「開き直りじゃあないさ。
ただね、今の俺は、俺が何をしたところでどうやら『俺』を追い詰めるだけらしい……
ただ、それだけだよ」
ハラキリは、ふむと再び鼻を鳴らした。
「……」
そして壇上を見れば、暗がりの中に二つの人影。女執事と、幼い王子。
今は妖精が人目を引いているため、暗がりの中で王子はどこかのびのびとしているように伺える。
ハラキリには、未だそこに『パトネト王子』がいることが信じられない思いがあった。彼がこの会に出ることは既知のことではあったが、それでも土壇場で足を竦ませ出てこない――そんな結果になる可能性が大と踏んでいた。しかし、王子はニトロと手を繋いで現れた。現れて、ずっと、ニトロの陰に半ば隠れながらもこの場にい続け……あまつさえ、ニトロから離れてなお扉の脇に『役目』のために佇んでいる。
その姿を王子の成長の結果と見るのは当然のことではある。その姿を皆は目に焼き付けているだろう。だが、それ以上に、あの極度の人見知りで知られる『秘蔵っ子様』をここまで連れ出した存在――『ニトロ・ポルカト』の影響力は計り知れないものとしてこの場にいる全員の胸に刻まれただろう。
それが本来ニトロにとって望ましからざることだとは、無論ハラキリも承知している。
しかし、ハラキリは、ニトロがこの会に出るに至った経緯を知っていた。
親友は、その経緯を語ってくれた時にもパトネトに対して似たようなことを言っていた。いずれ『外』に出て行かねばならないであろう王子への、兄貴分の思い遣り。その時、ハラキリは彼の“お人好し”ばかりに気を取られていたものだが――
「……『君』が、君を追い詰める、ですか」
ぽつりと、ハラキリは言った。
ニトロは、パトネトを――本当に兄のように――見つめていた。
「……」
言動不一致、開き直り、親友から得た印象を整理し、彼の言葉を咀嚼し、ハラキリはため息をまじえて言う。
「随分とまた厳しい自覚ですね」
「間違ってる?」
「いいえ、実に正しい」
ハラキリは正直に答えた。
ニトロが、いつ、どのような経緯でそのように考えるようになったのか。もしかしたら『劣り姫の変』の最中だろうか、その後だろうか……ともかく、『次代の王』、『英雄』と様々に呼ばれている彼の言動が、あるいは彼の存在そのものが、彼自身から彼自身の望む未来を遠ざけているのは間違いがない。
そこに存在する、痛烈な皮肉。
例えに挙げるなら、パトネトに対する彼の態度がそうだ。今日、彼が示したような優しい誠実な対応を、つまり彼が己の心根に則した行動を幼い王子のために取ればそれはすなわち彼の徳を上げることになる。しかし、逆に保身のために、パトネトを憎からず思いながらもそっけない態度を取り、そうすることで自分は冷たい人間なのだ、王には相応しくない徳のない人間なのだとアピールしようとしても……きっと彼の目的は達成されない。おそらく大衆は彼の意図に反して『王子のためにあえて厳しくしている』と自動的に解釈する。そう、それは自動的である。あの王女が印象を操作するまでもない。何故なら、既に『ニトロ・ポルカト』は大衆にとって他人のためになるよう己を殺してでも行動することができる稀にも善良なる人間なのだから。
言動不一致? 開き直り?
いいや、違う。
もちろんいくらかの開き直りはあろうが、きっとそれだけではない。
ハラキリは、そこに何らかの固い意志による裏打ち――そのようなものを感じた。
だとしたら、
「それなら、何をしたところで結果は同じであるなら、自分の心に従った方が夢見も良い……ですかね。迷惑なお姫さんへの態度も可愛いパティへの態度も等しく君を追い詰めるのなら」
ハラキリは、いくらなんでもニトロは王子に対して(自制の利く彼にしては)少々入れ込み過ぎだと――事情を知った上でも――不思議に感じていたが、それが『似た境遇にいる相手』への共感にも根ざしているとなれば無理もないかと思いを改める。また、それだけでなく、どうやら彼はまだ明らかにするつもりではないらしいが……何かを胸に秘しているらしい。それを話してくれないのは寂しい気もするが、まあ、そのような文句を自分が言えた義理ではない。それに話さないなら話さないだけの理由があるはずだ――と、訊きたいと思う心を静かに抑えた。
一方、親友の嘆息じみたセリフに、ニトロは彼がこちらの心情を正確に把握してくれたことを知って喜びを示す微笑を浮かべていた。内心ではまだ『師匠』にも言っていない計画を思いながら、それについては内心のもっと奥底で一抹の不安と寂しさを予感しながら、彼は言う。ちょうどおどけたダンスを踊っている妖精に合わせて、少しおどけるように。
「そういうわけで頼りにしてるよ。これからもっと助けてもらわなくちゃならないからさ」
ハラキリは軽く肩をすくめる。
「それは面倒臭そうですねぇ」
「面倒臭がらないで、頼むよ師匠」
「助けてばかりでは君のためにもなりませんでしょうし」
「そう言わずに愛弟子を少しは甘やかしてはくれないか」
「拙者は自分に甘くて他人に厳しいんですよ。君とは逆にね」
「おっと、妙な言い回しのくせにそれはえらく痛いお言葉だ」
「駄目兄にならないようにお気をつけなさい」
「肝に銘じます、師匠」
「その点についても師匠になった覚えはありませんが?」
「ああ、それもそうか。これは殴る蹴るとは全く別路線だったね」
そう言って、ニトロは小さく笑った。ハラキリも小さく笑った。
妖精のダンスは終わりに差し掛かっていた。御伽噺のような庭園の中にあるロザ宮に、薔薇の国の妖精が優雅に魅せる舞。先ほどまで滑稽の調子であった曲は様相を変えていた。楽団は舞に合わせて優雅に甘く、ロマンチックな情景を思い起こさせるメロディを奏でている。ホールには、どこかうっとりとした空気が流れている。
しばし二人は黙したまま、嘆声を上げる招待客と共に幻想的な世界を眺めた。
ややあって、ハラキリはニトロを一瞥してつぶやくように言った。
「しかし、そのうち『頼りにしてる』なんてセリフは拙者が君に言うだけになるかもしれませんね」
ニトロは、ハラキリのその言葉の意味するところは嬉しかったが、笑って言った。
「いやいや、友達なんだから頼り頼られやっていこうよ」
その言葉にはハラキリがこのホールでずっと“傍耳”にしていたような計算高さはなく、ただ純粋な信頼だけが込められていた。ハラキリは、何だか思わず声を上げて笑ってしまいそうになるのを懸命に堪えた。
(本当に、いつかはこちらが頼るばかりになるかもしれませんねぇ)
そんなことを胸に肩を揺らし、ハラキリは一言「ええ」と肯定を返した。
ニトロは至極満足そうにうなずく。
宙に舞う妖精達は、列を成して観客に向けて一礼していた。
礼を終えた妖精達は勢いよくホールから飛び出て行く。
これまで妖精達の輝きによってぼんやりと明るかったホールが再び暗くなり、すると今度はホールの一部がほの柔らかに照らし出された。
光の集まるのは、あの壇上であった。
壇の奥にある扉の周囲、このホールで最も豪奢な装飾はこの薄明の中でこそ最も美しく映えていた。柔らかなスポットライトの光を受けて
その扉に、こちら側からのノブはない。
全てはあちら側から訪れる。
あちら側が扉を開いた時のみ、こちら側はそこから現れる特別な人間を向かえることを許されるのだ。
ホールは、静まり返っていた。
歌劇では、妖精達が舞台から掃けた後、おそるおそるお姫様が岩場の陰から現れる。パーティーを抜け出した際に不思議な場所に迷い込んでしまったため、華やかな白いドレス姿の姫君が現れるのだ。
誰もがそのイメージを共有し、今か今かと主役を待っていた。
――音もなく、かすかに扉が動いた。小さな声がそこかしこに上がった。数人が早くも熱狂的に歓迎の声を上げた。
パトネトが片方の扉を受け、引き開いていく。
もう片方をヴィタが受け、幼い王子の歩幅に合わせて引き開いていく。
そして、中央を割って、バックからもライトを浴びた影がぬっと現れ――その瞬間、そこかしこに上がっていた声が、スキンヘッドの青年を中心にした数人がさらに張り上げようとしていた万歳の声が、突然不可視のハサミで声帯をぶつりと断ち切られたかのように止まった。
皆、目を点にして息を飲んでいた。
誰もが何も言えずに、それどころか飲み込んだ息を吐き出せもせずに呼吸を止めていた。
あちら側とこちら側を繋ぐ扉は今や完全に開き切っている。
その扉を、抜けてくる。
――白に身を包む姫君が。
白い軍馬にまたがり、手に生首を携えて。
白い軽鎧姿のお姫様が!
「な・ん・で・だ!」
思わず、ニトロは叫んでいた。