恋の病』の重篤患者が――ニトロは確信していたが――結婚を無理強いして自滅しようとはしていない、その確信を自分も得られただけで十分としよう。
「しかし、難しい注文をしてくれるものですねえ」
 ハラキリはローストビーフの残りを一口に食べ、食べることで間を空けて、言った。
「拙者は公爵より弱い。まず勝ち目はありません」
「お姉様は、貴方を信頼しています。ニトロさんも、貴方を信頼しています」
「おや」
 ハラキリは苦笑した。そう言われるとなかなか厳しい。
 と、そこでミリュウがふいに笑顔を浮かべた。
「そして、お仕事はしっかりなされると、お姉様から聞いています」
 なるほど――と、ハラキリはもう一つ確信した。
 この姫君は、間違いなく『真面目で優等生な王女様』だ。ただ真面目なだけでも、ただ優等生なだけでもない。先ほどからの腹芸といい、直接的な内容を避けながらも納得させてくる話術といい、政に通じる交渉力を確かに持っている。
「では、これは単に貴女方の頼みというよりも、仕事としての『依頼』なのですね?」
 普通、この流れなら本来は『頼み』を先にして、それを断られたら“保険”の『依頼』に切り替えるのが素直な順序であるが……ミリュウは、そこをあえて逆にしてきた。ここには一つの意図が窺える。そしてその意図に感づいたハラキリの言葉を、彼が言葉の裏に潜めた推測ごと肯定するようにミリュウは目を細め、
「1億で、いかがですか?」
「おっと、そいつは豪儀だ」
 ハラキリは、むしろ苦笑した。今流行の『ラクティ・フローラ』の筆頭株主である彼女には簡単に払える額なのだろうが……
 すると、ハラキリの思惑を見透かしたように、ミリュウは言った。
「いいえ、『未来』がかかるのであれば1億など安いものです」
 ハラキリは、今度は笑った。その“誰の”を外した『未来』は、果たして誰を対象にした未来なのか。彼は小さく肩を揺らし、水を飲んで気持ちを落ち着けてから、きっぱりとした口振りで言った。
「お断りします。そんな金を貴女からもらっては、拙者がニトロ君に怒られてしまう」
「――では、百万でいかがでしょう」
 今度は控えめに提案されて(それでも大金だが)、ハラキリは思わず苦笑する。
「お断りしますよ。額の多寡ではなく、こんなことで金をもらってはニトロ君に怒られてしまうでしょう。それは、避けたいのですよ」
「……怖いのですか?」
 その問いかけに、ハラキリは何だか声を上げて笑いたい気になりながら、
「ええ、怖い。ニトロ君に怒られるのは、怖いんです」
「…………そうですね」
 その時、アンドロイドの肩がぶるりと震えた。ハラキリは直感した。その震えは、きっとあのヘッドバッドを思い出してのものだろう。生身の方の彼女もきっと震えていたはずだ。
 ハラキリはこみ上げる笑いを堪えるのに必死だった。ああ、そうか。我が親友は下の王女様にも“恐怖”を致命的なまでに刻み込んだのか!
 一方、ミリュウは気持ちを落ち着けるように肩を上下させ――現実の肉体も深呼吸をしたはずだ――それからハラキリをじっと見つめ、
「しかし……それでは私にはもう貴方にお願いすることしか残されていません。どうか、お願いいたします」
 確かに、依頼を先に蹴られたからにはミリュウのできることはもうそれしかない。状況を素直に認めて(周囲に不審がられない程度に)小さく頭を下げようとするのをハラキリは素早く首を振ることで制した。そして彼は口元に意図の読み切れない微笑を浮かべ、
「貴女は意外にずるいお方なのですねえ」
 ミリュウは動きを止め、ハラキリを見つめた。ハラキリは先にも思った『頼み』と『依頼』の意図的な順序の逆転を思い浮かべ、
「最後は情に訴えるしかないこの流れで『お姫様』に頭を下げられると非常に断り難い。実に有効な“戦術”です」
 ミリュウは何も言わず、ハラキリを見つめ続ける。そこにはタネを見破られながらもショーを実行し切った手品師の見せる、一種威風堂々とした姿勢が垣間見えた。
 ハラキリはまた小さく笑い、そして息をつく。
「それにしても本当に意外です。貴女はこのような交渉が苦手だろうと思っていたのですが」
「いいえ」
 ミリュウは、にこりと笑った。
「私、こういうことは以前からわりと得意なんですよ? 『劣り姫』の頃から、これだけは皆様にお認めいただいていましたから」
 どこかはにかむように言われて、そこでハラキリは彼女の特性に思い至り、これは自分の考え足らずであったと肩をすくめた。
「そうでしたね。以前から貴女は調停役になることが多かった」
 今までは、第二王位継承者――真面目な優等生な妹姫は、非常に優秀ながらも問題児である姉の尻拭いをして回るばかりであった。つまりそれはフォローであり、姉姫の威を嵩にしつつの謝意のばらまきであったのだが……なるほど、確かにフォローを先んじればそれは『根回し』ともなる。これまでは受身の姿勢で公務に当たっていた彼女にそれをできるイメージはなかったが、どうやらこの点でもこの第二王位継承者は大きな変化を得たらしい。
(いやはや、お姫さんは本当に優秀なサポーターを手に入れましたねぇ。ひょっとしたら、この件に関しては初めての純粋な味方でもありましょうかね?)
 ニトロには芍薬という純粋な味方がいるが、ティディアにはいない。いるのは“およそ中立”な自分と、味方ではあるがどちらかと言えば観客寄りのヴィタだけだ。しかも、その初の味方が非常に理想的な妹姫となればティディアには何より素晴らしいことだろう。思えば『わりと得意』――なんて、姉の口調にそっくりだった。
(この結果は、頑張ったニトロ君にとっては皮肉としか言えないのでしょうが)
 何にも悪いことはしていないのに、むしろ最善を目指せば逆に追い詰められる――そう、ニトロの言う通り、彼の行為が彼を追い詰める! そのことにハラキリは思わず肩を揺らし、その感触からミリュウはハラキリが次の瞬間には首肯を返してくれると期待していた。が、
「ですが、依頼も、頼みも、お断りします」
 期待を裏切る応えにミリュウは驚いた。彼女は思わず次の手を打つための声を上げようとしたが、それをハラキリのなんとも言えない笑みが押し留めた。
「ああ、いや、言い方が悪かったですね。依頼も頼みもお聞きしませんが、しかし貴女の期待には沿いましょう」
 怪訝な顔を見せるミリュウへ、ハラキリは苦笑じみた顔で言う。
「むしろ、貴女に感謝しますよ。どうやら拙者こそ気が抜けていたらしい。危うく、そんなにも簡単な『嫌な結果』を見過ごすところでした」
 ミリュウは、ティディアかニトロ以外が勝つ……とりわけグラム・バードンが優勝することを示して言うハラキリを見つめた。
「友達がどちらも望まぬ結果を迎える可能性があって、それを拙者が防げる可能性があるのなら、いくらでも“お手伝い”します。出来る限りのことはしてみましょう」
 ミリュウはしばしハラキリを見つめた後、ひねくれた姉の唯一の友達、同い年でありながらニトロとは違う底知れなさを感じさせるこの少年に、深い辞儀の変わりにそっと瞼を伏せた。
「しかし、一つ問題が」
 と、そこで、ハラキリは言った。
「既に参加者は埋まっているんですよねぇ」
 列の最後尾にいるアンドロイドは、宙映画面に『終了』と記している。
 すると、ミリュウは和やかな笑顔をアンドロイドの顔に刻んだ。
「問題ありません。最初から含めておきましたから」
 そのセリフを聞いたハラキリは『参加者』の数を素早く数えた。――71。ティディアの言った数に一人足りない。無論、これは“姉弟”の弟側の仕事によるものだろうが、
「……拙者が参加しなかったらどうする気だったのです?」
 ハラキリは“どうする気”だったのかを察しながら、あえて問うた。
 そして問われたミリュウは問いかけてくる相手が既に“理解している”ことを察し、まるで社交界流に照らしてすかしたやり取りをするように、貴婦人調の口振りで言った。
「簡単なこと、姉を含めればよろしいのですわ」
 そう、確かにティディアは『参加者は72名』としか言っていない。この数字への含意からはそれが彼女を含まない数であることは明らかであるものの、しかし、それが彼女を含めてなのか、そうでないのかについてはこちらもまた明らかなことに“明言していない”。であれば、この数の操作は結果としてどちらに転んでも“嘘ではない”。
 ハラキリは笑う代わりに水を飲み干した。この『腹芸』を見られたことだけでもここに来た甲斐があったと思う。
「妹様がこれほど面白い方だとは思っていませんでした」
 そうしてハラキリが言うと、ミリュウは不思議な微笑を見せた。
「全てはニトロさんのお陰です」
 さらに彼女は続ける。
「二人のこと、これからもどうかよろしくお願いいたします」
 ハラキリは、再び目を伏せたアンドロイドの向こうに、深々と頭を垂れる妹姫の姿を見た。そして彼は、彼女のその姿に深い感慨を得るのだった。
(君自身への結果はどうあれ、ニトロ君は、お姫さんといい弟君といい……、本当に人に良い影響を与えるのですね)
 親友は自分のことを『師匠』だなんて尊敬してくれているが、ハラキリは、彼のその力こそ自分には真似できない尊いものだと感じていた。
 が、それは胸に秘めるべき感情であると思う彼は、思わず笑みがこぼれそうになったところで空のグラスと皿をミリュウに返した。素早くワインリストの中の一つを示し、次いで宙映画面エア・モニターを消し、そうして先ほど彼女が披露した世界の――今も昔も色事の噂に敏感な社交界の流儀に合わせ、ともするとこぼれそうな笑みを誤魔化すために、彼は冗談めかせた笑みを作ってにやりと言った。
「それはそうと、岡惚れをなさってはなりませんよ?」
 ミリュウは少し怒った顔をしたが、それから――こちらも冗談めかせるように、思わせぶりにそっと微笑んだ。

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