「え? どうせなら会っていったらどうだ? お祝いの言葉一つでも」
ニトロの、そのほとんど反射的なセリフを聞いたハラキリは片眉を上げて見せ、
「いいえ、弟君は拙者のことを嫌っていますから」
ニトロは否定を返そうとして開きかけた口を、しかし躊躇いがちに閉じた。
脳裏に蘇るのは、ルッドランで開かれたミリュウの成人祝いのパーティーに行った時のこと。あの時、ニトロも確かにパトネトのハラキリに対する“硬化”を感じていた。元より『他者』が近くにいる際には口を閉じて目をそむけ、そうして手を繋ぐなり肩車なり直接こちらの身に触れて絶対に離れようとしないパティではある。が、ハラキリと自分が話している時、ハラキリが近くにいる時、その時の彼には、どこか他の『他者』に対するものとも微妙に違うものがあった。
それでも不本意そうに押し黙るニトロを見て、ハラキリは目を細め、続けた。
「彼が懐いているのはニトロ君だけです。あちらも今日は“ニトロ君と二人”と思っているでしょうから、そこに拙者が顔を出しては折角のお祝いの日に影が差してしまう」
「……重度の人見知り、か」
ニトロの言葉は――それでもパトネトがハラキリを避けるのは『嫌っている』のではなく『人見知りのせい』と主張するその言葉は、しかし、むしろニトロ自身を納得させるように発せられていた。
ハラキリは、そのため胸にある異論は開陳しないことにし、彼の主張を受ける形で言った。
「最近の君といる姿からはあまりそう思えませんけどね。それに――お姫さんが言うにはこの二ヶ月間だけでも本当に驚くほど変わったそうですから、急ぐこともないでしょう、拙者は美味しい実がたっぷり熟してから“お近づき”に立候補させていただきますよ」
そのハラキリらしい物言いに、ニトロは苦笑を刻み、
「ひょっといたらそういうところを感づかれてるのかもな」
「弟君も鋭そうですからねぇ」
他人事のようにそう言ったハラキリは、テレビモニターのリモコンを手に取り操作した。
音声はフューチャーミュー放送局から流れてくるバラード曲のまま、画面が横に二分割される。左はニトロの部屋のベランダに取り付けてあるカメラの映像であり、右はマンション共有玄関の監視カメラのものである。前者には、
ベランダ側――つまりマンション私有地はともかく、道路にはたむろする人影が数十も確認される。
ハラキリは一呼吸の内に映像を元の放送局のものに戻した。ピアノを弾き語る女性がモニターに現れる。
「じゃあ、よろしくな」
ニトロが、言った。
ハラキリはうなずいた。
今日、ハラキリがニトロに頼まれた依頼は二つある。
一つは買出し。
もう一つは、パトネトが乗ってくる王家専用車に『ニトロ・ポルカトのふりをして乗り、去っていくこと』――そうして“ここにニトロとパトネトはいない”という煙幕を張ること。
「それにしても、ここら辺は本当に賑やかになりましたねえ」
「交通渋滞とかも起きてるから、引越しを真剣に検討してるよ」
「近所から苦情も?」
「マンションの皆さんからはないな。外は、まだ直接言われたことはないけどね」
「それなら居座ればいいでしょう。君の責任ではないし、ここは条件がいいんですから」
「そうは言っても程度問題さ」
言いながらニトロは棚にしまっていた包みを取り、それをハラキリに差し出した。
「これは?」
「ヴァーチ豚のカツサンド」
「ヴァーチ豚?」
先ほどの話題でも出てきたが、アデムメデス三大豚の一つだ。ご多分に漏れず最高級。飼育数が限られているため、王都でも手に入れにくい人気ブランド。
「昨日、父さんに、父さんの馴染みの肉屋で買ってきてもらったんだ。まあ、これはついでだよ」
そうは言うものの、ハラキリには親友の意図が分かっていた。自分は本日の報酬に対して、依頼主に『ではこれを王子様へのプレゼントに代えましょう』と言っていた。が、だからといって言われるままに無報酬というのは彼の気分が悪いのだ。
「では、ありがたくいただきます。とても美味しそうだ」
ハラキリは笑み、手を伸ばした。
親友に屈託のない――こういう時は同級生だと素直に思える――笑顔を浮かべてお礼を受け取ってもらえたニトロは、
「今日は、特別腕によりをかけてるからね」
と、自分も屈託なく笑顔を浮かべてそう言った。
「上ニ着イタヨ」
芍薬が屋上の飛行車用発着場に
部屋の窓には特殊フィルムが張られていて、それは赤外線カメラなどの盗撮を防止する。レースカーテンは外からの光は素通りさせるが、内側からの光は乱反射させる繊維で出来ている。双方共にセキュリティ用品であり、ニトロが出かける際には必ずレースカーテンを閉めていた。
ニトロはうなずき、ハラキリと玄関に向かった。
11階建ての7階角部屋にあるニトロの部屋の前、共用部分となっている外廊下には、彼の部屋のレースカーテンと同じような機能を有する風雨避けを兼ねた目隠しがある。それには蓄光素材も用いられ、夜には廊下の補助照明ともなるのだが、ちょうどそのお陰で住人は外出の有無を外からは確認されない。もちろん廊下には監視カメラがあり、保安上の問題もない。ニトロが住居を選ぶ際に気に入ったポイントの一つだった。
その外廊下を、ニトロはハラキリと、ちょうどマンションの中央に設置されているエレベーターへと歩く。目隠し越しに公道を見れば、先ほど部屋のモニターで見たよりも多くの人間が蠢いていた。王家専用の飛行車の到着を受けて、皆、明らかに浮き足立っている。
エレベーターホールに着くと、首尾よく一基が9階にいた。それが降りてくると、通勤時間中にも関わらず、幸いにも無人であった。
ハラキリが乗り込む。
「またな」
「ええ、それではまた」
ニトロに見送られ、ハラキリはそのまま地下駐車場へ下りていった。屋上の発着場から乗用車用エレベーターで下されてくる飛行車に、そこで乗り込むのだ。
「――さて」
ハラキリを見送ったニトロは、足早に廊下を戻った。部屋のすぐ側に非常階段の重い扉がある。一息に扉を開け、階段を駆け下りていく。いくら通勤時間とあっても薄暗い非常階段を使用する者はいない。階段を使うにしても、エレベーターホールに隣接する階段を使う。順調に誰とも会わずに地下に辿り着いたニトロは、地下駐車場への扉をゆっくりと押し開けた。
扉から少し離れた所に、二つの人影があった。
子どもと王軍の勤務服を着た男――パトネトと、彼のオリジナルA.I.フレアの操縦するアンドロイドである。
厚い扉の向こうから現れたニトロを見て取るや、不安げにうつむいていたパトネトの顔がぱっと輝いた。
その時、ニトロは唇の前で人差し指を立てた。
今にも歓声を上げそうだったパトネトが口に手を当てて声を止め、それから足早にこちらへ向かってくる。左胸にロゴとライオンのシルエットがプリントされた浅青のシャツと濃色デニムの七分丈パンツに緑基調のスニーカー。背負うナップザックを揺らす王子は『人見知り』と言うには不似合いな笑顔を浮かべている。
「ニトロ君っ、おはよう」
地下駐車場に響かぬよう小声で言いながら飛びついてくるパトネトを抱きとめ、ニトロは笑顔を返した。
「おはよう、パティ」
と、そこで、はたと何かを思い出したかのようにパトネトは慌ててニトロから離れた。
「?」
ニトロが疑問に思っていると、パトネトはきちんと背筋を正してぺこりと頭を下げる。
「おまねきいただき、ありがとうございます。お世話になります」
ニトロはパトネトの、姉達と同じ黒紫色の髪に手を置いた。
「いらっしゃい。楽しんでいってくれると嬉しいな」
ニトロに撫でられて、嬉しそうに、面映そうにパトネトが目を細める。ニトロは彼に笑みを送り、それから男性型アンドロイドに目をやった。
「私ハココデ失礼致シマス」
「うん、お疲れ様」
フレアは一礼するや踵を返して去っていった。既にハラキリはパトネトが乗ってきた車に乗り込んでいるだろう。このまま手筈通り、フレアはハラキリと共に以前訪れた副王都の市営動物園に向かうのだ。
と、遠くを車が一台、続けて近くを二台が続けて通り過ぎた。いずれにも誰も乗っていない。地下駐車場のエレベーター前へと、マスターのためにA.I.が操縦し運んでいるからだ。朝の忙しさを傍らに、ニトロはパトネトへ目を落とし、
「じゃあ、行こう」
「うん!」
パトネトが右手を差し出してくる。
ニトロはパトネトと手を繋ぎ――その時、パトネトがぎょっとしたようにニトロに身を寄せた。ニトロが何かと思えば、すぐ先の角を曲がって姿を現したばかりの女性が一人、フルフェイスヘルメットを小脇にこちらへと歩いてきていた。自分が気づくより先に感づくのは『人見知り』の成せる業なのだろうか。そんなことをニトロが思う傍ら、パトネトはその女性に対して陰に入るようニトロの後ろに回り、年上の男性のズボンを固く握り締める。
一方で、ニトロには全く警戒心がなかった。彼は女性の姿を認めた瞬間に警戒心を鎮めていたのだ。
その女性は、同じ7階の住人だった。警察のキャリアでもある。日頃から仲良くさせてもらっているご近所さんはニトロに微笑みを向けていた。彼女はニトロの影にある小さな人影には気がつかぬ振りをして、非常階段に程近い場所にある自動二輪駐輪場に辿り着くとすぐに大型バイクを引っ張り出す。そしてニトロが小さく手を挙げたのをバックミラーに写し、ヘルメットを被るついでに小さく手を挙げて彼に応え、エンジンをかけるや否やアクセルを回して颯爽と去っていった。
ニトロは近くの車のエンジンが遠隔操作で起動させられる音を聞きながら、非常階段の扉を開いた。ようやく少し離れたパトネトを先に入れ、それから自分も身を滑り込ませる。
「上れる?」
7階までの道のりを前に、ニトロはパトネトに聞いた。
「うん」
二人だけとなったパトネトは頬を上気させてうなずく。
こちらの手を再び握ってきて、早速一段上がるパトネトを追いながらニトロは訊いた。
「ご飯は食べてきた?」
パトネトは首を振った。
「それじゃあ、朝は卵とハムのサンドイッチでいいかな? それから、ドロシーズサークルで飲んだオレンジジュースがあったでしょ」
「ヴオルタ・オレンジ?」
「そう。『隊長』から材料をもらってきたから、それを作ろうと思うんだけど」
ニトロの提案に、パトネトは足を止めて彼を見上げ、目を輝かせてうなずいた。そしてまた階段を上がり出し、
「ニトロ君」
「ん?」
「もう全部作り終わった?」
「まだだよ」
「あのね、僕も作ってみたい」
一段一段パトネトと階段を上りながら、ニトロは微笑んだ。
「それじゃあ、ケーキを一緒に作ろうか」