別世界だった。
 話に聞き、映像でも見たことのあるロザ宮の薔薇園。
 館をぐるりと囲む、春夏秋冬四季を通して様々な品種が咲き誇り続ける華やかな庭。
 しかし、違う!
 話に聞いただけでは、映像で見ただけでは感じられない華麗さ、優雅さ、美しさ……一度暗い場所を通って来たためもあるだろう、ニトロの目に飛び込んできたのは光を受けてことさら眩しく輝く見事な薔薇の花々だった。そして、別世界なのだ! 彼が味わったのは、薔薇の香りと彩りと、夢のような薔薇園に飾られながらも存在感を示す瀟洒な宮が作り出す、そう、これはまさに『御伽噺の世界に入り込んでしまった』という感覚だったのである。
「ね?」
 くすくすと笑いながら、パトネトがニトロを見上げる。
 ニトロはうなずくしかない。
 生垣の壁で仕切られた中庭とこちらでは、様子が全く違っていた。あのトンネルがこの感動のための演出であるのは(園芸好きの母のせいもあって)理解できるが、それでも、理解と実感の違いに心身が痺れてしまう。現実感が薄れ、浮き足立ちそうになる。
 どこからか漏れ聞こえてくる調べにも美しく……と、ニトロは、本来ならば彼をそのまま美への恍惚へと導くであろうメロディに、逆に我を取り戻させられた。
 そのメロディは、今は開け放たれているであろう宮の扉から流れ出てきているはずだ。
 そう思えば思考も認識も正常に戻り、薔薇園にはちらほらと招待客の姿があることにも彼は気づいた。
 誰もが、一様に驚き直立不動の体勢であった。あまりに硬直しているから、自分の視覚はそれを庭の装飾品と錯覚していたのかもしれない。――そんなことを思いながら、ニトロはこちらの反応に気をとられて緊張を忘れているパトネトに目をやり、微笑んだ。
「とても綺麗だ」
 パトネトは嬉しそうにうなずく。
 その様子に最も近くにいた婦人が感嘆の吐息を漏らし、そこでパトネトも“正常”に戻った。
 ニトロは、一瞬にして固い緊張状態に揺り戻ったパトネトの代わりに、薔薇園にいる者達へ丁寧に会釈をした。
 薔薇園の中には、ニトロが、受験勉強と並行して招待客の素性を予習する中で芍薬が特に覚えておくべきとリストアップした人物……曰く『社交界の情報源』という異名を取る有名な中級貴族の夫人もいた。ばちりと夫人と目が合ったニトロは、彼女と共にいる娘であるらしい少女にも向けて、微笑と共に会釈する。
 この会に『厳格な序列』はない。もちろん身分や立場による序列は存在するものの、先ほど我に返った伯爵夫婦がニトロのみならず王子に対しても簡略な挨拶をしてきたように、この会では最敬礼のような礼式は必要とされていない。もし必要とされる場面があるならばそれはその時に明確に解る。また、とはいえ『厳格な序列』はなくとも『礼儀としての序列』は当然存在する。それに対するバランス感覚は普通なら数々の社交界での交流の中で目上の人間に導かれながら学び取るものであるのだが……そのような機会を経ていないニトロには極めて難しいことであった。
 これについてニトロはヴィタに相談を持ちかけていたのだが、「ニトロ様なら周囲の反応からすぐに学び取れるでしょう」――と、彼は彼女から告げられていた。
 そしてその通り、夫人はニトロへ、彼と同様に微笑を伴う会釈を優雅に返してきた。流石は社交界に名を馳せる夫人である。これまで驚きに固まっていた者達とは違い、続けてパトネトへ、軽くスカートの裾を持ち上げて膝を曲げ、腰までは曲げないものの、ニトロに対するものより深く頭を垂れる。娘も慌てて同様に頭を垂れた。
(なるほど……)
『親愛なるティディア姫』が用意したこの“気軽な”祝宴において下手に格式ばっては野暮になる。野暮にならない程度に、それでいてきちんと敬意を示す塩梅……きっと娘は母からそれを学んでいるところだろう。そしてニトロも、この夫人の感覚ならば間違いないだろうと即座に学び取った。先の伯爵夫婦のものと合わせて検討すれば、それはより具体的に彼の感覚にすり込まれていく。
 ――いつの頃からか、彼はアドリブが得意なのだ。
 ところでパトネトは、明るいところに出たため相手の正体をはっきり見取れるようになったことが苦痛であるらしかった。やはり中庭では淡い間接光の作る影が彼を勇気付けていたのだろう、ニトロにぴったりとくっついて歩く彼はもはや誰の会釈も見ることはない。夫人の会釈にも応えないが、その事情はあちらも理解している。彼女は『ニトロ・ポルカト』にもう一度会釈を返されたことで満足そうであった。
(さて)
 ニトロは歩き出した。
 パトネトも、ニトロにぴたりとくっついたままついてくる。
 そこかしこから遅れて挨拶の言葉が飛んでくるのに、ニトロは丁寧に応えていった。一方、パトネトは次第にうつむきを深くしている。
 しかし、ニトロはパトネトに何も強制はしない。幸いこの子の『人見知り』は有名だ。この反応こそが当然であるために相手が可憐な王子の無愛想に不快を感じることはない。それどころか、おかしな話だが、この反応こそを嬉しく捕らえるはずだ。そして初めて社交の場に出てきたこの『秘蔵っ子様』をその目で見られたことこそを光栄に感じていることだろう。
 その判断は、間違っていなかった。ニトロは、周囲の様子から自分の判断が正しいことを確かに感じ取っていた。何しろどこを見ても朗らかな自然な笑顔があり、視界の隅では少々ミーハーな反応を示している婦人もいるのだから、パトネトの姿が不愉快を生んでいないのは明らかだった。
(上々、上々)
 ニトロも、パトネトの汗ばむ手を引きながら満足を得ていた。
 パトネトは常に躊躇いがちではあるが前に向けて足を出し続けている。
 彼が立ち止まらず、ここから逃げ出そうとしないだけで今は十分なのだ。絶食していた人間に急にたくさん食べさせてはいけないように、少しずつ慣らしていくのが肝心だ。これまで中庭を通ってそうしてきたように。
(……けれど)
 そろそろ、たくさん食べなくてはいけない時間がやってくる。
 この薔薇園にはまだ人が少なく、屋外ということで開放感もあるが……
 ニトロは一度立ち止まった。パトネトもぴたりと止まる。
「パティ」
 とうとうパトネトにとっての――かつ自分にとっても――『山場』が迫ってきた。
 二人の目の先にはロザ宮の開け放たれた門扉がある。近衛兵の服を着た門番が二人いて、宮の中からは楽団の奏でる優雅な調べが先より音を増して流れ出し、そこに大勢のざわめきが混じりこんでいる。
 ニトロは囁いた。
「平気だね?」
「――ん」
 パトネトは、口を真一文字に結び、少し震えながらも、しっかりとうなずいた。
「よし」
 ニトロは、パトネトが気後れしないよう努めて堂々と足を踏み出した。
 その姿は彼の抱く一種の使命感により勇ましい印象を見る者に与えた。
 そして誰よりも、ニトロより少し遅れ、彼に半ば隠れるようにぴったりと歩くパトネトこそがまさにその『兄』の背中に勇気付けられ、大きな安心感を得ていたのである。
 と同時に、パトネトは彼に対して――大好きなミリュウお姉ちゃんを救ってくれて、また大好きなお姉ちゃんに純粋な温かさを芽生えさせていき、それから“僕にもとても大切なもの”をくれる彼に対してとても大きな憧れを胸に溢れさせ、その憧れに引っ張られるようにして歩を進めていた。
 ――その二人が描き出す様子は、薔薇園にいる招待客にとってニトロ・ポルカトという『英雄』が英雄たる証明に他ならなかった。極度の『人見知り』の王子がこのような場所に出てきたのは、間違いなく彼のお陰だという印象が人々に強く強く刻み込まれる。
 無論、これはニトロにとって皮肉な結果ではある。
 だが、ニトロは、今日ばかりはそれも折り込み済みで腹を括ってきたのだ。そのために彼の顔つきはますます意志強く引き締まり、その雰囲気を敏感に感じ取るパトネトは大勢の喧騒を間近にしながらも決して立ち止まらない。ここでやっぱり嫌だと立ち止まってはニトロ君を失望させてしまうから、立ち止まらない。
 そうして、ニトロとパトネトは、共にロザ宮の中へと飛び込んでいった。

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