――その時、ロザ宮ホールの空気が変わった。
まず変化したのは給仕であった。彼ら彼女らは、積極的に客らの持つ皿やグラスを引き上げにかかった。食べかけも飲みかけも関係ない。もしその後に何もなければ余計な世話に他ならないが、ホール中央の空に浮かぶ時計を見れば、長針がもうすぐ10を示すところである。
それまで『次代の王』と『秘蔵っ子様』に夢中になっていた皆が、それまでとは違う落ち着きのなさを示し出した。既に両手の開いている者が先に、ちょうど飲食を楽しんでいた者も給仕に渡すなり立食用の丸テーブルに皿を置くなりしていそいそとホール奥の壇の前へ集まっていく。
壇上の扉はまだ硬く閉まっているが、その時、壇の前には一人のテレビカメラを肩に抱えた王家広報の人間がいた。随分大胆な位置取りである。そのために戸惑いを得た客らは壇から一定の距離を保って止まり、カメラマンを中心点に弧を描くようにして人垣を作った。
中庭や薔薇園にいた者も含めて全ての客が壇の前に集まった頃合を見計り、楽団が手を止め、曲が止む。
集まった客は皆、未だ壇の真ん前で撮影を続けるカメラマンを怪訝な目つきで見つめていた。やがて、そのカメラマンの下に助手と思しき者が駆け寄ってくる。カメラマンは肩に担いでいた大きなカメラを助手に渡した。
燕尾服を着たカメラマンは、浅黒い肌をして、オールバックにした長い焦げ茶の髪をうなじで一つにまとめていた。よく見ると面立ちはある人物に似ているようだ。しかし瞳は黒くて……いや? また助手と思しき者が“彼”の元にやってきて手鏡を渡した。手鏡を受け取った“彼”は芝居がかった仕草で胸ポケットからコンタクトレンズ着脱器を取り出し、やはり芝居がかった仕草で手鏡を見ながらカラーコンタクトレンズを外していく。
黒い瞳の下から、鮮やかなマリンブルーが現れた。
招待客が驚きの息を漏らす。
驚きの吐息の中、着脱器を助手に投げて渡した“彼”は、パチン! と大きく指を鳴らした。
すると着脱器を投げたばかりの手に小瓶が現れる。
そして巧みな手品によって小瓶が現れたと同時、“彼”の肌と髪の色がその小瓶に向けて移動し始めた。小瓶から遠い位置から順に色が薄くなり、グラデーションを描いて色が小瓶へと移っていく。
やがて
正体を明かした彼女は男装に相応しく、右足を軽く引き、左手の甲を腰骨に当て、右手をすっと胸に当ててアデムメデスの紳士の礼を優雅に行う。
男装の麗人の美しさに、その所作に、自然と拍手が沸き起こった。
まずは面白好きなお姫様からの小さなサプライズ。
皆々笑顔であり、それは成功と言えよう。
ヴィタは微笑みを浮かべながら面を上げ、さっと踵を返すと壇上へ続く五段を一息に上がり、扉の前に控えた。
と、それを追うようにして、客らが小さくざわめいた。
ニトロ・ポルカトが、パトネト王子の手を引いて壇の下に歩み寄ったのだ。
ニトロは短い階段の下でパトネトの手を離し、王子に膝を突いて最敬礼をする。
顔を上げたニトロは、パティの頬に少しの不機嫌が現れているのを見て苦笑したかった。何と言ってもこの行為は、つい先ほど、主役の登場を前に周囲から人がはけ、ヴィタが壇前に現れた際にパトネト自身から聞いた通りに行ったことであるのに……それでも、いざ実行されるとどうしても気に入らないらしい。しかし、流石にパトネトもこれが『シナリオ』に沿ったものであるからには、それ以上の気難しさは表さない。
ニトロは、そのまま段下でパトネトと別れた。
今の辞儀は『臣下の礼』だった。
周囲も、ここで一度二人の立場が明確に分かれたことをその儀式によって理解する。
ニトロはパトネトがヴィタと少し距離を開けて扉の傍らに立つのを見――それから、衆目の中で小さく震えているパトネトがこちらを一瞥した時、微笑んでみせた。パトネトはきゅっと拳を握って胸を張った。
それを見届けたニトロは踵を返し、その場を離れて壁際に向かった。ニトロがすれ違う客らは彼の……『恋人』の行動に不可解さを表していたが、何しろあのクレイジー・プリンセスのことである。これも何かの下準備かもしれないと、それ以上の詮索はしない。
無事に壁際に戻ったニトロは、そこで静かに大きな息をついた。周りには誰もいない。今は給仕も全員いなくなっている。今は客がいなくて寂しそうなビュッフェ台の傍らで、一人きり。ニトロは安堵していた。
と、そこに、どこからか現れた紳士が急にニトロへ近寄ってきた。
ニトロは一瞬ぎょっとしたが、それが誰であるかを悟り、頬に大きな笑みを刻んだ。
燕尾服、蝶ネクタイの上に飄々とした顔を乗せた少年――とは思えぬ風格。
ハラキリ・ジジが、そこにいた。
主役の登場まで五分あまり。
声を潜めたざわめき満ちるホールの壁際に二人、ニトロは自然体で佇み、ハラキリは腕を組んで壁に寄りかかる。こちらをちらりと見た誰かがハラキリの態度に眉をひそめるが、ニトロのこれまでにない穏やかさに、ひそめた眉をそのまま訝しみの色に染めていく。
突如としてホールの照明が一斉に消えた。
闇が、皆を一気に高揚させた。
するとすぐに客の一角から声が上がった。また別の一角からも声が上がった。何事かと声を聞きつけた者達がそれぞれの方向に目をやると、そこには羽を持ち光り輝く30cm程の小さな人――まさに
楽団が軽快な曲を弾き出した。
メロディにあわせて妖精が空中に舞い踊る。初めは二人だった妖精も、いつの間に控えていたのか、ホールの天井から舞い降りてきた仲間達と合流して瞬く間に群れを成す。そうして何十人もの妖精達は、一見統率の取れた、されど一見皆々奔放なダンスを披露して観客の喝采を呼んだ。
そのメロディも、妖精達のダンスも、ニトロも良く知る有名なものであった。彼は思わず感心してしまう。これは『薔薇姫の夢』と呼ばれる歌劇――“薔薇の国”に迷い込んだ小さな姫君が一番初めに目撃することになる、劇中でも指折りの見所として知られる妖精達のダンスだ。幻想的にアレンジされたそれが『薔薇の宮殿』で演じられているとなれば、その演出の効果は素晴らしい。
(これもサプライズか?)
ホールは妖精達の輝きによりぼんやりと照らし上げられ、華麗に動き回る光源によってホールの至る所にある金や銀や螺鈿がキラキラと明滅して見える様は実に幻想的で、そう、ファンタジーを生んでいる。歓声や拍手が上がる中、思考の隅でそんなことを思いつつ、ニトロは親友に声をかけた。
「おそろしく似合うね」
ハラキリは苦笑した。てっきり演出への感想が来ると思っていたら、よもやそういうセリフとは。彼は組んでいた腕を解き、蝶ネクタイを少し緩め、ニトロへ目を向ける。
「自分自身では似合わないと思っているんですがね」
「いやいや、貴族を騙る詐欺師って感じでしっくりきてるよ」
ハラキリは、ニトロのその評価に眉を跳ね、さらに苦笑した。なるほど、その視点であれば実に――と、自身で納得してしまう。
つまり、
「実に胡散臭いと?」
ニトロはにやりと笑った。
「そういうこと」
ニトロの演出された笑みにハラキリは肩を揺らす。そして一つ息をつき、妖精達が時に腕を伸ばし、時に腕を組み合い、複雑に“立ち位置”を変えながら輝くその体を用いて空中に次々と幾何学模様を描き出す様を眺めながら、言う。
「いつでも助けに入れるよう様子を伺っていたのですが……そんな必要はありませんでしたね。お見事でした」
ハラキリの褒め言葉にニトロはくすぐったい思いをしながら、
「かなり一杯一杯だったよ。できればすぐに来て欲しかったくらいさ――てか、どこにいたんだよ」
「そこらにいましたよ。気づきませんで?」
「見つけたのはあの“拍手”をしてくれた時だけだよ」
それはパトネトと共にニトロがロザ宮に入ってきた時、硬直した場をほぐした手の音のことであった。あれはハラキリによるものだったのだ。ニトロの眼差しにハラキリは肩をすくめる。ニトロは文句を言うように声音に非難の色を混ぜ、
「けど、その後はどこにも見当たらなかった。どうせ死角にでも紛れてたんだろう?」
「その通りですが、しかし、だからといって見つけられないというのであれば、まだまだ修行が足りないということですね」
「そりゃあ俺はまだまだ未熟だよ。芍薬がいなきゃ客のプロフィールを覚えられなかったし、ハラキリがいないんなら頼みの綱を無くしてあんなに堂々と虚勢は張れない」
「虚勢ねぇ。そうでもないと思いますが」
「いやいや、そうなのさ」
「それにしても堂に入っていましたよ? まるでパトネト王子の『お義兄様』でした」
「そりゃあパティに格好悪いところは見せられないからね」
その物言いに、ハラキリはふむと鼻を鳴らした。てっきり否定が返ってくると思って、その先のからかいの言葉も考えていたのだが……
「まるでというより、まさに、と言う方が適切でしたか?」
「俺は義兄じゃないぞ?」
「何だか言動不一致ですねぇ」
「そうでもないさ」
「そうですよ。それに、妙な開き直りも感じる」
その物言いに、ニトロは少し笑った。その笑いのどこか隅の方に、ハラキリは何か言いようのないものを感じた。ハラキリが凝視するように見つめていると、ニトロは吐息を一つ挟み、パトネトを見つめながら穏やかに言った。