「お初にお目にかかる。ニトロ・ポルカト殿」
 細いシャンパングラスを手にした大柄な男性が、頭を下げてなおニトロを見下ろしていた。身長は190を超え、肩幅は広く、王軍親衛隊の礼服の両肩を飾る肩章がいっそう体躯を大きく見せている。胸にはいくつもの勲章が連なっていた。生気溢れる顔には厳しい皺が刻まれ、短く刈り込まれたシルバーブロンドと、揉み上げから顎までを覆う見事な髭が彼に熊のような印象を抱かせる。ぎょろつく大きなグレーの瞳には、気の弱い者でなくともそれだけで威圧されるであろう力がこめられている。
 しかしニトロは怯むことなどなく、それら全てをにこりと柔らかに受け止めた。そして、その男性が続ける前に言う。
「初めまして、グラム・バードン公爵閣下。機会あれば、いつか御礼申し上げねばと思っていました」
 グラム・バードン――その名は、常に一代限りの公爵に与えられる特別な名である。その名と爵位は一組のものであり、その名を頂きその爵位を戴くにも特別な条件がある。例えば以前は“ニトロ・ポルカト”であった者は、ある瞬間から戸籍や経歴のみならず身分照明情報アイデンティティすらも抹消し、顔など変えられるところは変え……つまり“生前”の“自分を殺して”新たに『グラム・バードン』というロディアーナ朝設立以来同じ名を持つ存在とならねばならない。ある意味で、生きた幽霊である『グラム・バードン』は代々同じ任務につく。王軍――王位及び各王位継承権者を守るそれぞれの親衛隊と近衛兵を含む総称――五代女王の頃より設立された、国軍に属しながら実質私設軍であるその部隊の、総隊長である。
「常日頃からまことにお助けいただいています。閣下と、また閣下の誉れある貴軍皆様のご尽力に、この良き日に、この場をお借りして、心より感謝を申し上げます」
 本来、王の直属であるはずの総隊長は、現在、実質第一王位継承者の直属である。ニトロがいつもバカ姫から迷惑かけられる際にそのスタッフとして動いているのも、他方、特に最近勢いを増している“ファン”やマスメディアから警護してくれているのも彼の指揮下にある部下達だ。
 グラム・バードンは、ニトロの礼を受け、豪快に笑った。
「お言いなさるなポルカト殿。それが我らの務めです」
 笑うたびに揺れる体は、それだけで鋼のように鍛えこまれていることが解る。彼が当代グラム・バードンとなってから半世紀以上、少なく見積もっても七十を越えた年齢にあって、肉体的にも精神的にも衰えを欠片も見せない闊達さにニトロは思わず笑ってしまう。
「それにしても、小生、常日頃から貴殿の活躍には大いに感心しておりますぞ」
 どこか覗き込むような物言いで、彼は言う。
 ティディア直属の彼は、『ニトロ・ポルカト』に関するいくつか事件の『真実』を知る立場にある。一面ではニトロにそれを臭わせるような発言だ。
 しかしニトロは苦笑するように小首を傾げて、そのジェスチャー以外に何も応えない。秘するが花。沈黙は金。下手な返しは、ツッコミとしても禁忌だ。
 すると、グラム・バードンは面白そうに目を細めた。
「機会あらば、いつか剣のお相手をさせていただきたいものですな」
 当代グラム・バードン公爵といえば――つまり、彼はティディアの剣の師である。
 ニトロは微笑み、刃物を手にするジェスチャーをしながら、
剣術つるぎではなく料理ほうちょうでなら、いつでも喜んで」
 はっきりとした、かつ、この状況にあっての洒落た返しにグラム・バードンは再び豪快に笑った。笑いながらニトロを力のある瞳で見つめ、その背後で震えるパトネトを見、その小さな手がニトロの手をきゅっと握りこむ様子に王子の彼への信頼の強さを確認し、やおら顎鬚を撫でながら笑い声を止める。
 グラム・バードンは今一度ニトロを見つめた。
 ニトロは堂々と胸を張っている。それだけでなく、挨拶以降は相手から先を奪って会話の流れを制してきて、返し技も決めてきた。この少年の胆力は知っていたが……
「……」
 ニトロへ、グラム・バードンはシャンパングラスを軽く差し上げて見せた。
「ティディア王太子殿下に」
 続けて「では」と短く言って会釈し、悠々と肩を揺らしてグラム・バードンは去っていった。
 その大きな背を見送るニトロは、パトネトと繋いでいる手を濡らす汗が幼い王子のものなのか自分のものなのかもう分からなかった。
 しかし、山の一つを越えたことは確かである。
 今のやり取りに何らかの迫力を感じたのか、それとも感心を得たのか、とにかく動きを止めている周囲が再び話しかけてくる前に目的地へ――内心急ぎながら――歩を進める。
 そうしてニトロは、ようやく、パトネトをある場所にエスコートできた。
 そこは壁際、まさに立食用の料理の並ぶビュッフェ台の前。
 ニトロが目を向けるのは、泣きボクロのあるウェイトレス・アンドロイドであった。
「オレンジジュースを二つ」
「カシコマリマシタ」
 アンドロイドは恭しく頭を垂れ、そして去り際に微かにウィンクをパトネトに送る。姿も声も変えられているが、それが芍薬だと知っているパトネトにいくばくかの安堵が差し込まれた。
 それからニトロは周囲に目をやった。
 ここには居場所を掴みかねておどおどとしている、ティディアが無作為に招待した一般市民が肩身狭く集まっていた。皆、王女が手配した担当者に手伝ってもらって思い思いに着飾っている。されど普段からこのような機会に触れることなく、間違いなく初めて着たであろう豪華なドレスに身を包む女性達は完全に服に着られており、慣れぬ姿にぎこちない女性をエスコートすることにもやはり不慣れな男性達もお仕着せの燕尾服に肩を強張らせていた。

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