食卓には爽やかに香るドレッシングポットと、瑞々しく彩鮮やかな鯛のカルパッチョ&サラダが置かれている。
 取り皿もナイフやフォークも見事に磨かれて輝きを放っていた。
 席についているのは、パトネト一人だ。彼が遊びに来るようになったためにニトロが用意した、言わば彼愛用の座高調節用クッションを敷いた椅子にちょこんと座っている。
 彼は今、サラダを前にしてもそれを見てはいない。
 彼の体は左に横向けられていて、輝く瞳はそちらに見えるセミオープン型のキッチンに固定されている。床につかない足はぷらぷらと楽しげに揺れている。
 キッチンではカッポーギ姿の芍薬が鍋の様子を見ていた。ポトフだという。実の柔らかな蕪が崩れないよう弱火で温めている。
 そしてニトロは、今まさに、グラタン皿を二つ手にしていた。
 マカロニ、スライスしたタマネギとマッシュルーム、それといっぱいのエビ。白いベシャメルソースをうっすらと透くエビの鮮やかに紅い肌は見目にも食欲をそそる。それらを覆うのは、旨味溢れるエビに負けず、焼きたてのウインナーを齧るような歯応えでぷりぷりと弾けるエビの食感を活かしもするコク深い乳白色のチーズ。ニトロは、金冠エビの味を活かすために最もシンプルなレシピを選んでいた。
 あらかじめ熱しておいたオーブンレンジに皿を入れ、加熱を開始する。
「よし」
 これで程よい焼き目がつくまで、手がかからない。ニトロは仕事を終えた。サラダとスープを食べながら歓談している内にメインディッシュのグラタンができ、口直しに紅茶を挟んで、最後にパトネトと一緒に作ったケーキを食べる。思い描いた通りに進められそうで、ニトロの頬には自然と笑みが浮かぶ。残ったグラタン――足りないよりは多いほうが良いと作った余り――を粗熱が取れたら冷凍するよう芍薬に頼み、
「それじゃあ、後はよろしくね」
「御意」
 芍薬も笑みを浮かべる。
 ニトロはエプロンをハンガーに掛けて所定の位置に置き、キッチンからぐるりと抜け出て、
「お待たせ」
 笑顔でそう言いながら、歓迎の瞳を輝かせるパトネトの待つ食卓に座ろうとした――
 その時だった。
「主様」
 芍薬の声には、いくらか警戒が含まれていた。
 それを聞いた瞬間――ここまで順調計画通り、これからパトネトをお祝いしながら楽しく食事をして、風呂に入って、その後はゆっくり休んで、明日の朝にもう一度パトネトにお祝いを言って――そして彼を家族の待つ城へ送り届けよう……ニトロの脳裏に、それらスケジュールのあらましがまるで走馬灯のように駆け抜けた。
 ……嫌な予感が、してならない。
「?」
 ニトロが目を向けると、芍薬は言った。
「一台、ズット空中停止ホバリングシテイル」
「王家専用?」
「『レッカード』ノ“タムトン”」
 レッカード・インペルモーターズ社製の最大七人乗りのファミリースカイカー。家族向け飛行車の定番だ。実際、マンションの住人で使用している者もいる。
 芍薬はアンドロイドの無線を用いて壁掛けのテレビモニターの電源を入れた。すると、画面に屋上飛行車発着場の監視カメラの映像が表れる。そこには確かに何の変哲もない人気車種が浮かんでいた。
「西は?」
 ニトロはそれを眺めながら問うた。
「会議ニハ王家ノ代表ガ確カニ参加シテイルヨ」
 王家の代表――つまり、ティディアだ。
 芍薬は、首を捻っていた。不審な車を目にしてもなお判断を下せずにいるのだ。ニトロがその理由を問う目を投げると、
「ナンバーハ最上階ノ人ノナンダヨネ……」
 唸るように芍薬は言った。ただでさえ迷惑をかけている住人だ。となれば、疑わしい動きをしているだけで詰問をするわけにもいかない。
「下は?」
 ニトロが言うや、画面が二分割され、片方に朝にも見たマンション共用玄関のカメラの映像が表れた。副王都の片隅の市営動物園に散々寄り道しながら向かった王家専用車に目当ての人間がいないことがわかった後、特に夜になってからその数を増やした『ファン』の姿が多く見える。今日は王子もいるかもしれないとあっていつもより混雑していた。そして、その皆も、何やら口を動かしながら上空を仰ぎ見ていた。
 監視カメラという定点視点しかない芍薬だけでなく、無数の立ち位置から見てもやはりあのタムトンの動きは不自然なもののようだ。
 ニトロの中で、嫌な“予感”が嫌な“確定事項”へと変化していく。
 ――と、
「ア」
 ふいに、ひどく険のある音で芍薬がうめいた。
 画面では、わずかにスライド式のドアが開いているのが確認できる。ドアの隙間はまだ数センチである上、ルームライトも落とされているため人の目には中の様子は判らない。しかし監視カメラに目をリンクすることで速く細かく現場を捉えられる芍薬の反応を受け、ニトロはそれ以上画面を目にすることなく即座にベランダへ向かった。
 芍薬も電気コンロを止めてマスターの後を追う。
 パトネトだけが一人テーブルに残り、二人の背中を追うように体を窓に向ける。
 ニトロはレースのカーテンを開き、窓を開けた。空調の効いた部屋に、残暑にこもる夏の夜の空気がねっとりと流れ込んだ。かすかに歓声が聞こえる。彼はスリッパのままベランダに出た。芍薬が母から譲り受けたハーブの鉢が並ぶ中、腕を組み……待つ。
 すると、上方から、例えばゲームのラスボスが荘厳に現れる際に流れるような曲が聞こえてきた。
 しかし……
「?」
 妙に音量が、小さい。
 その上、変にくぐもっている。
 いつものあのバカならば指向性スピーカーなどを使って大音量で聞かせてくるだろうに、どうもその音は、携帯できるミニスピーカーをポケットに入れ、そこから無理やり鳴り響かせているといった風情である。
「……ア〜アア〜〜〜♪」
 数秒後、やけに美しい歌声が頭上から降ってきた。
 ニトロは片頬を引きつらせた。
 考えるまでもなく理解する。
 その曲だけでは物足りなくなったのだ。そこでアイツは、試しに自ら(ソロにも関わらず)コーラスを重ねてみた。そうに違いない。
 だが、
「ア〜ア〜あーあア〜アア〜♪」
 一瞬、歌声の中にため息が混じった。
 そう、彼女はコーラスを始めた直後に悟ったのだ。
 明らかにミスマッチである。
 歌声は曲の音質に比べて格段に美しく、さらには音量まで上を行ける。これでは曲の意味がない。バカは声量も声質も抑えて調整し――流石にその調整力だけは素晴らしく、かろうじて曲と歌声のバランスだけは整えられたが、とはいえそれでは質の悪い方へと妥協したことになる。完璧なる劣化にして、惨憺たる劣化の相乗効果。これならば曲なり歌なりどちらか一方で貫いたほうが格段に良い。それなのに始めてしまったからには止められず、彼女は今も未練がましく歌い続けている。
「諦めが肝心だろが」
 ぼそりと、険強くニトロが言う。
 その声は上には聞こえない。聞こえたのは芍薬とパトネトで、パトネトは足をぱたぱたさせて成り行きを見守っている。
 やがて、ようやく、それが来た。
 すらりと伸びた左の足――爪の一本一本、指の間までも玉のように磨かれた素足が、ベランダの上端から滑らかに、そして優雅に現れる。
 つま先、甲、踵と足首、アキレス腱からふくらはぎにかける曲線――ようやく飛び跳ねた直後のように折り畳まれた右足が現れ、突き出されたその右膝の上でミニスカートもかくやという際どさの白いスカートが……いや、違う、どうやら彼女の体には一反の白布が巻きつけられているらしい。ニトロの視界に飛び込んできたそのスカートは、スカートの様に巻かれた白布であり、布はそのまま彼女の体に巻きつけられるようにして一つの衣を形作っていた。
 衣は、『劣り姫の変』における『女神像』のものとよく似ていた。
 ただ、全体的に、露出はそう多くないのにどこか扇情的である。
 スカートはミニもかくやとばかりにアンダーラインが際どいわりに、上はへその下までゆったりと覆っている。一方引き締まりながらも滑らかな腹部は露となり、形のよいへそのくぼみがエロチックな陰影を生んでいる。布は背部を回って胸に至り、胸は隠されてはいるが布の巻きつきが緩く、見る者に、もし彼女が激しく動けばすぐに乳房がちらつくのではないかと予感させる。そうして最後に、一反の布の両端が彼女の両肩に巻き掛けられただけの形であることを悟ると、見る者は、もし彼女が激しく動けば布はすぐにでも解けて一気に彼女の裸体が露になるのではと非常に期待させられる
「アーハァアー〜ア〜アーー♪!」
 ここにきて、歌声が元気になっていた。
 今や、ニトロの眼前には金髪の『天使』がいた。
 白い衣を身にまとい、まるで天に向かって歌うように両腕を差し上げ、背にはそこらのホームセンターででも買ってきたかのような粗末な翼を生やし、枝毛どころかセットもままならずに乱れっぱなしの安っぽい仮装用カツラをかぶった天使バカがいた。
「ア〜アーーー!♪」
 バカはここが最大の見せ場とばかりに――もはや曲など知ったことか!――プロのオペラ歌手も顔負けのソプラノを披露している。
 そして彼女バカの姿を見たニトロは、考えるまでもなくその『元ネタ』を察していた。
「随分とまた雑な『クラウネ』だなオイ」
 すると、瞬間、
「ハーーーーーン!♪!」
 天使が瞳を輝かせて体を反らし――ああ、何の説明がなくとも意図を理解してもらえるこの大いなる悦び!――声を高らかに奏でた。
 差し出されていた両腕はまた一段と天に掲げられ、その勢いで彼女の体が横に、緩慢にくるんくるんと回転を始める。
 よくよく見れば、天使はワイヤーで吊られていた。
 夜空をバックにしていたため見え辛かったが、一度認識すれば目視も容易なワイヤーがニトロの目に映る。それも雑といえば雑だった。普段の彼女ならもっと材料を吟味するはずだ。完全に歌声に潰されたBGMも未だに続いている。が、流石にそろそろ潮時だ。息の続く限り声を伸ばしていた彼女が、やおらくるんくるんと回転したまま片手で白布――よく見ればシーツを裂いて作ったものらしい――が作る懐をまさぐる、と、次第に音量を下げて曲が止まった。どうやら携帯音楽プレイヤーを使っていたらしい。メロディの喪失の後も美しいソプラノは続いており、やがて、それもため息が出るような余韻を残して空へと消える。
 ニトロは、色々言いたいことをひとまず飲み込み、言った。

→1-c04へ
←1-c02へ

メニューへ