ティディアの誕生日会は、ロディアーナ宮殿敷地内にある
ロザ宮はロディアーナ宮殿本殿から見て中庭の先にあり、その周囲は四季に渡って様々な薔薇の咲き誇る小さな花園に囲まれている。花園も見事ながら建築自体も美術史に語られるその宮は、覇王が王妃の慰めに舞踏会を開くため、そのためだけに作らせたものだ。そして竣工の当時から現在まで、何百何千の宴の中、時には歴史的な
今宵もまた、歴史的なワンシーンが生まれるのであろうか。いや、生まれるであろう!
太陽が西に沈んでからもう数時間。日を股にかけて開かれる誕生日会のため、国中の注目を集める宮には、開始時間を一時間も前にして既に招待客らが皆々集まっている。
未だロザ宮に姿を現していないのは、主役であるティディア姫。それから、彼女の弟君と、今や『英雄』とまで称される恋人――『ニトロ・ポルカト』だけであった。
そのニトロ・ポルカトは、現在、ロディアーナ宮殿の『談唱の間』にいた。
ニトロがこの部屋にいるのは、パトネトが待ち合わせ場所として(同時にニトロの控え室として)ここを指定してきたためだ。歴史的な価値のある貴重なグランドピアノが鎮座する部屋で彼は王子を待ちながら、眼前に表示した
画面には、強い怒りを隠さぬ姿で記者に応じている王女がいる。
三日前からニトロも見飽きるほどに見たその映像が終わると、王立放送局アナウンサーがこれまでの状況の推移を改めて整理し、本日の各方面の動向を視聴者に聞かせ始める。
……王女ティディアが、激怒した。
発端は、一昨日、東大陸で開かれた
事の次第は、簡単である。
東大陸は、現在アデムメデス五大陸の中で最も弱い。経済も、将来的な見通しも。それは長年の懸案であり、今回の会議でもそれは当然議題として出てきた。が、今回の会議でも大した議論にはならなかった。五十五人の領主の語るものは揃いも揃ってほぼただの現状報告に過ぎず、改善案もどこかで聞いた事のある案をろくな咀嚼もせずにただ口にしただけ。進歩もなければ停滞でもない、むしろ後退しているような会議。それなのに、ティディアがこれまで行ってきた立て直しの手腕――実際、それは効果を見せている――を誉め称える言葉にだけは大変な熱があった。
そこで業を煮やした王女は、己を讃えるセリフに続けてこう言った。
【あとは民に頑張ってもらわないとね】
返って来たのは笑いと同意と太鼓持ちの修辞の嵐であった。そう、我々は努力した。全く姫様の仰る通り、これは民の努力が足りないのです。
そして次の瞬間、媚びた笑いが温くかき混ぜていた議場の空気は一変したのである。
【痴れ者どもが。黙れ、耳障りだ】
と、王女が急に人が変わったように、静かに、簡潔ながら強烈な罵倒を口にしたために。
三日前、このニュースを知り、それから『議事録』を見たニトロは苦笑したものだった。
ティディアの問題のセリフは、実に簡単な皮肉に他ならない。その裏には「ならば貴様達は用無しでいいのだな?」という意味が含まれている。それを円卓に並ぶ五十五人の領主らは、老いも若きも、腹芸巧みな狸も従順な犬も、非凡平凡男女も問わずに反論しなかったのだ。ティディアが怒るのも理解できる。あいつは反論を期待していた。自分の真意を暴く反論を。反論がきたならばぽんと打ち返し、また反論させ、そこから議論の糸口と緊張感を与えるつもりもあったはずだ。
だが、領主らはそれをしなかった。できなかったのではないだろう、しなかったのだ。
ニトロには、ティディアの意図を理解する一方、『しなかった』領主らのその意図も理解できた。
畏れ多くなるほどに『ティディア』の勢いは国内に留まることなく激しい。
さらに言えば、アデムメデスの貴族らは(また国民は)現状何もせずとも自動的に勝ち馬に乗っている状態である。
なのに、そこから自ら降りようというのはよほどの変わり者か、あるいはただの愚か者でしかない。勝ち馬の行く先が崖であると言うならまだしも、希代の王女の手綱は破滅の道に向けられてはいないのだ。アデムメデスの『次代』は、未来を待つまでもなく既に黄金色に輝いている! それなのに、才気溢れる第一王位継承者に少しでも悪く覚えられたくないと画策しない貴族がどこにいよう。
が、もちろん、彼女の恩恵に預かろうというのが悪いのではない。
ただ、自らの目で黄金を鑑定し続けながら益を享受するのと、盲目的に黄金を“黄金色だから”と益を享受するのとでは意味合いが明らかに違う。領主という立場に居るものならば、その意味合いの違いこそが民にも増してことさら重要となろう。
……議事録から見る円卓には、ただ“黄金色の輝き”に目を奪われ盲目となっている者ばかりがいた。そして己らの着る『貴族という衣』を輝かせることを、王女の威光に頼る者ばかりしかいなかった。
しかし、一方でティディアのセリフが『危険な皮肉』であることを理解している者も間違いなくいたはずだとニトロは思っている。
そして、彼はまた思うのだ。
ティディアには、むしろ“理解している者”までもが畏縮し、才を自ら無下にし、ひたすら周囲に同調して『ことなかれ』に溺していることが我慢ならなかったのだろう、と。
それを示すように、この会議のあった一昨日の夜、
次に議事録は語る。
【議長】
ティディアは言った。
【はい!】
王女の呼び掛けに応えたのはまだ若い女領主だった。その声はほとんど金切り声であり、その顔は半ば泣き顔であったらしい。年頭に父が病に伏せたため、急遽籍を継いだ女領主は、今回不運にも『持ち回り』の当番で議長を務めていた。彼女にとっては“まさか”の連続であっただろう。プライベートでは『ティディア・マニア』でもある彼女は二の句が継げず、おかしな沈黙が議場をさらに凍りつかせた。
ティディアは、立ち上がった。椅子の引かれる音が皆の心に爪を立てる。
【閉会にしましょう】
その言葉は、口調としては提案の形に寄っていたが、実際には命令だった。
【ハイ!】
もはや超音波の域で――と議事録には注釈があった。
それにしてもその『議事録』は、一挙手一投足に至るまで詳細に描写されていた。形式も通常のものからまるで外れていて、ルポタージュ、あるいはノンフィクション小説とでも言うべきものだった。
【『宿題』を出す】
王女には厳しい王威、いや、覇王の威があった。
【議事録を吟味せよ。私の意を
次代の女王は円卓に揃う血の気の引いた雁首をざっと巡り見て、
【さもなくば、ここにある家は皆消えるだろう】
それはつまり、領地の剥奪のみならず、爵位までをも奪う宣言……!
悲鳴じみたざわめきの中、ティディアは一人議場を後にした。
その後の大騒ぎは、王立放送局のアナウンサーが読む原稿に無論到底収まり切らぬものである。今日一日だけでも凄まじい情報量の原稿を読み終えたアナウンサーは早速解説員に話を振った。
と、そこで、
「チョット顎ヲ上ゲテクレルカイ」
芍薬に言われ、ニトロは顎を上向けた。すると芍薬はマスターのシャツの襟を立て、素早く純白の蝶ネクタイを結びつけていった。
タイが締められたことでニトロの心が一つ引き締まる。
もうすぐ……『そこ』に踏み込む。
感慨とも後悔とも言えぬ心境に浸りながら、ニトロは顎を下ろす。
芍薬は蝶ネクタイの位置を微調整し、それから襟を立てる際にずれた上着の位置を直すためにニトロの背後へと回る。
芍薬が移動したことで、ニトロの目に再び宙映画面が戻ってきた。
画面は、スタジオから現地の様子を語るアナウンサーに中継が移っていた。
――【議事録を吟味せよ。私の意を質してみせよ】
これは、恐怖のクレイジー・プリンセスからすれば非常に甘い言葉だ。
ヒント、というより『答え』そのもの。
なのに、解答集を見ながら問題集を解いて良いと言われているというのに、その“関係者”は一体何を言っているのだろう。王女の横暴への不満? もちろん、それは“関係者”という曖昧な影を、さらにメディアを用いることでより曖昧にした存在を介した政治的な駆け引きなのかもしれない。それとも観測気球的な発言だろうか? とはいえ、事ここに及んでまで割れやすい風船を飛ばして風向きを見る必要はあるのだろうか。風が「こっちだよ!」と自ら手を振っているというのに、そんな馬鹿げたリスクを取るなど。
(首、切られちゃうだろうなぁ)
東大陸の領名がいくつか変わる事態は避けられない。そう思う。
若いアナウンサーは、さらに伝えた。
別の関係者の話として、曰く、
<『ニトロ・ポルカトの取り成しがあるのではないか』それを期待する声も聞かれたということです>