「パティ」
 パトネトの頭を洗いながら、ニトロは言った。
「人が嫌がることをするのはいけないな」
「ごめんね」
 ニトロに頭を洗われながら、パトネトは言った。
「約束を破るのもよくない」
 ニトロは、パトネトと『ティディアは仕事』だから『つれてこない』という約束をしていた。
「うん」
 パトネトは小さくうなずく。
「分かってるなら、どうして?」
 パトネトは、しばらく黙っていた。ニトロは彼の頭をしっかり洗い続ける。
「お姉ちゃん……僕にね、『楽しんでいらっしゃい』って言ったんだ」
 ようやくパトネトが応えた。
 ニトロはシャワーノズルを手にしたところで動きを止め、
「『楽しんでいらっしゃい』?」
「お姉ちゃん、自分からは連れて行ってって言わなかった」
「……」
「お姉ちゃんは、ニトロ君のこと、大好きだよ」
「……」
「僕も大好き」
「……ありがとう」
「僕はお姉ちゃんも大好き」
「うん」
「だから、僕が勝手に呼んだの。もしかしたら来なかったかもしれないけど」
「……うん」
「一緒にお祝いしてもらって、うれしかった」
「……そっか」
「……ごめんね」
 ニトロはパトネトの頭を洗うふりをして、撫でた。
「それじゃあ流すよ」
「うん」
 シャンプーを綺麗に洗い流すと、パトネトは勢い良く立ち上がり、
「じゃあ、今度は僕の番!」
 とニトロの背後に回る。
 手にシャンプーを取り、ニトロの髪を、ニトロの手からすればまだまだ小さな手で洗い出す。その運指は決して上手いわけではないが、ニトロにはとても心地よく感じられた。
「……ねえ、ニトロ君」
 ニトロがそうしたように――真似ているのだ――指の腹で頭をマッサージするようにしながら、パトネトが問いかける。
「ん?」
 ニトロが促すと、一度パトネトの手が止まった。背後の王子の顔を、ニトロは正面の鏡を通して見つめる。そこには躊躇いの表情があった。が、たっぷり三呼吸の後、それでもパトネトは躊躇いがちに、
「ニトロ君は、お姉ちゃんが『王女』じゃなかったらって……思う?」
 それはどこか逼迫ひっぱくした口振りだった。
 ニトロは、反面、さらりと応えた。
「コンチクショウ、王女のくせに……とはいつも思ってるよ」
「……」
 パトネトの手が再び、ゆっくりと動き出す。
 その手の動き方から、ニトロは彼が答えに満足していないことを察した。
(……なら、どういうつもりだったのかな)
『王女』の弟からの問い。
 ――『王女』じゃなかったら
 そのセリフから連想するのはティディアではなく、“王女であること”を苦しみの一つとしていたミリュウであるが……そういうつもりで弟君は問うたのではないだろう。
 しばし考え、ニトロは、思い至った。
「王女であってもなくても、あくまで、あいつが迷惑なんだよ」
 ニトロが改めて言うと、大好きな姉に対してきついことを言われたというのに、鏡を通して見える王子の顔が目に見えて明るさを増した。
 明らかに喜んでいるパトネトの様子に、ニトロは正解を踏めた、と安堵した。
 そう、先のパトネトの問いかけは、ひどく核心を遠巻きにした質問であったのだ。
 彼は、本質的にはこう言っていたのである――「ニトロ君は、お姉ちゃんが『王女』であるために生まれる諸問題にこそ嫌気をさしてはいないのか?」と。
 もしティディアが『王女』でなければ、なるほど確かに『ニトロ・ポルカト』を取り巻く『クレイジー・プリンセス・ホールダー』だの『次期王』だの至極面倒極まりない用件はいくつも消えるだろう。もちろん、それらにニトロは心の底からひどく迷惑している。他にも、例えば現在もマンションを取り巻く群衆など迷惑に感じないわけがない。
 が、そうは言っても、本質的な問題として――それら諸問題に対する嫌気や怒りを “ティディアが『王女』であるから”という『条件』に向けてはいないのだと、ニトロは確信をもって思うのである。
 道徳的に語れば『ティディア』が『王女』であることは彼女のせいではない、とも言えようか。しかし、自分からすればこれはただ道徳に拠っているのではない。たまたまだ。もっと単純な部分で「お前が王女だから!」と責めるのは理に適っているようで根本的には筋違いだと思うし、それにそう責めたところであいつは「じゃあ王女を辞めよっか?」と言うだろうっていうか実際『映画』の折にそう言ってのけやがったし……ッ。
 ――つまり、であるから、ニトロにとってはあくまでティディアが『王女』であることは二の次なのだ。何よりも、第一に! とにかく『ティディアが迷惑なのだ
 パトネトは、それを直接、明確に聞きたかったのである。
 ある意味において『姉自身』が迷惑がられているということは『姉が王女であるから』という外部要因を根拠に迷惑とされるよりひどいことにもなるのだが、しかし一方で、この件に関しては、それはあくまでニトロが『ティディアという個人』に向きあっているということでもある。生まれや生い立ちを理由にしない、ごく個人的な、ごく個人に対する感情の表明。翻って『姉自身を見てくれているという実感
 パトネトはそのために喜んだのだ。
 もちろん、そこには彼が“『王女』という外部要因”と“内心こじん”の軋轢のために苦しんでいた姉ミリュウを傍で見、同情を寄せてきていたからという理由もあるだろう。
 しかし、もう一つ穿てば――ニトロは思う――今の質問で、パトネトも『パトネト王子』としてではなく『パトネトという個人』として見られているという安心を同時に獲得し得たのではないのだろうか?
(……)
 そこでニトロは、一つ思うことがあった。
(ひょっとしたら――)
 パトネトが『人見知り』なのは『人の気持ちが解り過ぎる』からこそ、ではないのだろうか。一人黙って苦しんでいた姉の心を見つめ、その苦しみを理解し(ともすれば“自分の存在”も姉の苦しみの一つだとまで理解し)、そうして姉を助けようと懸命に努めていた彼だ。本当に賢く、色々と年齢相応以上にバランスが悪いところもあるが、その年齢で驚くほど他人の心を慮ることができるパティだ。
(……ひょっとしたら……)
 あるいは、この子は、希代の王女と称されるティディアと同程度の洞察力すら備えているのかもしれない。そして、ティディアはその力を自身の武器として軽やかに扱っているが、しかしパトネトは、だからこそ人を怖がっているのではないのだろうか。
「……」
 もし、そうだとしたら。
 その力を良い方向に持っていければ、パトネトは自身の力を扱いきれずに苦しむこともなく、能力の全てを人生の彩りのために活用することができるだろう。
 しかし、それが悪い方向へと動いてしまえば……この子は、きっと自分の世界を硬く堅く閉じてしまうだろう。
 それとも、最悪な方向で考えれば、『希代の王女』に並ぶ太陽と評される彼のことだ。一方で『覇王の再来』とも呼ばれる姉がその延長線で“暗黒の太陽”ともなりうることを考えれば、彼もまた暗黒の太陽となれる人物なのかもしれない。まだまだ未成熟な体に、ひどくアンバランスな頭脳と心を載せる、この子は。いいや、それだけならまだしも――
(……)
 ニトロはパトネトに丁寧に頭を洗われながら、
「パティ」
「何?」
「誕生日プレゼント、何が欲しい?」
 パトネトはきょとんとした。鏡を通してニトロを見つめ、
「もうたくさんもらったよ?」
「遠慮しなくていいよ。俺も、よくもらったんだ。美味しいごはんとケーキと、楽しい時間と、それからとても嬉しいプレゼントを」
 パトネトはニトロの額に近いところを洗いながら、
「……それじゃあね」
「うん」
「あのね……」
 そこでパトネトは躊躇い、ややあって、意を決したように言った。
「来月、お姉ちゃんのお誕生日会に……連れて行って?」

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