あ、と、ニトロが口を開く。勢い任せに口走ったことを己の鼓膜の中に反響させ、その意味するところを自ら理解して頬を固める。勢い任せだからこそ、それは皮肉でもツッコミのための口撃でもない、本音である。相手を嫌おうとも認めるところは認める、そうでなければ、認めないことに拠る失態を踏みかねないために。――だからとて、腹の中で判断しておくだけでいいことを声高らかに表明しては痛恨の失態に他ならない。それも、先に彼女の『思い』を認めていることを漏らした後の流れでは。
 長かろうが短かろうが――似合ってる
 その意味は!
「……」
 ニトロは気まずく口をつぐんだ。もう何も言わないとばかりに口を真一文字にして、目をそらした。
 目をそらした先にはヴィタがいた。
「……」
 ティディアの背後に控えるヴィタはいつも通りに涼しげであるが、いや、その口元はかすかににやついている。
 ニトロはどうしたものか解らず、沈黙の中、ちらりと背後を見た。芍薬は、困り眉をしてこちらを見ている。まさに「失態ダネ」と言われているようだった。
「……」
 沈黙は、長い。
「……?」
 あまりに沈黙が長すぎることを怪訝に感じ、ニトロはあえて(恥ずかしいので)注視しないようにしていたティディアに目を戻した。
 するとそこには、ぽかんと口を開ける間抜けな顔があった。
 ティディアは――てっきり鬼の首を取ったかのように勝ち誇ると思っていたのに……未だ状況を掴みかねているかのように、呆け続けていた。
「……ティディア?」
 ニトロが彼女の名を呼ぶ。
 と、彼に呼ばれたことで我を取り戻したティディアの顔が、一気に上気した。
「うわっ!?」
 その上気する様が見たこともないほどの勢いであったため、ニトロは思わず驚きの声を上げた。
 瞬きをする間に、ティディアの頬は、いや、頬のみならず顔全体、さらには耳、それどころか胸元の辺りまでもが紅潮していた。
 驚くほどの赤である。
 これこそ『湯気が出そうなほど』という表現が似合うだろう。
 真っ赤な顔の中で白色を持つ双眸がやけに輝いていた。潤んでいるのだ。涙が溜まっているわけではない。感情がそのまま彼女の瞳を潤しているのだ。黒曜石の瞳は先の魔的なものとは違い、純真な光を湛えてニトロを見つめている。見つめて――どこか気恥ずかしそうにティディアは目を落とし、またニトロを見つめる。おずおずと右手を差し上げると己の髪をつまみ、自分の聞いた言葉を信じられない思いで彼女は彼に確かめた。
「これも、似合っている?」
「――ッ」
 ニトロは、真っ赤な顔でティディアに素直に問いかけられ、言葉を返せなかった。
 今日は最初っからおかしいテンションで痴女と振る舞い、そうして今ではまるで初心うぶな調子で自信無さ気に確認を取ろうとしてくる。
 その姿はこれまでの『敵』――凶悪なクレイジー・プリンセスではない。そこにいるのはただ一人の女性だった。美しい顔を紅に染めたまま、潤んだ瞳でおそるおそる伺うように見つめ続けてくる、そっと触れただけで手折たおれそうな『ティディア』だった。
 ニトロは未だ言葉を返せない。
 彼女の瞳を見返す内、その瞳の中で歓喜と期待の底に不安が忍んでいることを彼は知り、その時、己の胸がドキリとしたことに彼はギョッとした。
 一瞬、眼前のティディアが見知らぬ女にも思えた。
 それにも彼は慄いた。
 ……おかしい。
 おかしいおかしい。
 あんまりおかしいからこっちもおかしくなりそうだ!
 ニトロは立ち上がった。
「ヴィタさん、お茶をありがとう」
 ヴィタを――ティディアの視線を感じながらも藍銀色の髪の麗人を注視して、ニトロは言った。
「美味しかったよ。……残しちゃったけど」
「どういたしまして」
 微笑み軽く頭を垂れるヴィタの目は『どちらへ?』と柔らかに――それはまるで年上の女性のこのシーンに対する余裕を見せつけるように、問いかけてきている。
 ニトロは硬い片笑みを浮かべ、
「先に舞台袖に行っているよ」
「かしこまりました」
 ニトロはそのまま席を立ちながら振り返った。目の先には芍薬の不思議な顔があった。微笑とも、不機嫌ともつかない顔。明らかに状況を楽しんでいるヴィタとは違い、静かにこの状況を見定めようとしている――そんな表情。
 と、芍薬の目元がふいに緩んだ。
 それは、失態から続くこの状況に戸惑うマスターに、その気持ちへの理解を示す眼差しだった。
 ニトロは複雑に笑みを返し、そして芍薬と共に、逃げるように部屋を出ていった。



 扉の向こうにニトロと芍薬が消えていくのを見送った後、
「……似合うって?」
 つぶやくように、ティディアは言った。
 すると彼女の背後でヴィタが答えた。ニトロは言葉で明示したわけではない。しかし、彼の意図は間違いなく、
「はい。そのように仰っていました」
 ティディアの紅潮はいくらか色を引かせていたものの、頬はまだ真紅に映えていた。耳は蒸気を浴び続けているかのように火照っている。少し耳鳴りのようなものを感じるのは内耳の奥までその熱が伝わっているからだろう。
 心臓は脳より先に全てを理解して、さっきからずっと飛んだり跳ねたり踊り回っていたらしい。気がつけば、短く激しく脈打っていた。
 そう思えば頬や耳のみならず全身が熱い。
 ふと見れば全身が薄桃に色づいていた。
 その白い皮膚を透くように染める色は、悦楽と幸福そのものであった。
 ……今一度、ティディアは髪をつまんだ。
「似合うって」
 そのつぶやきは誰でもない、自分に向けたものだった。
 我知らず顔が惚ける。
 ティディアは去り際のニトロを思い出していた。彼のあの動揺は、これまでのどんな動揺とも違う。彼は、私の異性としての反応に動揺していた。そう、異性だ! 彼は私のことを、あの瞬間、私のことを『敵』ではなく、間違いなく『女』として見てくれていた! 異性として――嗚呼、あの堅物のニトロに『女』として見られたこの悦び。
 そこでティディアは、ふと自分が彼にそう思われたことに対する悦びの大きさに驚き、一方でその悦びがあまりに大きいからこそ、ふいに不明瞭な恐れを抱いた。しかし、その不明瞭な恐れのあるがためになおさら『女』である自分と『男』である彼の間に訪れた一瞬が胸に迫る。
 心臓が破裂しそうなほどに高鳴っていた。
 頬や耳、顔面全体がもはや燃えている。
 体の奥底から突き上げてくる得体の知れないエネルギーが心臓を滾らせている。
 ティディアは全身の血が心臓と顔だけを往復しているのではと思えてならなかった。息苦しく、目の裏が痛く、頭がぼんやりとするのはきっとそのせいに違いない。
 果たして、上気し蕩ける王女の対面で、ニトロの残したカップを片付けようとしていたヴィタは、その時、王女の物思いと、おそらくは物思いのために増幅されているのであろう至福に溶ける笑顔に異変を認めた。
「ああ!」
 思わずヴィタが声を上げる。
「どうしたの?」
 珍しいヴィタの大声を聞き、物思いから引き戻されたティディアはそれでも目元も頬も緩みに緩ませたまま、何事か大きく目を見開いている執事を見た。
 面白好きのマリンブルーの瞳には、驚きというよりも、まざまざとただ『歓喜』があった。
「ヴィタ?」
 問われたヴィタは、先ほど見逃した現象をこの目で見られた幸運に感謝しながら言った。
「ティディア様、お鼻から血が!」
 その時、ティディアは呆けた。が、今度は我に返るのも迅速であった。ティディアは慌てて鼻の下を手で拭って血を確認するや顔をさっと青褪めさせた。赤から青、その色調変化は見事なまでに一瞬のことであった。まるで擬態能力を手に入れたかのような鮮やかな変色。人間という生物の持つ身体的驚異! それを一瞬たりとも漏らさず観察できたヴィタはさらに喜びに瞳を潤ませる。ティディアは、そのヴィタに激しく問うた。
「いつから!?」
 顔が熱すぎて、頭も胸も一杯過ぎて気がつかなかった。こんな恥ずかしい顔を誰に見られたって別に構わない、けれど――
「ニトロも……彼も見たかしら!」
「いいえ、ティディア様! ちょうど今、たらりと!」
「たらりと!?」
「はい、たら〜りと!」
 鼻息荒くヴィタは言う。
 その鼻息があんまり荒くて、ちょうど彼女が主人の血を拭ってやろうと取り出していたハンカチがひらひらとそよぐ。
「――あら」
 それに気づいたヴィタが、少々興奮しすぎたとばかりにつぶやく。
 そのつぶやきが、何故か、ティディアの心に触った。
「『あら』?」
 触られたティディアの心のその部分は、いわゆる『ツボ』であった。
 問いかけられたヴィタは主人の顔がどういうわけか破顔寸前であることを知り、それは一体何故だろうと小首を傾げ――すると、ヴィタの反応に、ついにティディアが堪えきれないように笑い出した。
(ああ!)
 そこでヴィタは、ティディアがどういうわけか『ツボ』にはまったのだと察した。そして察するが同時、
「あははははは……」
 とうとう声を上げて笑い出したティディアの“笑い”が、じわじわと、ヴィタにも伝染してくる。
「あはははははっ」
「――」
「あは、あはははは!」
「……ふふっ」
 とうとう、ヴィタも噴き出した。
「あっはっはっはははは!」
「ふふふふ、ははははは!」
 ――そうして二人は、やがて腹を抱え、誰に憚ることなく大声で笑い合った。

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