「昔、親に弟が欲しいと言ったことがあるんだ」
「?」
 ニトロは腕を組み、唐突な展開に瞳に文字通り疑問符を表示する芍薬へ目を細め、
「そしたらメルトンがプレゼントされた」
 何だかぽかんとした感じでうなずく芍薬へ、彼は苦笑を噛み殺すようにして続ける。
「今思うんだよ。あんな生意気なやつじゃなくて、パティみたいに可愛い弟がやってきてたらどうだったのかなって」
「アア」
 と、ようやく我が意を得たりとばかりに相槌を打って……それから芍薬は吹き出すように笑い出した。
 確かに、生意気で、その上マスターを一度裏切り、その後で奇跡的に許されてもたいして心を入れ替えず、折に触れては何だかんだ言って『許してくれる兄』に甘えてすがりつく『駄目な弟』の典型みたいに自己主張を繰り返すオリジナルA.I.メルトン。
 マスターとあいつの関係性とパティとの関係性とを比較してみれば、これを笑わずにはいられるものか。芍薬は思わず大声を上げそうになって、慌ててアンドロイドの『感応システム』を切った。
 ニトロは、アンドロイドが急に無表情になったのを見て、芍薬が電脳世界あちらで笑い転げているのだろうと察した。それが嬉しくて頬に笑みを浮かべ、芍薬が復帰してくるまでハーブティーを飲みながら待った。
「――ナルホドネ。主様ニトッテハ、パティハモウ『弟』ナンダ」
 やがて、こちらに戻ってきた芍薬が、アンドロイドの音声機能を通じて笑いの残る震え声を届けてくる。もしアンドロイドが呼吸を出来て涙も流せたなら、きっと芍薬は息も絶え絶えにして目を拭っていただろう。
 ニトロは片方の口の端を引き上げて見せ、
「ま、『ごっこ遊び』なのかもしれないけどね。
 でも、だから、正直もうこの際ティディアがどうとか――『フォン・アデムメデス・ロディアーナ』だとかっていうのも関係ないんだよ」
パティハパティ
「うん。そして、『パティとニトロ』」
 芍薬はまた笑った、今度は笑いを噛み殺すようにして笑った。そして、
「ダカラ、メルトンミタイナ――」
 そこで芍薬は一度言葉を切り、付け加えた。
「“メルトン”ヤ“バカ”ミタイナ“駄目ナキョウダイ”ニハナリタクナインダネ」
 ニトロはうなずき、ウィンクをするように片目を細め、
「変にお兄ちゃんぶってるかな?」
「イイト思ウヨ。主様ハ『良イオ兄チャン』サ」
 双眸を細め、芍薬は満足に何度もうなずく。と、そこで悪戯心が芽生え、
「デモ、『ゴッコ遊ビ』ヲスルダケデ『義兄ノ座』ヲ世間ニ見セツケナキャイケナイッテノハ、辛イトコダネ」
「それは言わないでおいてくれるとありがたいなあ」
 悪戯心をあからさまにしている芍薬へ、ニトロは苦笑を返す。芍薬はマスターの苦笑いに微笑を返し、人間のように吐息そのものの音を挟み、
「――ソレニ、パティニハ良イ人生ヲ歩ンデ欲シイモノネ」
 と、そのセリフにまたニトロは図星を突かれた。かすかに丸くなったマスターの双眸を見て、芍薬がにこりと笑む。
「あたしモ、ソウ思ウヨ」
 ニトロは芍薬を見つめた。
「アンナ『無茶』ヲシテクレタケド、パティハ……良イ子ダ」
 それは、『劣り姫の変』の件を引き合いに出して、やはり“それでも警戒の相手”ということを改めて明確に示しながらも……その上で、芍薬もパトネトを憎からず思っているということを示す言葉だった。また、それは、一面的な切り取り方では説明の付かない複雑な感情――芍薬のココロそのものでもあった。
 そこから滲む温かさにニトロはうなずき、そして、
「で、あとはアレかな?」
「御意。アレダネ」
 ニトロは一つ、大きな息をついた。ハーブティーを一口飲み、もう一度、今度は思い切った決断を下す勢いを得るために息をつき、
「出るよ」
「イイノカイ?」
「この『一大決心』は相当な覚悟があってのものだと思うしね。
 ……それに、パティは、いずれどうしても『外』に出て行かなきゃならなくなる」
 ニトロは、自分のベッドに眠る小さな王子を一瞥し、どこか底光りのする意志を感じさせる口調で言った。
「きっと、パティの才能が、パティにそれを許さないから」
 沈黙があった。
 その沈黙は、重かった。
 ニトロは、将来パトネトの心身を拘束するものは、王子という立場よりも、その才能に拠るものが大きいと、そう言ったのである。
 そして、もし――と、ニトロは思う。
 パトネトがティディアのような人間であれば、そう、彼は苦しまないだろう。しかし『パティはパティ』だ。彼は当然ティディアのようではなく、また当然もう一人の身近な人間――ミリュウのようでもない。されど、どちらにも通じる性質を備えていて、どちらにでも転べる状態にあり、その上に現在は『極度の人見知り』という形で現れている彼自身のパーソナリティがある。
 思い返せば、ティディアが「人見知りをどうにかしたい」と言っていたのを聞いたことがあるが、その理由の本当の意味が分かった気がする。
 パトネトは、今、心の成長において重要な時期にあるのだ。
 彼の背中を押す才能の力は極めて大きい。反面、彼を押し留めようとする彼自身のパーソナリティの力も強い。どちらかの力が消えるか、妥協をしなければ……良く育つとか悪く進むとかそういう以前に、いつか、彼は?
 やがて沈黙の中、芍薬がうなずいた。
 ニトロの心中を推察し、同意を送ったのだ。
 ニトロはハーブティーを飲み、カップをソーサーに静かに置き、言った。
「だから、この機会に付き合っておきたいとも思うんだ」
「ツマリ、ソウヤッテ格好ツケテオキタインダネ?」
 と、どこか悪戯っぽい表情で芍薬が言い、そう言われてしまえばニトロは降参するしかない。
 ――パトネトとのこの関係もそう長く続くとは限らない
 そんなことも思いながら、軽く冗談めかしながら、改めて彼は言った。
「うん。だから俺は、パティに精一杯格好つけておきたいと思うんだ」








 パトネトは、夢を見ていた。
 ――いや、夢、だったのだろうか。
 まどろみの中で、パトネトはニトロと芍薬の声を聞いていた。それはとても厳しい内容を含むものではあったけど、同時にとても温かな思いに満ちていた。
 温かな思いは、パトネトの心を撫でてくれていた。優しく、力強く。それは二人の姉からもらう温かさ、力強さと似ていながら全く違うものであった。彼は姉達のくれるものに不満を感じたことはない。けれど、それでも新しい温かさと力強さは本当に嬉しくて、頼りがいがあって、極めて揺るぎない安心感があった。
 やがてパトネトはその温もりに包まれたまま、まどろみの底、意識の届かぬいずこかへと沈み込み、ふと気がつくと、彼は見慣れぬ天井を見上げていた。
「……」
 パトネトは、はっきりとしない意識の中、じっと見慣れぬ天井を見つめていた。
「――!」
 そして、『自分が見慣れぬ場所にいる』ということだけを理解した瞬間、彼の心身はひどい硬直に見舞われた。
「――ッ」
 フレア、と、あるいはお姉ちゃん、と――自分を守ってくれる存在を叫ぼうとするが、喉が引き攣れて声が出ない。
 寝汗一つなかった体に冷や汗が吹き出した。
 ここはどこ?
 寝ぼけた頭が、寝ぼけていたところに急襲してきた緊張のために凍結して動かない。どこの宮殿? どこの城? どこのホテル? 過去に過ごしたことのある天井がむやみやたらと脳裏に巡り、そのどれとも符合しない天井の下、パトネトはもはやパニックに陥りかけていた。
 だが、判然としない状況下でパニックになることは特別に良くない――と、姉に教えられたことが記憶の中からふとこぼれ落ち、
「――!」
 パトネトは懸命に飛び起きた。
 状況を把握しようと何とかベッドに体を起こし、その瞬間、彼の視界に人影が二つ飛び込んできた。
「!!」
 パトネトは驚愕に目を見開いた。
 目を見開いて――そして、そこにびっくり眼で立っている男性の姿を見て、つい一瞬前まで全身を支配していた恐慌がまるで嘘のように無くなっていくのを感じた。
「パティ?」
 エプロン姿のニトロが、パトネトに歩み寄ってくる。
 彼はこちらの額に浮かぶ汗を見て、
「怖い夢でも見た?」
 パトネトは首を振ろうとして、それを止め、小さくうなずいた。
「大丈夫?」
「……だいじょうぶ」
 すると、ニトロの温かな手が彼の頭に優しく触れた。
「そっか」
 パトネトの目を、優しくて頼れる強い『兄』の笑顔が埋める。その向こうに目を移せば、強くて頼れる優しい戦乙女の姿もある。
 すっかり安心を取り戻したパトネトはニトロに撫でられながら目を細め、しばらくそのままでいた。
 芍薬の持ってきたタオルを受け取ったニトロに汗を拭かれ、いつもと違う朝――これまで経験したことのない新しい朝の空気を吸う。爽やかな匂いがすることに気がついて、見れば窓が少し開けられていた。残暑の盛りの頃とはいえ朝には涼風が吹いている。窓の隙間から吹き込んでくるその風に乗って、ベランダのハーブが放つ鮮度抜群の芳香が漂ってきているのだった。
「……」
 パトネトはベッドに座ったまま、黙ってニトロを見上げた。
「……ん?」
 用の済んだタオルを芍薬に渡していたニトロがパトネトの視線に気づき、首を傾げる。
 パトネトは、微笑んだ。
「ホーリーパーティートゥーユー。ニトロ君」
 ニトロは驚いた。
 その言葉を掛けるのは、普通は自分の方である。
 それに、その言葉の意味するところは……
「――芍薬もっ」
 ふと、言い忘れていたことを思い出したようにパトネトが急いで付け加えた。
「……」
 ニトロは、微笑んだ。
 芍薬も微笑んでいた。
 パトネト・フォン・アデムメデス・ロディアーナ。
 本日、8歳となった王子に、二人から祝福が振りかけられた。
「「ホーリーパーティートゥーユー、パティ」」

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