鏡の中の

 その時、ティディアは呆けた。
「――え?」
 その時、ティディアは、それしか口にできなかった。



 8月31日の晩のことである。
 その日、ティディアは北副王都ノスカルラにやってきていた。北大陸で二番目に大きなギュネス領で発覚した、本来互いに監視し合うべき貴族と政治家双方が結託した大汚職事件に剣を振るいに来たのである。事件発覚当初において、この事件は関わっている“とされる”人間が大物揃いであったために、長期化し、結局真実もうやむやとなるだろう――そんな見方が大勢を占めていた。しかし、ティディアは北の地にやってくるや否や査問委員会にて居直っていた大貴族の顔を蒼白とさせ、返す剣で逃げ道をちゃくちゃくと構築していた政治家へマスメディアを通じて退路は無いことを示すメッセージを送り――その時点で、事件は事実上の決着を見た。
 ほとんどの人間が驚き、報道は驚愕一色に染まった。
 だが、ほんの一握りの人間にとって、それはむしろ当然の展開であった。
 実は、ティディアは汚職を決定づける証拠を長年握っていたのである。この事件が発覚したのも何を隠そう彼女が裏から手を回して発覚させたからだった。しかし長期化することが見込まれていた事件を颯爽と解決した王女の姿は、またしても民衆の喝采を呼んだ。さらには政局においても何かと煩型うるさがたであった政治家が絶好のタイミングで失脚したことを(口には出さないが)歓迎する向きがあった。
 そうしてしごとを終え、ティディアが北副王都ノスカルラにおける居住・グレイフィード宮殿に戻ってきたのは深夜も間近な頃。
 そして彼女は、居室に入るや否やすぐに首を傾げていた。
「……」
 部屋に“異変”があったのである。目敏い王女の視線はベッドの上に置かれた封筒に向けられていた。彼女はほんの少し警戒心を起こしながら、
ピコ?」
「ハイ」
「あれは?」
「安全デス」
「――ふむ」
 ティディアは部屋付きのA.I.の応答とその調子から、pが何者かに操作されていないことと、これが身内の誰かからのものだということ、またその者がpを口止めしたことを察した。するとそこからは一つの『企て』と、一種挑戦的な姿勢が垣間見えてくる。ティディアは自分の頬も自然と挑戦的に笑むのを感じながら、ベッドに向かった。
 残暑の盛りの北半球にあって、早くも秋の様相深まる北大陸である。秋用の毛布の上に置かれた封筒を手に取り、
(ヴィタ……じゃあないわね)
 執事は今日一日ずっと自分と一緒にいた。もちろん他の者を使えばこうして仕込むことは可能だが、それなら今、何より面白好きの彼女がこの封筒に対するこちらの反応を見られるこの場所にいないのはおかしい。彼女は北副王都ノスカルラ地方名物の『岩猪の丸煮焼き』をやはり名物の黒ビールで食べたがっていたから、帰路の途中で地元の人間推奨のレストランに送り出してやったばかりだ。変装のために赤いカラーコンタクトを入れ――彼女はとにかく瞳が印象的だからそこを隠すだけでも大きな効果がある――いそいそと夜の街に消えていった際の、早くも料理えものに挑みかからんとばかりにうずうずした肉食獣の背姿が目に残っている。それを思えば、実は先回りして帰ってきていて部屋の外でこっそりこちらを伺っている、ということもあるまい。
(――父や母がこんなことをできるとは思えない)
 ティディアは封書を見つめた。
 表にも裏にも何も書かれていない。
 ほのかにクリーム色の地は美しく、表の縁を飾る蔦植物の絵と、透かすように金箔で押し印された王家の紋章が封筒に厳かな趣を与えている。裏では格式を演出するために古めかしい封蝋がされており、そして、封蝋には意匠化されたPQKロイヤル-タグが押されていた。PQKには王家全体で用いる汎用のデザインと、王/女王・王妃/王婿・第一王位継承者〜と個別に用いるものがあるのだが――
「私の印章」
 つまり、ティディア以外には扱えないものだ。
 そもそもティディアにはこの封筒に見覚えがあった。
 アデムメデスでは紙製の手紙が電子メールに駆逐された現在、それでもあえて紙製の手紙を用いる時は『特別な意味』を持つと相場が決まっていて、この封書に関して言えば、その『特別な意味』はつまり王家からの招待状である。
 このデザインの封筒は今年使用されたもので、使用した人間は当のティディアだった。
 また、この封筒を受け取った者は、来月末に開かれる第一王位継承者の誕生日会に招待された百五十名に限られる。であれば、これは予備のものを私に断りなしに抜き出し利用してきたのだろう。
(ミリュウか、パティか………それとも……)
 ティディアはpの操作するアンドロイドが持ってきたナイフを使い――その双眸にかすかに緊張を滲ませながら――封を切った。
 中には二枚の小さな便箋があった。
 ナイフをpに返し、便箋を取り出して一枚目を見てみると、
(パティか)
 ティディアは筆跡を見て微笑んだ。幼いながらも王子としての教育を受けたパトネトの筆致は大人びている。しかし、
<親愛なるお姉ちゃんへ>
 大人びた筆は、反面、まだ幼い弟の口調を伝えてくる。
<お誕生日をお祝いします>
 一枚目は、端的にそれだけで終わっていた。
 二枚目を見る。
「    」
 その時、ティディアは呆けた
「――え?」
 それを見た時、ティディアは、辛うじて、それだけを口にした。

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