ホールの様子を王家広報撮影隊のカメラを通して見ていた王女達は、安堵と共に微笑を浮かべていた。
「第一歩、ね」
「はい。とても大きな一歩です」
 満足げにつぶやいたティディアへ、ミリュウが同意を送る。
 ティディアの眼前には、二つ表示された宙映画面エア・モニターがあった。
 左側には柱を背にして客の相手をしているニトロと弟の姿がある。『社交界の情報源』の異名を取る夫人の暗に娘を引き立ててもらおうという話術に対し、ニトロは素直で裏のない謙虚な言葉を返していた。ニトロの受け答えは一聴して馬鹿正直なほど素直で謙虚であるが、しかし、合格である。元々平和主義者で人を気遣う性分――その上でツッコミという『返しの技術』を得手にしている彼は、夫人を立てつつその攻勢を嫌味なく“回避”することに成功していた。
 一方、どうしても思惑通りにはいかない夫人ではあるが、そのわりに彼女は満足を顔に表している。ニトロが自分のことを“知っている”という情報を会話の中から拾い上げたためだ。となれば、初舞台において堂々とした『英雄』に対し百戦錬磨の夫人も引き際を心得たもの。自分のことが知られている以上下手な押し付けは逆効果と判断し、さらに今回は“お近づき”が叶っただけで十分と計算したらしい。娘と共に『次代の王』とその『未来の義弟』へ満面の笑みで頭を垂れ、次のターゲットに向けて肩で風を切るように去っていく。その後を慌てて追いかけていく彼女の末娘は……母によく似て器量だけはいいが、面前で繰り広げられた母と少年との会話をどれだけ理解しているだろうか。ここら辺は、あの夫人のうだつの上がらぬ夫によく似ている。
「それにしても……」
 と、右側の宙映画面エア・モニターに映る作業着姿のミリュウが、嬉しげに微笑みながら――その裏でひどく複雑な表情を刻みながら――言った。
「ニトロさんは、本当に、お人好しなのですね」
 ティディアも、本当に、そう思う。
 次にニトロに挨拶に訪れたのは『クロムン&シーザーズ金属加工研究所』のモーゼイ代表取締役であった。妻を伴った挨拶を受けて、ニトロは今回のクロノウォレスこくとの件について簡単な祝辞を述べている。周囲に幾人かいる事情通達が感心の吐息をつき、ミリュウも感嘆していた。妹は感嘆のままに、
「一体どれほど勉強されたのでしょう」
 その研究所のモーゼイ代表取締役は、その分野に特に興味のある人間か、普段からよほど注意深く情報を得ている人間でなければ顔と名を知れないほどに認知度が低い。一般的には(あるいは報道関係者ですら)特別顧問を務める前駐クロノウォレス大使が社長であると間違えられているほどだ。しかしニトロは、会釈の後、自己紹介を受ける前に祝辞を返していた。無論モーゼイ代表を“間違えない”だけならそこまで感嘆を得ることはないだろうが、彼が話題に出した内容は常に専門誌を精読していなければ触れられないレベルのものであった。礼儀としても素晴らしく、知識としても素晴らしい。
「ここまで立派にこなさなくてもいいのにねー」
 ここまでのニトロの振る舞いは、贔屓目を抜いても実に立派だった。
 社交界に慣れた人間に全く劣らない。
 それどころか貴族の子女でもここまでの貫禄をデビューから見せられる者はそうはいない。
 グラム・バードンを相手にしての気後れのないやり取り。フルセル夫妻他一般市民達の緊張をほぐす気配り。以降の全て……見ているこちらが嬉しくなってくるほどの、誇らしい姿。
 だが、本当に、ここまで立派でなくても別に良かったのだ。
 なにしろ、いくら『王女の恋人』としても彼は社交界にコネクションのない一般市民であることが知れ渡っており、その上で初めてこのような場に出てくることも周知されている。彼が社交界の流儀を知らなくとも、またそこに初めから溶け込めないでいても誰も責めはしない。それは至極当然なこととして許される。それどころか初々しいと好感をも得るだろう。
 ニトロが――それにあの芍薬が、そこに思い至らぬわけがない。そしてそこに思い至れば、こんなにも自ら進んで『王の器』を見せつけるようなことをしようと思うはずがない。さらに『ティディア』のみならず、『パトネト』にとっても自分が重要人物となっていることをことさら示すようなことなど絶対にしまい。
 それなのに、そうだ、これではまるでむしろ彼自身が自ら望んで『次代の王』に相応しいと証明しているようではないか!
 しかし、それこそありえないことだ。
 彼が、彼自身のために、そのようなことをするはずがない。
 それなのに……彼がその姿を公に見せつけているのは、自分に“不利”があると解っていながらそうするのは、ひとえにパトネトのためだ。
 ティディアはこの件でニトロと相談したことはない。それでも、相談をしなくとも彼女には判ることであった。
 彼はパトネトの将来を考えてくれているのだ。ともすれば、方向性は違えど以前のミリュウのように未来を自ら壊しかねない可能性を孕んでいる弟のことを“他人”でありながら親身になって考えてくれているのだ。彼は、そういうとても優しい人間であるのだから。いつまでもこれほど甘えさせてくれるとは思えないが、少なくとも弟の内側に確固とした足場が作られるまでは面倒を見てくれるだろう。
 ティディアはそう考えていたが、早くも今日、弟には確固とした足場が一段大きく積み上げられた。この経験は今後も弟にとって非常に重要なものとして育まれていくはずだ。弟には、弟の類稀なる才能の故に懸念も大きかったが、今では懸念の雲は晴れていき、ただ明るい未来ばかりを思い浮かべさせてくれる。
「……」
 しかしティディアは、そんな明るい未来と現在のニトロの姿を見比べようとすると、時々奇妙な不安を感じることがあった。
 優しく堂々と、もはや『ティディアの恋人』という光明などなくとも自ら輝く彼の姿を見ていると、彼が輝いているからこそであろうか、今の彼は何だか急に消えていなくなりそうな……そんな不安がすっと心に吹き込んでくるのである。
 彼が成長したニトロ・ポルカトの姿を見せてくれることはこの上なく嬉しく、同時に堪らないほど愛しいことだというのに、おかしなものだとは思う。
 これも『恋の病』の症状の一つなのだろうか。
 ……きっとそうなのだろう。
 恋心に常に付きまとう喪失への恐怖が生む臆病風なのだろう。
 ティディアはじっと、モニターを見つめていた。
 パトネトは相変わらずニトロの陰に隠れているものの――相変わらず不安と猜疑に満ちた眼をしているものの――それでもあの子なりに懸命に頑張っている。そして、あの子がそうしていられるのも、あの子が繋ぐ彼の手と、彼の背の力強さにあることがカメラ越しにも良く解る。

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