門番の近衛兵の脇をすり抜け、開け放たれた玄関を通り抜けたニトロはそこで足を止めた――いや、止めさせられていた。
「――ッ」
 ロザ宮に入ったとほぼ同時、手をつないだパトネトが小さく息を飲み、全身を硬直させて立ち止まったためである。
 ニトロとパトネトのすぐ目の前にはちょうど外に出ようとしていた二人の紳士がいた。玄関から入ってきたニトロ達と鉢合わせた形だ。共に燕尾服に身を包んだ片方はロマンスグレーの髪と口髭、もう片方は風格ある隣の紳士を若くした形で、どうやら父子であるらしい。
「お」
 と、思わず驚きの声を上げたのは息子であった。初老の紳士は声には出さないまでも丸くなった目で驚きを表している。そしてその声に導かれ、何人かの婦人の短い驚きと歓びの声が上がり、その瞬間、三百人弱の全ての眼がニトロとパトネトに振り返り、彼らを凝視したのである。
 一拍の沈黙の後に、大きなざわめきがあった。
 それらは全てこれまでニトロが聞いてきたものと同種であった。
『来ることが分かっていながら、実際に目にして驚きを隠せない』心理の表れ。
 もちろん『ニトロ・ポルカト』が来ることが疑われる点は一つもなかったであろう。だが、『パトネト王子』はそうではない。土壇場においての欠席なども当然考慮されていたし、むしろそうなるであろうという向きも強かった。――そう、その“驚き”は、一種定説が覆された際に喚起される感情に極めて近かったのである。
 そして皆一様の感情を共有した集団は、そのため増幅された自心に縛られ動きを止めてしまっていた。やがて、徐々に目の前の現実が受け止められるに従い、集団の中に誰かが何かを言うのを待っているような気配が生じ、その気配が逆に自分が何かを言っていいのか戸惑わせる空気を作り上げる。そうしているうちに、もし自分が何かを言うことで、あるいはその御二人が何かお声を発されることを妨げてしまうのではないか? と、ニトロとパトネトの不興を買う可能性を恐れて怯む様子も散見され始める。
 純粋な歓喜から計算高い功名心まで、色も形も様々なものが絡み合う沈黙は異様な重さがあり、それはパトネトをさらに怯えさせる結果となった。
 王子は、唯一心を許すニトロの陰に半ば隠れた。
 王子の双眸は不安と恐怖と猜疑心に満ちている。
 それがまた、周囲に困惑じみた沈黙を強いた。
 有体に言って、ニトロのこれまでの道中では“移動中”という状況が――つまり突然の遭遇も一過性のものであり、逆にもたついていると挨拶も出来ないままに二人の背中を見る羽目となる、それこそが不敬であるという状況が周囲に『距離感』を見失わせなかった。
 しかし、今、ニトロとパトネトは目的地に辿り着いた。この遭遇は一過性のものではなく、どんなにもたつこうがその存在はここにあり続ける。あのクレイジー・プリンセスの『恋人』と、王家の『秘蔵っ子様』というある種の脅威を不意打ちの形で真正面から受け止める羽目になった客の皆が、怯える王子を正面にして完全に竦んでしまうのも無理のないことであろう。
 楽団の音までもが、止まっていた。
 ホールはシンと静まり返っていた。
 それは、そう長い時間に起こったことではない。しかし、この場にいる人間にはとてつもなく長い数秒であった。
 パトネトはニトロの右手をまるで縋りつくように両手で強く握り締め、また少しニトロの陰に入っていく。
 ニトロは、そろそろ完全に背中に回りこみそうなパトネトの“恐怖”を感じ取りながら、少しだけパトネトの手を強く握り返した。
 大丈夫だよ、と。
 その力強さにパトネトは一度ニトロを見上げた。
 するとそこにはニトロの微笑があった。
「……」
 パトネトは、ニトロの陰から少しだけ表に戻り、そして、ホールに居並ぶ列席の皆に向けて――少しぎこちなくも微笑みを浮かべて見せた。
 その時、まるで機を見計らったかのような最高のタイミングで、どこからか拍手が鳴った。
 それにつられて皆が王子を歓迎する拍手を打ち鳴らした。
 音響の良いホールに温かな拍手が鳴り響く中、ニトロは――初めの拍手の方向へ微かな笑みを一瞬だけ見せ――皆に向けて丁寧に辞儀をした。パトネトは目礼程度にしか返せないが、それでもそこにいる人間にとっては十分だった。何故なら、自分達は、間違いなくこの瞬間を他人に誇れるのだから。
 ニトロはさらに内へと足を踏み入れた。慌ててパトネトも追ってくる。
 眼前の、やはり皆と同様に拍手をする紳士二人へニトロは、
「こんばんは」
 と努めて穏やかに声をかけ、そして穏やかな微笑と返答を受けながら、こちらの右手を右手で掴み、左手で燕尾服の裾を握って付いてくるパトネトの歩調を乱さぬよう気をつけながら右方の壁際に向かった。
 ゆっくりと進んでくる二人の前にいる人間は道を開け、思い思いの挨拶の言葉を投げかけてくる。ニトロは会釈し、時に相応しい返答を送りながら、
(――さて)
 ニトロは、一つ安堵していた。
 最悪の場合、ここで人が殺到してくると思っていたのだが……幸いにもそのようなことはなく、それどころか未だ誰も接近しようとはしてこない。しかし、このパターンもニトロは芍薬と共に想定していた。『極度の人見知り』で知られる王子に対し適切な距離感を掴める者は、先の集団の行動停止が証明したように存在しない。招待客の中には王家に近い貴族などもいるが、それでも――いや、むしろそのような立場だからこそ我先にと駆け寄ってくる者はいない。極上の好機を前にして目をギラつかせている人間も散見されるが、これまた、そのような人間こそこの好機を失わないよう誰かが“犠牲”になることを望んでいる。ニトロ・ポルカトもパトネト王子も距離感が解らなければ応答可能な話題も見えにくい。だから能天気な人間がミーハー気分でお近づきになろうとしてはくれまいか? 失敗してくれると地雷原も見えて好ましい。それを見てからこちらは動くから、と。
 流石は、王女の誕生日会に招待されるだけの格――とでも言おうか。上流の人間の持つ“間合い”が、この場を混乱には導かないでいる。
 しかし、
(パティにはきついなあ)
 短い時間の中で、敏感に“利己的な皮算用”の臭いを嗅ぎつけたニトロは、改めてそう思った。思って、ふと、ミリュウにも――やはり本質的には似合わないと思う。すると次にティディアが浮かんできて……
(いや、あいつは嬉々として楽しむな。ていうか楽しみすぎるか)
 しかも意地悪く場を掻き混ぜて。意気揚々と野心や功名心をくすぐりながら失望もさせて。
 歩きながら、ニトロは努めてそんなことを考えていた。そういうことを考えていれば、この場に渦巻く空気には飲まれない。――それも、彼なりの間合いの取り方であった。
 と、
「良い夜ですな」
 ふいに、ニトロの横顔に張りのある声がかかった。
 その声にはただの挨拶ではない、この場に引き止める力があった。
 ニトロは足を止めた。パトネトがびくりと体を震わせ、ニトロにしがみつくようにして止まる。
 ……周囲の人間は、固唾を呑んでいた。
「大きくなられましたな、殿下。実にお健やかであられる。小生、真に嬉しゅうございますぞ」
 おずおずとパトネトがうなずく。
 幼い王子に頭を垂れ、満面の笑みを向けた後、その男はニトロへ向き直った。

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