「……馬鹿ね」
 自嘲の、あるいは侮蔑の言葉を吐いた頃には、彼女の頭は完全にえ切っていた。
 ――恋の病に浮かされることは、愚かだとは思わない。
 だが、
(同じ失敗を繰り返すのは、愚かなこと)
 過去、愛人の浮気のために嫉妬に狂ってそれまでの功績を台無しにした女王がいる。
 過去、一人の女性の愛を勝ち取ることができずに自ら命を絶った王がいる。
 私はそれらとは違う。
 だが、それらと肉薄したところにいる『私』が既にシゼモにいたことは事実である。
 鏡台に歩み寄り、鏡の中の自分を睨みながら彼女は思う。
(私は、バカだけど馬鹿じゃないはずでしょう)
 それはあのニトロがそう認めてくれているように。――いや、ニトロに言われるまでもなく、己の抱くプライドとして、ティディアはそう思う。そしてまた嘲るように思う。
(私は、『私の弱いところ』で自慰していたいだけなのかしら?)
 ニトロ・ポルカトというティディア・フォン・アデムメデス・ロディアーナの弱点。
 彼を想い、“彼を想う”想いに溺れることは……正直、とても気持ちが良い。
 しかし、私は、私だけは、その弱点に負けてはならず、その快楽に溺れてはならないはずだ。
 他の誰でもなく、私は、私のためにそうであってはならない。
 そう。私は、私が認め、私が愛するニトロに愛されたい――そのためにも私は『私』を保たねばならないのだ。
 そうでなければニトロに愛されることが叶わないために。それは既にシゼモで証明されているのだから。
 なのに、こんなにも懸想の生む幻に酔いしれるのは、覇王の作った酒池肉林が生む幻に酔いしれるのと何ら変わりがない。目が醒めた時に己が見るのは、きっと地獄だ。そこに私の求める本当の快楽はない。もし私が弱点に負けて良く、その快楽に溺れて良い時があるとしたら、それはニトロに本当に愛された時だけだ。
 ティディアは己の心臓を強く意識した。
 己の心臓に痛みを生んだものが何だったのか、冷静となった今ではありありと解る。
 彼女は心臓と深くつながる己の心に深々と突き刺さっているその『釘』を思う。
 唯一の友達が与えてくれた、強い戒め。
「……」
 これまでなかなかうまく『とっかかり』としても扱えていなかったが、ようやく少しは機能するようになったらしい。
「出席、か」
 ティディアは、思考をあえて口に出した。
「でも、あのニトロが出席してくれるはずはないのに、何で出席してくれる気になったのかしら……」
 便箋を見直す。
 冷静になって改めて考えれば疑問が浮かぶ。
 さて、パトネトは何故姉の封筒と封蝋を盗み使って送ってきたのだろうか。
 まず、私はパトネトに招待状を送っていない。パトネトには必要がないからだ。それは弟が『人見知り』のためにこういう会には出席しないから、というわけではない。ミリュウにさえ招待状を送っていなかった。家族なら誰でも自由に出欠を決めて良い。単純に、そのために。
「……」
 それなのに、パトネトはわざわざこうして知らせてきた。
 もちろん、私を驚かせたかったということはあろう。しかし――
「ああ!」
 脳裏に光が閃き、ティディアは声を上げた。
 それは歓声でありながら、驚愕の声であった。
 彼女は理解したのである。
 ――<お誕生日をお祝いします>
 その直後にニトロの出席を見たために、それはつまり弟が私に少し早い『プレゼント』を贈ってくれたのだと勘違いしていた。
 違う。
 パトネトがわざわざ招待状用の封筒を使ってきたのは、単純に“サプライズ”としての意味もあろう(だから明確にパーティーに出ると書かず、こちらに考えさせる端的な短文なのだ。これだけで全て解るだろうというこちらへの信頼と、また、サプライズを演出するための小さな挑戦的な謎かけとして)。
 だが、この封筒の意味するところでそれ以上に重要なのは、この招待状を受け取った者と同じ作法に従う、という含意だ。招待客は、会に付き添いを一人連れてくることが許されている。それを加味すれば、ニトロが私の誕生日会に出席するのは、つまりパトネトの『付き添い』としてであろう。
 それに思い至れば、嗚呼、何ということだろう!
「『お誕生日をお祝いします』」
 つまりそれは、当日会場でお祝いします――という意味だ。パトネトが、あの人見知りの激しい弟が! ニトロ・ポルカトという保護者同伴を条件にしながらも、何よりも彼にとっては大きな大きな勇気を振り絞って、初めて多くの他人の真っ只中に出てくると、それも私のためのパーティーに出席してくれると言っているのだ!
「……」
 ティディアは、目を閉じた。
 長い間双眸を閉じ続けたティディアは、ゆっくりと目を開き、
「ニトロも、パトネトも先に進んでいるのに……駄目ね」
 つぶやく王女の相貌には、厳しさがあった。『恋の病』に罹ってから幾度も経験した心中のズレ――思えば物心ついた頃から完全に把握していた自心に未知の領域が現れたのは恐ろしいことだ――だが、今、鏡にはそのズレと真正面から向き合い、その難題を解消しようという王女の姿があった。
(……)
 思えばニトロは、私と出会ってから驚くべき速度で成長したものだ。
 ならば、私も彼に負けたくない。
「……」
 ティディアは鏡の中の自分と見つめ合い――やおら、
「ふむ」
 と、うなずいた。
 脳裏に二つの案と、それぞれに付随する“サプライズ”が纏め上げられる。
 一方の案は今から用意を始めても問題はない。が、もう一方の案には問題が存在した。
 そして、その問題は何かというと、
「この髪よねー」
 彼女の頭髪は現状ようやくベリーショートといったところである。
 似合っていると思う。
 これはこれでアリだと我ながら思う。
 しかし、折角ニトロが来てくれる誕生日会にこの髪型は納得がいかない。ニトロを追い詰めるための『イメージ戦略』――お似合いの絵になる二人――としても、この髪型では欲しい方向性への力が足りない。ニトロが『英雄』となった今、となれば私が纏いたいのは世間的にある『大衆的なお姫様のイメージ』だ。『女神』でも『蠱惑の美女』でも『クレイジー・プリンセス』でもなく、妹を救われた姉として、英雄というその勇ましいイメージに対し、その隣で『女神』という神的なイメージを併せて共に輝くのではなく、今は、今こそは、彼を家に迎え入れる女性的な柔らかいイメージが欲しい。そのための最善は英雄譚に描かれるイメージ――そう、理想は『御伽噺のお姫様』である。
 ティディアは鏡台の中の自分を再び見つめた。
「……」
 鏡に映る自分は、やはり髪が短い。
「ん〜」
 つまんでみるが、やはり短過ぎる。
「……」
 一度剃髪した事情が事情とはいえ、こうなると少し悔やまれる。
「……一気に伸ばす方法は」
 あるにはあるが……
「ん〜」
 ひとまず、もう一方の趣向であればこの髪の長さでも最善を得られるし、こちらの案にしかない大きなメリットもある。しかし両案を天秤にかけてみて、現状、やはりここでは『お姫様のイメージ』が欲しい。ニトロを逃がさないためにも、彼を不利な環境で囲みこむという安心感が何より欲しい。彼が私を好きになってくれるどころか未だに私は彼の『敵』で、自業自得ながら悲しくも彼に『女』とすら思ってもらえていないと感じる現状……少しでも彼を囲い込む網の目を大きくしてしまっては、今の彼に少しでも隙を与えたならば、途端にこの手の届くところからするりと逃げられてしまいそうで不安で堪らないから。……ならば?……
「けど、この髪は私だけじゃあどうしようもないのよねぇ」
 ティディアを悩ますこの問題の核心は、そこにあった。
 現在私がこの髪型となっている事情が事情だけに、これは私の一存でどうにかするわけにはいかないものなのだ。
 では、その核心を解決への指針とするには?
「――うん」
 試してみる価値は――
(断然、あるわね)
 片手で封筒と便箋を大切に抱え、ティディアは己の髪をつまみながらいつもの調子でにまりと笑った。脳裏には解決を得るための策が浮かんでいる。解決に向けて最大の障壁である『強敵かれ』のペースを奪うための奇策。ついでに『試したい・試すべきこと』も実行できる一石二鳥の案。だが、その企てに自分でにまりと笑ったその瞬間、彼女はここでまた思いついた案を否定しようという心の動きが自分の中にあることに気がついていた。
「……うん?」
 鏡の中の私は、知らずの内に少しだけ頬を染めていた。「その案はやっぱり恥ずかしいんじゃないかしら」――と、鏡に映る私は私に言ってきている。
 心中のズレ。
 ティディアはニトロと一緒にパトネトを祝った夜以来再び胸に去来したその情動を、鏡を通して、まさに目の当たりにして唇を波打たせるように歪めていた。
 心臓は、ほのかに音を強めている。それは先程の『釘』のためのものではなく、ただ思い出した場面にいた自分と、思い描いた場面にいる自分の――言わば過去の恥じらいを再現し、未来の動悸を先取りした鼓動であった。
(……困ったわねぇ)
 ティディアは封筒と便箋を持つ手を胸に添えたまま、髪をつまんでいた手で左胸に触れた。鏡の中の私もその手で胸に触れる。困惑に小首を傾げてみると、あちらの私はこちらへ問いかけるために小首を傾げたように思える。
 鏡像であるのに、互いに向き合えていないかのような齟齬があった。
(何かしらね)
 ティディアが疑問に眉をひそめると、鏡のティディアは困惑に眉根を寄せる。
「……」
 彼女は自分相手に無言劇をしているような気になって、苦笑した。
 その苦笑が彼女の情動を一度洗い流す。
「んー」
 唇をへの字に曲げて唸りながらティディアは一度天井を見、考えを再びまとめると鏡に目を戻し、
「どうせなら一緒に恥をかきましょうよ」
 話しかけるように独りごち、うなずく鏡の中のティディアは、困りながらも嬉しく笑うようにその柳眉を柔らかく垂れていた。

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