ティディアはヴィタを一瞥した。すると彼女はうなずき、部屋の壁際にあるミニバーへと向かった。それを見て芍薬も動く。二人が何をする気なのか察してその背を目で追っているニトロを見つめ、ティディアは思う。
(もう十分、もう慣れた
 この姿。
 大胆なビキニ姿。
 ティディアの脳裏には、五日前、ニトロの部屋でパトネトの誕生日を祝った夜のことがあった。
 その時、私は下着をニトロにだけは見られたくないと思った。恥ずかしかったから。あの奇妙な感覚は、次は攻めると宣言してみたところで忘れられるものではなかった。下着はまだ踏ん切りがつかないが、それでは水着ではどうだろうか? だから今日、それを試してみた試しておかなくてはならなかった。――存外、彼に見つめられるとやはり恥ずかしかった。周囲が、特に彼が服を着ているのに自分だけが水着という光景も妙に恥ずかしく感じた。このクレイジー・プリンセスが! 彼に痴女と呼ばれ続けてきた、この私が。
 ――しかし、そう、それにももう慣れた。
 彼の目の中で一人半裸を晒し続けて、今、ようやく引けていた腰も戻っている。ドアが開く前から……彼の視線を避けたままに飛びかかるのではなく、彼の視線をまともに浴びながらもこの姿で“抱きつき未遂”を敢行できるほどに意気地も戻った。
 ティディアは思う。
 昨夜、あの鏡の前で、ニトロに歓喜を表し抱きつこう、ついでにそうすることで彼をこちらのペースに引き込みながら相談を持ちかけようと企てた際に胸に生まれた、抗いがたいあの躊躇。あの恥じらい。鏡の中の『私』と無言で問答した、私らしくないあの反応。
 それを今、私は、完全に克服したのである!
 リハビリはもう十分。
 ……リハビリ
(そういう意味では――)
 抱きつけなかったのは、正解だったのかもしれない。
 こんな姿でもし抱きつけていたら、ちょっとまずかったかもしれない。
 そう思い至ると、完全に克服したと思ったばかりなのに――いいや、克服したからこそだろう、ティディアは内心苦笑した。
(どうにも、やっぱり変ね)
 恋は心を狂わすというが、本当に……まさかこれほど影響があるものだとは。
 しかし、まあいい。色々なところに思わぬ不具合が生じているのなら、それを一つ一つこうしてニトロと触れ合って修正していけばいい。その過程で、きっと生まれるものもあるだろう。
「何をにやついているんだよ。なんかこう……いつもの変とは違ってまた変だぞ?」
 ふいにニトロに言われ、ティディアははっと頬に手を当て、それに対してニトロがまた怪訝な顔つきをするのを見て、彼女は思わず口を歪める。
 私に『愛されている』と知っても彼の態度は一向変わらないというのに……私ばかりが変わっていくようなのは、ちょっと寂しくもあるものだ。
「……本題に入るとね」
 訝しげなニトロに微笑みながら、ティディアは手でテーブルを示した。ニトロはその促しに応じて歩を進める。
 ゆったりとした椅子に座り、対面にニトロが座るのを見ながらティディアは言った。
「私ね、髪を伸ばしたいの」
 ニトロは両の眉根をくっつけそうなほどに寄せた。
「は?」
 彼の当然といえば当然の疑問符に、彼女は笑顔で答える。
「誕生日会で私はニトロと一緒にダンスをするでしょ? 『王子様』と『お姫様』――となれば、私は髪が長い方が絵になるでしょう? だから――」
「待て待て」
 ひそめていた眉を戻し、代わりに目に険を浮かべてニトロは言う。
「何か決定事項みたいに言っているけどな、俺はお前とダンスなんかしないぞ? ミリュウの時とは話が違うんだ」
「えー?」
「えー? じゃなくて」
 ニトロは呆れ気味に吐息をつき、
「この際はっきりさせておくけど、俺はお前を祝いに行くんじゃない。あくまで『パトネト王子の付き添い』として参加するんだ。当日は役目に徹するよ。それから――」
 そこで一度言葉を切り、ここが最も肝心と力を込め、
「俺は、もちろん『王子様』じゃあない」
 ティディアのセリフのその箇所を、その意味をニトロが見逃すはずなどなかった。彼の眼光は鋭い。そこには否定がある。拒絶ではなく――否定。そしてそれをティディアも見逃すはずなどなかった。彼の否定は、つまり『国民には実質的にそう思われている』ということを自覚しているが故の否定である。そして大衆の認識だけでなく、本音ではその自覚すらも否定したいという彼の涙ぐましい願望であるのだ。
 ティディアはテーブルに両肘を突き、組んだ手の上に顎を乗せて上目遣いにニトロを見つめて、そっと微笑んだ。
 彼女の微笑は妙に意味深長なものであった。
 ニトロは一瞬、ぞっとした。
 まるで誘いかけるような形に歪んだ唇は、言葉を発さなくともこちらの心に彼女の意志を差し込もうとしてくる。また、その唇の上には蠱惑の美女の魔眼がある。最上級の黒曜石を磨き上げたかのように深い紫色に透明な、こちらの魂の底を直接覗き込んでくるようなその瞳。実に魅惑的な微笑だ――そう、これこそが『ティディアの笑み』だ――今日はいつにも増しておかしい素振りを見せながら、それでも眼前にいる女はやはり『クレイジー・プリンセス』なのだと意を新たにしたニトロは、気勢を削がれないように肩を張り、
というわけで
 と、あえてティディアの口にしていたキーワードを盗って、言った。
「つまり、お前が髪を伸ばす必要も特になくなる。てか、長いのがいいなら相談も何もなくカツラを被れば済む話だろう」
 ティディアは目を細め、
「自前がいいのよ」
「何のこだわり?」
「私のこだわりというより、これは『見る側』の問題だからね」
 顎を組んだ手に乗せたまま、ニトロを覗き込むようにしてティディアは言った。胸中で調子が戻ってきたと思いつつ、そしてまたその調子が戻ったのも“ニトロのお陰”だと理解しつつ、何の話だと首を傾げている彼に言う。
ファンタジーが必要なのよ。その日その時その場限りでも皆を圧倒的に魅了するものが。私は、ほら、今はこれでしょう?」
 一度姿勢を戻し、ティディアは短い髪をつまんで見せた。
「これの印象は、強いわ」
「ああ……まあな」
 ことアデムメデスにおいて、確かにこの王女様の影響力は計り知れず、彼女の人心に残す印象もまた計り知れない。
 その事実の一つとして、今現在流行している髪型が『ベリーショート(あるいはショートカット)』であることが挙げられる。
 ティディアは剃髪したことを明かした後、たまに例の自毛のカツラを初め様々なファッションアイテムを着けることはあったが、大体は何も飾らず『反省と罰の証』を公にし続けていた。
 そして時が経つにつれ、当然、彼女の髪は伸びてくる。
 ティディア・フォン・アデムメデス・ロディアーナの髪が辛うじてベリーショートに届く頃だった。
 気がつくと、町には髪をさっぱりと切り落とした女性が一つの社会現象として目につくようになっていた。
 今日こんにち、ファッション雑誌はこぞって『可愛いショート特集』を組んでいる。短い髪でも工夫次第で印象が変わることを人気の美容師が語り、人気のスタイリストがショートに合うコーディネートを紹介している。そうしてティディアもまた、その時々の髪形に似合う服の着こなしを披露しては日々話題となっていた。ちなみにショートカットにも似合う服の種類ラインが豊富なブランド『ラクティ・フローラ』は濡れ手で粟である。そのブランドがそもそも戦乙女こと『芍薬』をイメージの背景に持っていることが知られた今となっては人気ぶりも輪をかけて凄まじい。
 もう一つ、強烈な『ティディア・マニア』の中には男女問わずに王女への忠義とばかりに頭を剃り上げる者がいたのも彼女の影響力を語る事例となろうか。
 ティディアの言葉は、真実である。
 ――『印象は強い』
 だから彼女がカツラを被れば、逆に、それは見る者に『カツラである』『ファッションである』と非常に強く訴えることともなる。歴史的には社交の場において令嬢が付け毛をするのは当然の時代もあったし、その流れも残ってはいるが、それでも、ティディアは自身のその印象のために『カツラである』『ファッションである』という“現実”をその身に引きずることになるだろう。そうなれば彼女の言う“ファンタジー”とやらは作れまい。作れたとしても、最大の効果は期待できまい。
 ティディアはニトロの目に理解が浮かぶのを見て、言った。
だから、自前がいいの」
 ニトロはうなずく代わりに、問うた。
「だったら、何でそうしないんだよ」
 髪を無理矢理伸ばす方法はある。活性治療ヴァイタライジングを応用した技術で、つまり毛根を短期間に異常に働かせて髪を伸ばすというものだ。しかし、それには技術的に通常の活性治療ヴァイタライジングとは別の問題があり、その問題を解決するためには非常なコストと施術時間がかかり、施術自体も難度が高く、また、全体的に髪を伸ばすと言っても実際には一本一本の髪の源、各々の一つの毛根を集中的に酷使することになるのだから、その結果、場合によっては後日毛根再生治療が必要になるという本末転倒なデメリットの存在する技術でもある。そのため現状ではデメリット、コスト等の問題から一般的には全く普及していない。というよりも、正直受ける者がほぼいないと言った方が正しいだろう。
 さて、無論、ティディアならばそれにかかる巨額な資金面はクリアできる。
 問題は多忙な彼女が施術を受ける時間があるかだが、まあ、彼女はやり遂げるだろう。一度の施術は短くとも、今から毎日二十数日をかけてやればそれなりに長くできるはずだ。……急ぐあまりに所々太かったり細かったり波打つように伸びちゃったり、最悪途中でごっそりイっちゃったりするリスクはもちろん常に存在し続けるけども。
 だが、
「自前を希望する以上、別にリスクを恐れてるわけじゃないんだろ? なら何を問題にしてるんだよ」
 ティディアはニトロの質問にうなずき、
「私が問題にしているのはね、私の意志を超えたところにあるのよ」
 今まで部屋のミニバーにいた芍薬が、ニトロの前にティーカップを持ってきた。ティディアの前にはヴィタがカップを置く。どちらのカップにもミルクを加えたハーブティーが淹れてある。
「喉によろしいですよ」
 ヴィタが言う。では、淹れたのは彼女か。ニトロが芍薬を見ると、芍薬は『問題ない』といううなずきを返してきた。ニトロは芍薬に礼も兼ねた目礼を送ってから、
「ありがとう」
「どういたしまして」
 ティディアはニトロが執事に礼を言い終わるのを待ち、そして彼が目を戻してきたところでまた髪をつまんで見せ、
「私が今、この髪型なのは?」

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