ティディアは、王城への帰途――空から眼下の王都の光を眺めながら、しみじみと幸せを噛み締めていた。
 ニトロ手作りのドレッシングで食べた鯛のカルパッチョ&サラダ、さっぱりとしながらも野菜に味のしっかり沁み込んだ――特に蕪が美味しかった!――ポトフ。金冠エビを用いたマカロニグラタンは素晴らしかった。過去、まだ漁の方法が確立していなかった時代には一尾が金貨百枚に及んだ記録もあり、そのためこの味の虜となったがために身を滅ぼした者までいるほどの美味なるエビ。歯を立てると焼きたてのウインナーのように弾けるそのエビの身は奥深い滋味と忘れられない旨みを兼ね備え、ぷりぷりとした食感は噛み締め飲み込むのをもったいないと思うのに噛まずにはいられず、とにかく後を引く。
 ところで私たる主観を除き王女として客観的に語るならば、ニトロの金冠エビの処理は少々甘かったと言わざるを得ない。もっと素材を活かす余地はあった。いくらか弾力を失い、香りも若干飛んでいた。他の具やソースとのバランスももっと良くできる。……しかし、プロではない彼にそこまで求めるのは酷ではあろう。むしろ、初めて扱った非常にデリケートな食材をよく調理し切ったと思う。
 その上で、私人と公人の価値観の両側で、ティディアは思う。
 高級なエビ。
 とてもデリケートな食材。
 プロとアマ、店と家庭の差――それが一体なんだと言うのだろう。
 嗚呼、思い返す度、いつにも増して美味しかったと彼女の胸は躍る。
 ティディアは思うのだ。
 ニトロの手料理は本当に口に合う。とにかく幸せを味わえる。もし彼が毎日料理を作って私を迎えてくれるなら、それはどんなに大きな力となることだろう!
 そして――
 今回に限って言えば、何よりも特筆すべきはやはりデザートである。
 パトネトが、あの弟が……初めて作った、ケーキ。
 弟は生来『作る』ことに並々ならぬ関心を寄せている。が、しかしその“世界”は常に閉じていた。基本的に弟にとって『作る』という行為はあくまで彼自身の興味と好奇心を埋めるためだけの自己満足の手段に過ぎず(それでも弟の自己満足はそれだけで他人に利益を生むのだが)、そのため、彼は何かを誰かのために『作る』としても全てを独りで計画・実行してきた。父に頼まれても、ティディアに頼まれても、誰のために何を作るにしても独り。それはあの『劣り姫の変』においても変わらなかった。姉ミリュウの最大の協力者として様々な物を用意したパトネトではあるが、最大の協力者という立場にあってもなお、彼はそのほとんどを部屋にこもって独りで作り上げていた。ミリュウの協力を得るのも『ミリュウというデータ』が必要な時だけ。仕様に組み込んだ姉の希望も、結局は『“こういうものを作って欲しい”というパーツ』に過ぎない。それ以外は、全ては、彼独りの中だけで完成するのである。
 それだけ弟の中には、『作る』という行為に対する聖域とでもいうべき感覚があった。そしてティディアは、弟の成長の過程において、それを攻略することにこそ苦労すると思っていた。何故なら、弟はまだ自我もおぼろげな頃から、積み木を積むことにさえ絶対に明確に自分が主導でなければ手伝いも決して許さなかったのだから。
 それなのに……そんなあの子が、初めて生身の人間を相手に『一緒に作った』のだ! それも、教わりながら! 自ら主導の座を降りて、素直に、楽しく! 何て素晴らしい!
 みんなで誕生日の歌を歌い――ホーリーパーティートゥーユー!――パトネトの、私も初めて見るような朗らかな笑顔と共に切り分けた、少し不恰好なあのケーキ。
 生クリームの甘さを引き立てるイチゴの酸味が絶妙のバランスを生んでいた。
 ケーキを作っている時の失敗談を語る弟の顔は、失敗談を語っているというのに輝いていた。そしてその輝きの理由も、その失敗を後に有益な経験にしたためであるのだからまた素晴らしい。
 そう、本当に素晴らしい。
「……」
 ……ティディアは……弟の『才能』が本物であるがために、これまでずっとある『不安』を抱き続けていた。
 それは弟の未来に関わる重大事であり――利己的に言えば、あの子を“活用”するにしろ“悪用”するにしろ――そろそろどうにかしないとならないと思っていた大問題。ティディアは、ミリュウに対してそうしてきたように、弟についてもその対策を色々と画策していた。しかし、今やそれらは全て無意味となった。彼女が考えていたことなど何の解決にもならぬことであったと、彼女は思い知らされもしていた。
 攻略するに苦労するはずだった聖域を開放し、閉じた“世界”から一歩踏み出して――“彼”に手を引かれて自ら一歩ずつ進み出した弟。もしかしたら、苦しんでいたミリュウを見て、何か思うところがあったのかもしれない。もはやあの子は足を止めようとはしないだろう。その姿を見ていると胸に居座り続けていた『不安』は目に見えて薄れていく。今も、それは加速度的に。
「パトネト様がニトロ様と出会えたことは、幸運ですね」
 王城から届けさせた王家専用飛行車を運転しながらヴィタが言う。二人の乗る車は親衛隊おうぐんが取り囲んでいる。今度こそパトネトもこの車に乗っていると皆には思われているだろう。
「そうねー」
 ため息混じりに、そしてどこか夢見心地に、ティディアは言った。
「しかし、何故に嘘をつかれたのです」
 だが、ティディアの夢見心地は、ヴィタのその問いによってすぐに崩された。
「何のこと?」
 少々機嫌を害して問い返すと、ヴィタは涼やかに言う。
「お召し物は全て、どの角度から誰に見せても恥ずかしくありません
 ――その通り、実は、ティディアは何も『正面から見たらもんのすっごいエッチな勝負パンツ』などは履いていなかった。履いているのはニトロが例に挙げた、ミッドサファーストリートで着ていた下着と同程度のもの。ヴィタは、ティディアがニトロに対して見せた“不可解な恥じらい”への疑念を示してきたのである。どうやらニトロと同様に、バカ姫の同好の士たる女執事もあの反応を不可解に感じていたらしい。
 それに対し、ティディアは、少しぼんやりと答えた。
「さあ、どうしてかしらね」
「――とは?」
「どの角度から誰に見せても恥ずかしくない、そのはずだったのに……急に恥ずかしくなった。他の誰より、ニトロに見られたくなかったのよ」
 言って、ティディアは笑った。
 少し前、ミリュウの成人を祝う会の日、一ヶ月振りにちゃんと彼と会った時には『裸オーバーオール』なんて姿をしていたのに……
「変ね」
 記憶を遡れば、その一ヶ月前には彼の目の前で片乳ぽろりを決めた。下着を見られるよりダイレクトにエッチだ。なのに、そうしたところでその時は顔を赤らめるだけであったし、その上、その時は裸を『ニトロ以外の男に見られたくない』と思っていたのに……これでは、まるきり逆ではないか。
 口の端を持ち上げたまま、ティディアは“不具合”への疑念に首を傾げる。
 その様子をバックミラーに映し見ながら、ヴィタは何も応えず、ただ微笑んでいた。彼女には答えが解ったのだ。……しかし、それを彼女は口にしないことにした。それは、愉快な我が主が自ら気づかれるべきことだ。
 ヴィタが微笑む一方、ティディアは気を取り直すために一つ息をつき、
「まあ、今回は……見られても構わない、って思ってなかったのもあるかもね。初めから折り込み済みならきっと大丈夫。次は攻めるわ」
「ええ。どうぞ、ティディア様の思いのままに」
 バックミラーには――早速様々な計画を脳裏に描き出したのだろう――希望と期待から頬に紅差す王女がいる。そのキラキラと無垢に輝く瞳の中には、それでもどこか拭い去れぬ疑念と、さらには頼りない不安気な影がある。
 それを見て取ったヴィタはさらに微笑み、
「……パトネト様もニトロ様と出会えたことは、幸運ですね」
 ティディアは、先と同じ事を言った執事に対し軽く怒るような表情を送った。
「そうね」
 そして肯定を返すティディアには、怒るような表情の中にも笑みがあった。
 パトネト様“も”。
「そうね……」
 ケーキは、初めから二人分とは言えない大きさで作られていた。どうやらニトロは、パトネトがケーキを作ることになった時点で作る分量を多目に設定してくれたらしい。その理由は聞かずとも分かるし、実際に行動で示してくれた。切り分けて残ったケーキは、今、隣に座らせている高機能な冷蔵箱クーラーボックスの中にある。彼は『末っ子が初めて作ったケーキを是非』と、家族の――両親と姉達のために用意しておいてくれたのだ。
 父と母には、まだ言わない。ミリュウとセイラにはこれから明日中に届くように送る。みんな、この上なく喜ぶに決まっている。
 ――ニトロ・ポルカト。
 私の愛する優しい人は――家族にとっても、本当に……本当に!……
「出会えて、良かったわ」
 ティディアは眼下に輝く王都の繁栄の光を眺めながら、しみじみとつぶやいた。

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