ニトロが応えるや否や扉が開き、すると、燕尾服に身を包んだパトネトが飛び込んできた。その様は、どこか男装の美少女と言う方が正しいだろう。しかし、以前に比べて随分と様になった走り方は男子の力強さを見せ始めている。
「ニトロ君!」
 パトネトは目を輝かせてニトロに走り寄り、飛びついた。
 ニトロは自分に懐いてくれる王子を抱き止め、
「こんばんは、パトネト王子」
 と、言った。――瞬間、パトネトが、ニトロを突き放すようにして離れた。
「……王子?」
 思わぬ反応にニトロが戸惑いの声を上げる。が、パトネトはむすっと頬を膨らませて応えない。
「パトネト様?」
 ニトロは声をかけた。しかしパトネトはそっぽを向いて応えない。それどころかますます不機嫌に頬を膨らませる。
「殿下」
 呼びかけを変えてみるが、応えはない。
「……」
 ニトロは芍薬を見た。芍薬は軽く肩をすくめる。
 ニトロはパトネトの後を追って入ってきた近衛兵の制服に身を包むアンドロイド――フレアを見た。フレアは、うなずいた。貴方の推測は正しい、と。
「本日は……私は貴方様の付き添いとして来たのです」
 しかし、それでも頑固にニトロは呼びかけた。
 しかし、それでも頑固にパトネトは応えない。もはや完全に拒絶を体全体で表している。
 ニトロは黙ってパトネトを見つめ続けたが、やおら根負けした。
 そう言えば初めて自宅に彼が来たときもそうだった。その時も、パトネト様、王子、殿下、太子……敬称の全てが拒否されたものだ。
パティ
 呼びかけると、パトネトがニトロへ振り返った。表情は明るく、満面の笑顔である。
「ニトロ君、格好いいよ!」
 そう言いながら、すっかり機嫌を直してニトロに再び飛びついてくる。
 ニトロはパトネトを再び抱き止め、
「本当は、俺は君に対して従わなけりゃいけないんだよ?」
「うん、知ってる」
 パトネトは無邪気にうなずく。
 ニトロは苦笑し、
「それなら……」
「でもね、ニトロ君は、いつだって『パティ』って呼ばないとだめなの」
「……駄目なの?」
「うん。だめなの」
「そうかー」
 無愛想なフレアの表情は変わらないが、困り顔のニトロを見て芍薬は笑っていた。ニトロが芍薬と目配せすると、芍薬は笑ったまま『意のままに』と首を傾げた。
 ――ニトロは、納得した。
 曲がりなりにも王女の誕生日会だ。ここは『公』に相応しく対応するつもりだったのだが、しかし『駄目』だというのなら仕方がない。
「時間は?」
 ニトロは芍薬に問うた。
「9時22分」
 芍薬が答える。
 会場は既に開いている。本番は10時からだが、
「ハラキリは?」
「既ニ」
『師匠』のことだ。何が起こっても対処できるよう、物の配置や、それによる人の流れのパターンなどを確認しているのだろう。彼もドレスコードに従って燕尾服だというから、それを見るのも楽しみである。
 それからニトロはパトネトに訊いた。
「ティディアは何か言っていた?」
 主役のティディアは、今は同じロディアーナ宮殿内にいる。が、これまでニトロは彼女と一度も顔を合わせてはいない。それどころかニトロはヴィタにも会っていなかった。
 宮殿にやってきた彼を出迎えたのはティディアの側仕えの中でも有名な一人――麻薬所持・使用の前歴があり、ティディアの気まぐれで採用された後に立派に更生し現在も働いている――であり、彼女からはただ「会場で会いましょう」とだけ伝言を受けていた。おそらく『サプライズ』のために秘密主義を決め込んでいるのだろう。それもあって、ニトロのその問いかけは『サプライズ』への探りを兼ねたものであったのだが、
「後でねって」
 パトネトが答える。
 ニトロは、今度はストレートに訊いてみた。
「サプライズってどんなのだろう」
「後でねって」
「……」
 パトネトの即答は、まずティディアの仕込みだろう。
 ニトロはふむと鼻を鳴らし、自分に抱きついている王子の肩を優しく叩き、
「それじゃあ、パティ……行こうか?」
 するとパトネトは、いくらかの逡巡を見せた。ゆっくりとニトロから離れ、何度も躊躇いの視線をニトロへ、あるいは他所へと流し――やがて、強い決意を込めてうなずいた。
 ニトロは笑みを浮かべ、手を差し出す。
「大丈夫だよ」
 差し出されたニトロの手と彼の顔を交互に見、パトネトは、おずおずと自らも手を伸ばした。
「……」
 ニトロは、手を握ってきた王子の手が既に汗に滲んでいることを知った。
「パティ」
 しゃがみこみ、パトネトと同じ視線に目を落とし、幼い『弟』の頭を撫でながらニトロは言う。
「辛くなったら、いつでも言うんだよ?」
 パトネトはニトロを見つめ、その頼もしい『兄』の姿に唇を尖らせ、弱々しさを懸命に隠すように言う。
「平気。だって、僕は男の子だもん」
 この際、男も女もないと思うが……ここでパトネトがそう言うのは、きっとそれだけの理由があるのだろう。それは、ひょっとしたら『王子として』――という自覚からきている言葉なのかもしれない。だとしたら、王子としての自分を強く意識し出したからこそ、彼はこの場に出ることを決意したのかもしれない。
 パトネトは大きく息を吸い、ゆっくりと息を吐き、ニトロを見つめ、
「ニトロ君」
「ん?」
「頑張ろうね」
“頑張ろう”とは妙な言い方ではあるが。
「そうだね」
 実際、ニトロも避け続けてきた場所にとうとう踏み出すのである。その点ではパトネトと自分はよく似ている。
 彼は目を細めてうなずくと、パトネトの手をしっかりと握ったまま立ち上がった。
「頑張ろう」
 自らの決意の外に促しも込めて言うと、パトネトが微笑む。
 そしてニトロとパトネトは部屋を出た。
 ロディアーナ宮殿から薔薇ロザ宮に向かうには、大きく分けて二つのルートがある。
 一つは、竣工当時の様式を今も守る中庭を通っていく方法。
 もう一つは、宮殿から続く地下道を通っていく方法。
 王城もそうであるのだが、この宮殿を建造した覇王は、自身の拠点ともなる場所には必ず避難用の『隠し通路』を病的なまでに複数作っていた。これは覇王の用心深さ・疑心暗鬼の強さの表れとも語られ、あるいは地上を征服した覇王は地下も征服するつもりだったのだとも語られる(実際、王城地下の『天啓の間』や、かの『霊廟』を始め、アデムメデス統一期〜統一後の建築には地下を重視するものが多い)。
 ロディアーナ宮殿には、公表されているものだけで五本の地下通路があった。内一本が、ロディアーナ宮殿とロザ宮を繋ぐ通路である。当時からロザ宮で催しがある際に使用人の“導線”としても併用されていたその路を通れば、人目につかず二つの宮を移動することが出来る。
 ニトロは、しかし、中庭を通っていく道を選んだ。
 パトネトは、地下通路を行くものだと思い込んでいたのだろう。己の手を引くニトロの足が中庭に向かっているのを悟るや大きな動揺を見せていた。
 それでもニトロは、パトネトの手の熱さが増していくのを感じながら、脳裏に描いた地図をまっすぐ進んだ。途中で芍薬が消え、代わって、その先で仕立ての良い給仕服を着たウェイトレス・アンドロイドが合流してくる。芍薬が機体を乗り換えてきたのだ。芍薬の操作する給仕アンドロイドは先導するように歩きつつ、一度肩越しに振り返ってウィンクをした。そのつむられた左目の傍には小さな泣きボクロがあった。分かり易い『目印』である。
 そうしている内に一行は中庭に通じる部屋に辿り着き、そこでニトロは立ち止まった。
 足を重くしていた王子がこっそりと――ニトロに気づかれないようにしたつもりであったのだろうが――息をつく。
 二人の下にはすぐにそれぞれのA.I.が近寄ってきた。
 芍薬が今一度ニトロの“形”を確認する。既に登録してある完璧なデータと照合し、ものの数秒で直し終える。フレアも同じく、主人の服装を直し終えていた。
「中庭にはどれくらい人がいる?」
「19人」
 ニトロの問いに答えたのはフレアであった。芍薬は答えようともしていない。ここでは『客』であるために、必要時以外は控えるつもりなのだ。
「『空』からは?」
「何者モ進入ヲ許シテイマセン」
 ロディアーナ宮殿の敷地上空は、現在王軍と警察が厳重に警備している。いかな札付きのパパラッチでも侵入は諦めるだろう。何しろ許可なく“領空”に入ろうとした瞬間、それが誰であろうと本気で警告無しに撃墜されてしまうために。
 だが、ニトロもそれは分かっている。
 つい芍薬に問うつもりで言ってしまったため、質問の仕方が悪かったと思いながら、
「カメラはどこら辺を捉えているかな」
 そう、撃墜されに敷地上空に入らずとも、遠方から望遠で覗くことは可能である。
 もちろん本番の時間になればそうはいかない。その時には虫型ロボットが上空を雲霞のごとく舞い、不規則に飛ぶように見せながらもそれらは隊列をなし、そこにはまるで星か宝石かで作られた“ドーム”が現れ幻想的な演出を兼ねた目くらましで宮殿を覆い隠す。
 されど、現在はまだ素通しなのだ。
 質問の意図を悟ったフレアは得心がいったようにうなずき、
「全体的ニ捉エラレテイマスガ、ロザ宮周辺、及ビ庭園中心部ガ主ニ」
 ニトロは微笑んだ。
「ありがとう。
 それじゃあ、また後でね
 その時、フレアは一切の動きを止めた。どうやらひどく驚いたために、動き方を忘れてしまったらしい。
 ニトロはこのオリジナルA.I.が大きな“情動”を見せたのを、初めて見た。
 ようやく一時停止から復帰したようにぴくりと動き、フレアが何かを言いかけようとするが、
「承諾」
 先に、芍薬が言った。
 機先を制されたフレアは言葉を飲み込んだように見えた。もしかしたら通信で芍薬に何かを言われたのかもしれない。結局、フレアは引いた。ニトロが言外に含めた『王子にも付き添い不要』の主張に従ったのである。
 しかし、フレアが引いても、一方のパトネトが承服しかねる顔をしていた。
 彼は抗議の目でニトロを見上げる。それでも何も言わないのはせめてものプライドであるのだろうが、ニトロの手を握る力は必要以上に強い。
 そこでニトロは、パトネトへ“男っぽく”笑いかけた。
「パティ、お父さんとお母さんにも『いいところ』を見せて、驚かせてやらないか?」
 その問いかけに、その笑顔に、パトネトは新鮮な衝撃を味わった。二人の姉からは与えられたことのない感覚が、彼の胸に溢れていた。
 アデムメデスの君主、王子の愛する両親は、先週から外遊に出ている。最初はクロノウォレスを訪問し、次にセスカニアンで歓待を受け、最後にラミラスを歴訪して今頃は帰途についたばかりだ。
 娘の誕生日を、今年は直接祝えない両親は、きっとリアルタイムで配信されているアデムメデスの放送を見ている。そこで『人見知り』でなかなか外に出ようとしない息子が衆目の中で堂々と庭を歩いている姿を見たら、一体どれほど驚き、一体どれほど感激するだろう!
「――うんっ」
 うなずくパトネトにはニトロの“企み”に乗る勢いと人目が怖い弱気がブレンドされている。しかし、男と男のやり取り、ニトロという兄貴分の期待に応えようと胸は精一杯に張られていた。
 ニトロは微笑み、パトネトの手を握り直す。
「さあ、行こう」
「うん!」
 ニトロは中庭へ通じる扉を開いた。
 そして二人のA.I.に見送られ、大きく一歩を踏み出した。

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