「こんばんは」
 ニトロが声をかけたのは、北副王都ノスカルラでのチャリティーイベントの折、そこで行われた抽選に当たったがためにここにやってきた老夫婦であった。こちらも双方関節も真っ直ぐに闊達な老人であるが、流石に先のグラム・バードンと比べては老齢の衰えを見せている。無論、グラム・バードンが人並みを外れているだけなのだが、しかし、それが故に、老夫婦は健やかな老いのみが持つ穏やかな表情を皺に刻んでいた、はずなのだが……
「この前はお世話になりました。楽しんでいらっしゃいますか?」
 その五十年連れ添った夫婦は、柱の根元に小さく隠れるように肩を寄せ合っていた。精一杯の“おめかし”をしていても、面持ちは緊張の極限。顔色は蒼白に近い。折角の柔和な表情もこれでは憐れみしか湛えておらず、それを彼ら自身理解していたのだろう。一度晩餐を共にした穏和な少年の挨拶を受けて、笑顔を無理にも作って挨拶を返す。
「これはこれは、ポルカト様。いえ、どうにもこのような場は初めてですから……水も喉を通らない次第でして」
 燕尾服に身を包んだ夫が、がちがちに身を固めている妻の手を握りながら言う。その口調が晩餐の時よりも改められ、完全に『目上』に対するものとなっているのがニトロには少し寂しかったが、まあ、ここでそうなるなと言う方が酷だろう。何しろ、夫婦の表情は明らかに物語っている。まさかここで初めにニトロから声をかけられるのが自分たちであるとは! と。
 だが、ニトロが初めて声をかけるとすれば、老夫妻はこれ以上ない最適な人選であったのである。
(いや……)
 老齢の男性の口調を寂しいと思ったことこそ、身勝手だった、とニトロは考えを改める。
(俺の方が、悪いことをしてるな)
 そう、ニトロは利用していたのだ。『最適な人選』――経緯はどうあれ自分が招待した形とも取れる唯一の客にまず挨拶することは、周囲の人間から見ても至極自然なことであるために。
「それは勿体無いですよ。ここにある料理はどれも極上ですから、どうぞ堪能してください」
「は、それは……そうですが」
「大丈夫です」
 ニトロは微笑んだ。
「何か困ったことがあれば僕に遠慮なく。とはいえ、僕もこういうところは初めてで……実は物凄く緊張しているんですけどね」
 小さく困ったように微笑の形を変え、肩の緊張をほぐすようにしながらの言葉に、老夫婦の肩からも力が抜けた。その頬にも自然な笑みが浮かんでいる。
 ニトロはこれなら大丈夫だろうと、右手を引いた。
「パティ。こちら、フルセルご夫妻だよ」
 ニトロの紹介を受け、パトネトは一瞬どのようにすればいいのか分からない様子を見せた。しかしニトロは微笑んで見守ってくれている。やおら彼はニトロと手をつなぎ直し、おずおずと言う。
「こんばんは」
 すると、フルセル夫妻は慌てて膝を突き、王子の挨拶を恐縮余りある態度で受け取った。
「ご尊顔を拝し、恐悦、至極に存知、ます」
 夫婦共に、再びガッチガチに体を固めての挨拶である。
「おモてをアげて」
 そこにガッチガチの抑揚でパトネトが慌てて言った。
「楽にシて」
 先ほども口にしたセリフを繰り返す。
 その光景は、一種微笑ましくもあった。
 ニトロに耳打ちされて、パトネトが躊躇いがちに右手を差し出す。その手を恐縮の限りで受け取り、フルセル夫人が立ち上がる。それを目を細めて見守るニトロの姿はまさに『兄』であり、彼の言う通り、何か困れば彼が助けてくれるという安心感が老夫婦の緊張を完全に和らげ――他方、相手が柔和な(ニトロの知る)老夫婦ということもあり、パトネトの緊張も少しだけ和らぐ。
 ニトロを介しながら老婦人とぽつぽつと言葉を交わすパトネトの声は可愛らしく、また微笑ましい。
 その微笑ましさは、人見知りの王子への遠慮の壁を少しだけ崩した。
 それを契機として、我先にと、ようやく人前に現れた王子――また『次代の王』と挨拶を交わそうと人がゆっくりと――それだけに迫力を伴い押し寄せ出す。
 背後の気配を察知し、それを肩越しに一瞥したニトロは一瞬慌てたが……そのタイミングで、芍薬が戻ってきてくれた。
 トレイに乗せた細いグラスには、鮮やかなオレンジ。
「オ待タセイタシマシタ」
「ありがとう」
 グラスを受け取りニトロが言う。
 パトネトもグラスを受け取り、
「ありがとう」
 これまでにない明るい声、これまでにない満面の笑みで言う。
 そのあまりに愛らしい態度に、周囲の婦人達が吐息を漏らした。
 そして、二人が飲み物を手にしたことは、二人が『一息入れている』風体をも皆に示したのである。
 ニトロは悠然と構えてフルセル氏と言葉を交わしている。となれば、ここに我先にと声をかけるのはマイナスであろう。
 その判断が正しいことを示すように、ニトロは絶妙のタイミングで別の一般市民の招待客に声をかけた。その際にパトネト王子が老夫婦にぺこりと頭を下げたのがまた婦人達の好評を誘い、うまく立ち回れば自分たちもそのような恩恵に預かれるという『結果』が場の流れを完全に掌握した。
 いつしか楽団が、改めてメロディを奏でていた。
 やがてニトロは、それまでティディアの無作為抽選によってこの場に駆り出された市民らと言葉を交わし終え、その緊張を多種の気配りでほぐし終えた。
 と、その頃合を見計らってニトロに(あるいはニトロ・ポルカトを媒介としてパトネト王子に)ある下級貴族の婦人が連れの……妹だろう婦人を伴い挨拶をする。
 多くの有力者がその様子を見守っていた。
 駄目押しのテストケースである
 ニトロは常に穏やかで友好的であり、誰を相手にも気後れすることなく公平に対応する。王子は再び『兄』の後ろに隠れてうつむいているが、それでも彼に促されると言葉はなくともうなずきや素振りといった仕草で返事をする。美少女よりも美少女らしい――そう称されるパトネトのその様子は、不思議と他人に情けなさや鬱陶しさを感じさせない。むしろ人々の胸に庇護欲を喚起させ、彼独特の愛嬌として皆の目に映っていた。
 婦人は、妹と共に『英雄』の活躍を少々大袈裟にも褒めた。言葉を交わすうちに姉妹は興奮を増していて、幾人かはニトロがその勢いに閉口するのではと不安に思ったが、しかし、彼は不愉快などおくびにも出さず、それどころかはにかみながら謙虚な応答を返した。それはまさにいつもながらの『ニトロ・ポルカト』であり、その光景はまた、先の『結果』を絶対的なものとしたのである。
 ――この“距離感”を間違えなければ、失敗はない。
 そして、この構図が完成した瞬間、もう一つの結果が確定することとなった。
 そう、ニトロ・ポルカトと、何よりパトネト・フォン・アデムメデス・ロディアーナのデビューが、無事に行われたのである。

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