ロディアーナ宮殿の広い中庭は幻想的にライトアップされていた。
 ジオ式と呼ばれる、幾何学に設計思想を委ねる庭園様式。外から見れば生垣の造る美しい緑の線と白い石畳の線が描く交差の美を眺められ、内から眺めれば整然とした緑のリズムに心地良さを感じられる。生垣には常緑の品種が用いられ、下草のように植えられた季節の小さな花々がアクセントを生んで庭園を歩く者を飽きさせない。庭の中心に設けられた池と噴水は、静けさの中へ不規則ながらに快い水の囁きを投げかけて客をもてなす。それでいて、心地良さにかまけてばかりの客は簡単に迷わせてしまう少し天邪鬼な性質を持つ庭。
 ティディアの誕生日会に呼ばれた客は、公式に発表された招待状の数から150人であった。一昨年の『サプライズ』故の惨状から会への参加へ気後れする者はあっても、断る者は皆無である。招待客は一人付き添いを連れて来ることが許されているため、結果、会に馳せ参じた招待客と合わせて305人となっていた。端数の5の内訳は、非公式な客であるハラキリと、北大陸のチャリティーイベントで幸運を射止めた老夫婦、それから最大の目玉客――パトネトとニトロである。
 招待客は皆、王女の手配した迎えによって会場に連れられて来ることになっていた。大昔は馬車であったが、現在は車内にミニバーすらある最高級の飛行車だ。そしてこの宮殿に招き入れられた客らはパーティーが始まるまで、ロザ宮と中庭で自由に宴を楽しめる。
 客が集まる主たる舞台はもちろんロザ宮であった。
 現在、ロザ宮のホールでは様々な交友が育まれている。普段面識のない人間、普段面識を得ようもない人間同士も一同に会するまさに社交の場。主人ホストが気楽にくつろげるようにと設けた立食のためのビュッフェ台に並ぶのは、王城と宮殿、それぞれの料理長が競い作り上げた逸品ばかり。舌の肥えた貴族や資産家も鼓を打つ料理には誰もが虜となる。給仕の運ぶドリンクも名品名酒揃いで美味であり、王立アデムメデス交響楽団の奏でるBGMが耳を華やかにくすぐる。夢のように優雅な空間で、客らはグラスを傾けながら料理についての感想を糸口に交流を深めていた。
 そのため、いくら名園とはいえ、ホールに比べて寂しい中庭に出る者はフレアの言った通りに少ない。
 だが、アデムメデスに名高いロザ宮も美味なる料理も最高の音楽も捨て置いて、ロザ宮と同様に名高い中庭を静かに楽しんでいた者こそ幸運であっただろう。
 庭のどこかで奏でられている四重奏を聴きながら、一番初めに彼らをその目で見たのは若い貴族夫婦だった。
 喧騒を逃れて水の湧く音が心を落ち着かせる池の辺へとやってきていた夫婦は、そこでロディアーナ宮殿の方角から現れた少年二人を前にして文字通り息を飲み、瞠目した。その“御二人”が参加されることは知っていたものの、まさかここで遭遇するとは思ってもみなかった――そして参加されると知ってはいたものの実際にその姿を見るまで信じられないでいた――そのため二重の驚きに打たれたのである。少年達の片方は少年と言っても青年に近く、もう片方は幼年の最中にあり、また少年というよりも美少女と言う方が的確に思える……それを何度も確認するように見つめた後、若い夫婦は慌てて膝を突くや深々と頭を垂れた。
 ニトロは、立ち止まった。
 噴水から飛び散る水の飛沫が、絶えず揺れる池の水面が光を受けて美しく輝いている。それを傍らにして、この幻想的な光景には不似合いなほど恐縮し畏まる男女がいる。
 ニトロは、それから『他人』に遭遇して息を止めているパトネトを見た。
 パトネトの顔は蒼白であった。ついさっき、中庭に出る前に見た活気は微塵もなくなっていた。まあ、無理もない。いくら覚悟しても怖いものは怖い。強固な決心が瞬く間に揺らいでしまうのも、むしろ自然なことだろう。
 そこでニトロは、少しだけパトネトと繋ぐ手に力を込めた。
 パトネトがニトロを見上げるが、ニトロはパトネトを見ない。見ないことで信頼を伝える。
 彼のその信頼は、パトネトにはひどく嬉しかった。喜びが彼の決意を刺激して、瞬時に萎れてしまっていた勇気を懸命に生き返らせる。
「……おもてを、上げて」
 細く小さい――パトネトの振り絞った声が、辛うじて貴族夫婦に届く。二人が顔を上げたのを見て、パトネトは額に薄く汗を滲ませながら言った。
「楽にして」
 貴族夫婦の表情は、庭を照らし上げる間接光の中で半ば影が覆ってよく判らない。しかし、どうやら呆然としているらしい。
 まさか、この王子から……これまでどんな高い地位の貴族にも声をかけた記録のない王子から直接声をかけられるとは思ってもみなかったのだろう。どうしていいのか分からないように、ニトロへ目を移してくる。
 ニトロは相手の顔を見つめ――相手が話題の東大陸のある領主の息子夫婦(位は伯爵だったか)であることを思い出しつつ――丁寧に会釈した。
「こんばんは。良い夜ですね」
 ニトロの声に緊張はなく、王子と並び立っているのにその威を借る素振りなどは微塵もなく、そこにはただ偶然出会った祝宴を同じくする目上の人間への真摯な挨拶だけがあった。
 王女の『映画』の共演者として、いきなり王女を殴りつけるという衝撃のデビューを果たして以来、『ティディアの恋人』『身代わりヤギさん』『トレイの狂戦士』『スライレンドの救世主』……そして今や『英雄』とまで呼ばれるに至った少年のその声に、貴族夫婦は彼に実際に手を差し伸べられたかのように立ち上がった。
「こんばんは、パトネト殿下、ポルカト様。良い夜ですね」
 そして妻を従えた夫が、穏やかに返してくる。妻は緊張の面持ちで頭を垂れる。
 ニトロはパトネトがうなずくのを待ってから、会釈を返した。そして、常にパトネトの半歩前を行くように歩き出す。
「立派だったよ、パティ」
 伯爵夫婦に声が届かないあたりで、ニトロは囁いた。
 返事はない。が、ニトロの手を握るパトネトの手に力が込められ、彼を追う小さな足音には誇らしさが加わっていた。
 ――その光景を、少し離れた場所にいた二組の招待客が見守っていた。
 もちろん各放送局のカメラも見つめていた。
 中継を見る誰もが王子の成長と、ニトロと手を繋ぐ王子の微笑ましさに心を打たれていた。モバイルでそれを見たのだろう、宮殿の外から感激の声が地鳴りのようにここまで届いてきていた。
 されど、王子の肉声を聞けて、ニトロの『英雄』に相応しい態度を直接見られた者の感激はカメラ越しとは比べ物にならないほど大きい。
 ニトロはパトネトをつれて庭を行く。
 すれ違う招待客らと挨拶を交わし――二人と面する者は皆感激に打たれて同じ顔をする――少しずつ、ほんの少しずつ、パトネトが自信を深めていくのを感じながら、ニトロは次第に生垣の背が高くなっていく中庭の奥を目指す。
 と、ニトロは、生垣の中に、ぽつぽつと小さな薔薇が現れていることに気がついた。
 小さな花弁を作る品種の薔薇が、生垣の作る道の中で特定のルートに点在していたのである。それはまるで見る人を誘うように奥へ奥へと進んでいた。どこか幻惑的な雰囲気であった。誘われているという感覚が、ぞわぞわと胸の内側をくすぐっていた。
「こんばんは」
 薔薇を追うに連れて、礼装やドレスに身を包んだ招待客と出会う率も上がっていく。
 薔薇は、そう、ロザ宮への案内役であった。
 ニトロの目には、背の高さが庭の内で最大となった生垣の向こうに鎮座する、実に瀟洒な造りの館が見えている。薔薇の花は迷路のような庭の中、ニトロ達をそちらへと誘い続けている。
「ニトロ君」
 招待客と遭遇する度に声を振り絞って挨拶を繰り返していたパトネトが、『他人』に対するものと比べてとても大きく元気な声でニトロに呼びかける。
 ニトロは足を止め、パトネトに振り向いた。
「何?」
「期待しててね」
 パトネトは、どこか得意気であった。
 どうやらこの先にある物に対して言っているらしいが……とすればそれは、
(ロザ宮の、薔薇園か)
 それは話に聞いているし、映像も見たことがある。それだけでも確かに素晴らしい印象を受けたものだ。が……この子がそう言うのなら、きっと、もっと深い感動を味わえるのだろう。
「期待してるよ」
 ニトロはポケットからハンカチを取り出し、パトネトの額に残る汗を拭ってやった。相変わらず彼の手の平は汗で一杯である。
(……)
 ……ここまでは、慣らし運転もいいところ。間接光のために相手の表情が詳細に見られないのも都合が良かった。それから、相手が距離を掴みかねて、挨拶に続けてのコミュニケーションをとろうとしてこないことも。
 問題は、この先である。
「――期待してる」
 ニトロは、もう一度短く繰り返した。
 パトネトは、彼の真意を聡く察した。
 期待される喜びとそれによるプレッシャーを感じて複雑な表情を作り、少しだけ目を伏せる。
「……」
 ニトロは、しかし、そのプレッシャーを忘れているところに不意打ちのように『本番』を迎えるよりは、こちらの方がずっと良いと考えていた。
 ポン、と、優しく一度パトネトの頭を触り、歩き出す。
 パトネトの手から一瞬の躊躇が伝わってきたが、それでも王子はしっかりとついてきた。
 ニトロとパトネトの先には、向かい合う蔓性の低木を編んで作られたアーチがあった。低木は並木のように連なり、そのため蔓状の枝を編まれて作られたアーチも連なり並んでいて、そのためにトンネルの様相を成している。トンネル状アーチの内側には光がない。暗がりの中、絡まりあう低木の枝にほんの小さな白い花がぽつぽつと浮かんで見える。ほのかに爽やかな香りに満ちたトンネルの先は今や3mほどの高さの壁となった生垣に続いていて、その生きた壁をくり貫いて造られたような出入り口の向こう側から、暗いトンネル内へと華やかな彩光がじわりと漏れ出してきている。
 光に導かれるようにトンネルを進み、通り抜けた時、ニトロは明暗の落差のために目を細め、そして目が慣れるに従いその光景が視界を彩っていく様に、彼は、息を飲んだ。

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