「仕事はどうした」
天使はぱたぱたと腕を振っていた。その勢いで何とか回転する体を止めようとしているのだ。
「今日はお休みになったのよ」
にっこりと笑ってティディアが言う。笑顔のままもう一度彼女はくるりと横回転し、そこでやっと止まった。
ニトロは眉間に激しく皺を寄せ、
「お休みになった? 会議は行われてるそうだが?」
「そうよー、私の代わりに――って言うと順序が逆ね」
「順序?」
「父が急に自分が出るって言ってくれたのよ」
「王様がっ?」
思わず、ニトロは声を大きくしてしまった。
「え? それで――」
と、そこまで言って、ニトロは決まり悪く口を閉じた。
確かに……ティディアの言う通り、アデムメデスの第一王位継承者は、西大陸で行われている重要な国策において、政に疎い父王に代わって働いている。実質はどうあれ、名目上は、王女はあくまで代行であるのだ。ならば王がその『代行』を休ませて会議に出るのは何もおかしいことではない。だが――
「大丈夫よぅ」
口をもごつかせるニトロへ、ティディアは含み笑いを声の中に刻みながら、
「優秀なサポートがついているから」
言いながら彼女は、一瞬、右手で
(――なるほど)
西大陸の国策を、王は深く理解はしていない。しかし、その国策へのサインを代行(厳密には代行の代行)したもう一人の真面目な王女ならば話は別である。そのようなブレインがついているならティディアの穴を埋めるには――今回の会議に限れば――十分だ。
……というよりも、元より君主である王がそのように会議に出席することは全くの正常なのである。
もしここでティディアに対して『仕事をサボるな』とでも言おうものなら、それはむしろ王に対する侮辱ともなろう。さらに、西の国策に王の出番がないことを不満とする原理的な伝統主義者も存在するため、今回の件はそちらへ満足を与えることにもなるだろう。その点からも彼女を非難する理由は削られる。となれば、このバカながらも国を富ませている王女が急遽休みを作れる状況とするならば、これは実に隙の無い“道理”だ。
――さて。
ここでニトロにとって問題となるのは、では誰がそのように
無論、ティディアが父と妹を動かした……というのは当然考えられる。
されどニトロには、とてもそうとは思えなかった。
何故なら、もしティディアがそうしたならば、こんな準備不足も甚だしい格好でやってくるはずがないからだ。どんな馬鹿げた催しにも全力を尽くすクレイジー・プリンセスである。本当ならBGMのために楽団の一つは用意しただろうし、コーラスも一流どころを揃えただろう。天使の羽だってプラスチック丸出しなどではなく、本物の
「……」
ニトロは背後に振り返った。
すると、こちらを楽しげに眺めていたパトネトが慌てて顔を背けた。
「……」
ニトロは前に向き直り、
「……それなら、安心だな」
「ええ、安心」
ティディアの満面の笑みは、ニトロの推理を肯定していた。
ニトロは肩を落として吐息をつき、
「よし、帰れ」
「えええ!?」
ティディアは心底驚いたようであった。
驚きの余りにオーバーにアクションしてしまい、その拍子に肩にかかっていた白布が落ち、連鎖的に胸に巻きつけていた布が緩みそうになる。
「わ」
彼女は慌てて布を抑えた。するとその動作の勢いがありすぎたためか、先ほどよりも増して彼女はくるくると横回転を始めた。ふわりと、スカートがめくれ上がりそうになる。
……一瞬、ティディアの目が見開かれた。
「わ!」
再度声を上げ、ティディアはひどく慌てて両腿をぴったり合わせるや、片手で胸と肩の布を、片手でスカートを押さえて体を縮めた。
彼女の頬には、紅も差している。
やおらもじもじとして体勢を整えてから、彼女はいそいそと布の巻き付けを直し出した。と、その拍子に肩口のめくれた布の裏からテープで止められた極小の音楽プレイヤーと薄型携帯スピーカーが覗いた。タネを明かしてしまった新人マジシャンのように顔を強張らせ、彼女はそれも慌てて直していく。
本当に……『クレイジー・プリンセス』たる年季の入った道化にしては段取りも反応も無様に過ぎる。
ティディアが衣装を直す間、ニトロはずっと怪訝に眉をひそめていた。しかし、彼のその怪訝は彼女の無様に対するものではなかった。
衣装の直しが終わったところで、ニトロは眉をひそめたまま問うた。
「何を恥ずかしがってるんだ?」
「――だって、見えちゃうじゃない!」
ティディアは視線で下を示す。あえて覗き込むこともない。『観客』が集まっているのだ。そのざわめきはニトロの耳にも届いている。
しかし、ニトロはいよいよ両眉がくっつきかねないほどに眉を寄せ、
「いや今更隠してもな……」
例え真下でなくとも、下から見れば先ほどの降下中はもろ見えだったはずだが……
「それにそんなん気にする性質じゃないだろ?」
「今日は“見せパン”じゃないのよ!」
「お前、前にミッドサファーストリートで何て言ったか覚えてるか?」
「だからって……程度問題でしょう!?」
「――は?」
「お尻はいいの! でも前はダメ、だって今正面から見たらもんのすっごいエッチな勝負パ「芍薬」
「承諾」
今まで黙ってニトロの背後に控えていた芍薬が、待ってましたとばかりに嬉々として左手を上げる。その中指はティディアの頭のすぐ上に向けられていて――
「ぅわーーーッ! 待って待って待って待って!!」
ティディアは絶叫した。悲鳴どころではない。それは『警報』であった。
その尋常ではない本気の制止に芍薬が驚き、止まる。
無論、ニトロも驚いていた。芍薬と目を合わせてぱちくりと戸惑い、揃ってティディアに向き直る。
「今、何をしようとしたの!?」
息を荒げて問いかけてくるティディアへ二人揃って答える。
「レーザー」「レーザー」
ティディアは嫉妬に任せて叫んだ。
「もー! 何よその以心伝心相変わらずの息の合いっぷり! 私も混ぜて! そして結こ「芍や「承だ「ぅわあぁぁァぁぁあお!!!」
わたわたとティディアが腕を振る。勢い、再び彼女はくるくると横回転を始める。
「……一体、何ダイ?」
面倒臭そうに芍薬が問う。
ティディアはくるっくる回りながら――スカートの短い裾を前後とも腿で必死に挟んでめくれ上がりを防ぎながら、叫ぶ。
「これを切られたら私は死んじゃうの!」
「ハァ?」
「芍薬ちゃんは判っているでしょう? 私はコレ一本でぶら下がっているって! 他に命綱はないって!」
ティディアが示すのは彼女の首の後ろから頭上へと伸びるワイヤーだ。ニトロは当然、このバカが用意する『仕掛け』はそれだけではないと踏んでいたのだが……
「芍薬?」
「本当ダヨ。『ハーネス』ヲ体ニ付ケテ、ワイヤー一本」
「そのハーネスも細いやら素肌に直接付けてるやらでお股やらおっぱいの付け根やらが擦れて痛いの。だから後でお薬塗ってね、ニ・ト――ぅわゴメン! 二人揃ってそんな怖い顔しないで!」
「だったらもうちょっと真面目にやれ」
「いつも私は真面目にやっているわ!」
「性質が悪い」「性質ガ悪イ」
「もーーー!」
ティディアは腿をぴったり閉じたまま、膝から下だけで器用に憤懣を表し足をぴょこぴょことさせ、それからうなだれた。
「だからそんな仲良し……私も混ぜてよぅ。真面目に浮かれているのよぅ。折角、来られたんだもの」
ティディアは少ししょんぼりとして言う。
「本当に、あんまり急だったから道具は道なりの店々で揃えたものばかりで……このワイヤーだってヴィタが支えてるんだもの」
くいくいと、ティディアの手が『手釣り』の動きをする。
「っておい、ヴィタさん相変わらず凄いな」
思わぬティディアの告白に、ニトロは戦慄する。ということは、頭上の車の中で、女執事は手釣りの漁師よろしくワイヤーを垂らして大きな大きな錘を支えているということか。正直、人間業ではない。
「父から連絡を受けたのは飛行機の中。そこからはもう芍薬ちゃんに感づかれないよう戻ってくることだけに集中よ。私達だけならまだしも、父の動きも巧く隠さないといけないじゃない? 使える手段が限られるから
「基準が違うだろ、形より安全優先しろよ」
「死んだら笑えないからそりゃ安全も確保したいわよ! 本当ならこんな粗末な翼じゃなくて
ティディアの『バラし』に……偽りは、なさそうだ。
ニトロには、背後の芍薬が出し抜かれたことに内心険立っているのが解る。同時に、既に今回使われた手段を――ティディアの言った
そして、二人から反論が来ないことを好機と捉えたティディアは、畳み掛けた。
「だから今、私の装備はこれだけッ! 落ちたら死んじゃう!!」
ティディアの力強い宣言に、しかし、ニトロは首を傾げ、
「うーん。そう言われてもなぁ」
次いで、芍薬は“鼻”で笑った。
「信用デキナイ」
ティディアはちょっと鼻につんと来るものを感じたが、それでも叫んだ。