二枚目の便箋にはパトネトのものではない素朴な筆跡があった。
<出席>
 一言、それだけ書かれていた。
「…………」
 ティディアは我が目が信じられず、思わず目をしばたたいた。
 だが、間違いない。
 これはニトロの筆跡である。
 そして、何だ? 出席?――何に?
 いや、それは考えるまでもない。この封筒は『ティディア姫の誕生日会』のために使われたものであり、そこに入っていた便箋には『出席』と書かれている。その意味するところは? 一つしかない!
「――え?」
 されど、いやいやだからこそティディアには信じられなかった。
 疑念と戸惑いと歓喜が作る渦に目が回る。
 我ながら呆れるほどに理解ができない。
 ティディアが己の愚鈍さに焦燥すら感じ出した時、やがてその渦の中から初めはぼんやりと、次第にはっきりと弟の文章が浮かび上がってきた。
 ――<お誕生日をお祝いします>
 お祝いして、そして……?
「え……?」
 何度目かのつぶやきを漏らすティディアの口の端が、思わず、また堪え切れずに持ち上がっていく。
「え?」
 今やティディアの顔面はおかしなことになっていた。
 上半分――眉は驚きに跳ね上がり、双眸は丸く開かれ、瞳はきょとんとしている。
 一方、下半分――口は目一杯に引かれて笑みの三日月を形作り、そのくせ頬は緩みっぱなしで鼻は興奮にひくついている。
「え!?」
 とうとうティディアは大声を上げた。
 封筒と便箋を胸に抱き、
「ニトロが――」
 それ以上は言葉にならなかった。
 ニトロが、私の誕生日を祝いにパーティーにやってきてくれる!
 ティディアの胸に、頭に、幸福の熱が溢れていた。彼女は空を仰ぎ見るように顔を上向けると双眸を泣き出しそうなほどに潤ませ、まるで今にも軽やかなダンスを踊り出しそうに体を振るわせた。
(――どうしよう)
 ティディアは、思った。
(パーティーの案を練り直さないと!)
 基本的に『クレイジー・プリンセス』となってからの誕生日会は当日に“サプライズ”として趣向やイベントを発表する形をとっていた。
 去年は『結婚発表』を行う計画だったために会を開かなかったが、一昨年の会の“サプライズ”は『ドキドキ出会いの場、ドレスコードは水着だよ(当方でスゴいのを用意したので好きに選んでね☆ぽろりしちゃうのも大歓迎)』だった。『ニトロ・ポルカト』のいない当時、恐ろしいクレイジー・プリンセスの暴挙を止められる者は皆無である。普段から節制している者はいいが、そうでない者たちの見せた狼狽・屈辱・阿鼻叫喚の図は実に愉しかった。さらに、初めは羞恥に悶えていた者もやがて時間の経過と共に“それが自然”と受け入れ出した心理の動きも実に興味深かったものだ。
 ――だが、ニトロが来るとなるとそういう趣向は不可能である。
 いや、もちろんそれをすることでニトロにツッコませるという手法はありだが、それは別の機会でも十分味わえる。わざわざ誕生日会に行う必要はない。何より、ニトロが祝いの場に来てくれる!――その幸福をわざわざ自分で壊すのはあまりに愚かと言うものであろう。
 ちなみに今年の“サプライズ”は面白仮面舞踏会にするつもりでいて、またそのように用意を進めていた。趣向としてはニトロも許してくれる範囲であろうが、彼が来るというのにこれでは逆に物足りない。用意した幾つかの面白仮面についてはきっと「阿呆!」と脳天に踵落しを食らうと思うが、『仮面無し』を認めさせられたら途端に単なる舞踏会となってしまう。それはやっぱり物足りない。
(そうだ!)
 参加者全員、衣装をクジで決めさせよう。今回は水着なんかじゃなく色んな地域や国の盛装や民族衣装にして。クジはもちろん八百長だ。私はウェディングドレス、ニトロは王家の男性が結婚式で着る礼装だ! ニトロだけ“当たり”だと言い逃れができないから他に何人かに特別サービスで着せてやる。一生に一度もない機会に当選者は喜ぶ。ニトロはその喜びの前では拒否を貫けまい。
(それとも)
 いっそ、かの悪名高い酒池肉林を再現してみるか? 実在に疑問の余地のある、半ば伝説の覇王が暴挙の一つ。中毒性のある香(違法薬物)に満たされた場での酒宴!
 ニトロはもちろん激怒する。
 が、こちらは高らかに宣言するのだ「伝説を検証する、考古学の再現実験である!」と。私は考古学の博士号を持っているから新たな論文のためとすれば正当性はばっちりだ。ニトロの激怒も胸を張って突っぱねられる。さあ、彼はどれだけ正気を保って周囲の人間を制し続けられるだろう。私はもちろん酔う前から彼に襲い掛かる。こういう階級クラスのパーティーには付き添いにアンドロイドを連れてくるのはマナー違反であるから芍薬もそこにはいない。なれば、これは極めて稀なる絶好の機会ではないか!?
(……いいえ、それだとやっぱり後がまずいわね)
 というか、それ以前に、それだと“覇王の暴挙に関する再現実験”ではなくミッドサファー・ストリートの――『トレイの狂戦士』の再現としかならないだろう。その場には違法合法色んな飲み物を給仕する全裸の男女がいるからトレイももちろんたくさん存在している。――いいや? もっと考えてみよう。そこには、そう、酒瓶がある。酒瓶は硬いしそれなりに重いしそれで殴られたらとても痛い。その上割れたらそのギザギザっぷりで危険度倍増。『酒瓶、あるいは割れ瓶の狂戦士』? 死ぬ死ぬ。一昨年なんて比べ物にならないくらいに阿鼻叫喚。酒池肉林が酒血肉片になっちゃう。ああ、でも、ニトロに抱かれる可能性が少しでもあるのならそれもいいかもしれない
(ああ、でも、どうせならもっと私達に相応しいシチュエーションを作りたいな。それならこんなことをしたらどうだろう!)
 次から次へとアイディアを起こし、吟味している内に、ティディアはいつしか本当に踊り出していた。
 封筒と便箋を胸に抱き、ミリュウの成人のお祝いパーティーで彼と踊ったワルツのステップを踏みながら、愉しい楽しい幸せな時間を思い描いて歓喜に酔いしれる。
 スカートの裾が翻る度に幻影ゆめが目の前に濃さを増す。
 彼女は周囲に舞踏会場を、目の前にニトロの影法師を見ながらワルツのメロディを口ずさむ。
 彼と手を取り合い、彼のもう一方の手が背に添えられているかと思うと眩暈を覚えるほどに体が火照る。
 何て素敵で、何て素晴らしい。きっと生涯の中でも特に喜ばしい体験となるだろう!
 しかしその最中、ティディアはふと喜びの他に胸を締めつけるものがあることを感じていた。それは不安に似ていた。常に歓喜という感情に付きまとう、例えばこの歓喜もいずれ終わることを予感させる不安。あるいはこの歓喜に比して現実は思ったよりも大したことがないのでは? と幸せであるが故に抱く未来への不安。彼女の胸を締めつけるものはそういった不安によく似たものであり、それは彼女が一歩ステップを踏むごとに強さを増していた。そしてその不安に似た締めつけはとうとう心臓を苦しくさせるところまで到達し、そのために彼女の夢想に走っていた思考が若干の我を取り戻す。
 それでも踊り続けていたティディアは彼の影法師に合わせてひらりとターンし――と、その時だった。
 ふいにティディアの目の前から影法師が消え、その視界に鏡台が飛び込んできた。
 鏡の中には無論、封筒と便箋を胸に抱き、独り踊り回る女がいた。
「ッ 」
 その時、ティディアは、思わず息を飲んだ。
 鏡に映る己の姿を見て、彼女はあまりに驚き言葉を失っていた。
 そこには見慣れているはずなのに見覚えのない女がいた
 実にだらしなく顔を蕩けさせ、頬も耳も真っ赤で、双眸のみならず両の頬までもが燃える血の熱で溶かされたようにだらしなく垂れ下がっている……そこにいるのは完全に一人の男に心を奪われ、恥ずかしいほどただただ浮かれて正常な思考回路をすっ飛ばしてしまった女だった!
 ――その女と目が合った瞬間、ティディアの胸を締めつけていた苦しさが急変し、形をなし、それが、彼女の心臓を刺した。
 激しい痛みは心臓を貫き心に到達し、彼女の精神を大きく萎縮させた。
 そしてその時、ティディアの精神は、恐怖にかられて凍えたのである。
「……」
 冷水を浴びたかのように彼女の顔が引き締まり、鏡の中のティディアが、冷静というよりも冷酷な光を帯びた瞳で『彼女』をひたと見据える。

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