背後でドアの閉まる音がする。
ほぼ正方形の部屋。パトネトの好みのために狭く作られた部屋には、ベッドだけが置かれている。南には明り取りの小さな窓があり、壁の一方には部屋とほぼ同床面積のウォークインクローゼットがあり、その反対の壁には大きな扉がある。扉の先は工作室だ。そちらはこの部屋の五倍の広さがあり、バスルームとトイレもそちらに備え付けられている。
ティディアは、てっきりパトネトは工作室にいると思っていた。
だが、弟は部屋の真ん中に置かれた――これも彼の好みだ――大きなベッドの上にいた。弟は膝立ちとなり、膝の前には服が置かれている。見ればそれはウサギのプリント(それも出来の悪いデフォルメのプリント)がされたパジャマだった。ニトロに動物園に連れて行ってもらった際に買ってきたものである。そのパジャマの横には下着とお気に入りのバスタオルがあった。さらに横にはナップザックがあり、弟は何やら楽しげにナップザックに物を――今はモバイルコンピューターを――詰め込んでいる。
鑑みるに、外泊セット、そのような印象を受けるが……
「パティ?」
こちらを振り返ることなく黙々と、パジャマを丁寧に小さく畳んでザックに詰めているパトネトに、ティディアは声をかけた。
「なあに?」
パトネトはやはり振り返ることなく応えてくる。だが、それはどうでもいい。弟が作業に夢中になっている時はいつもこんなものだ。むしろ応答があるだけ良い。
ティディアは躊躇いがちに、そして疑問に眉をひそめながら、
「……ニトロね、やっぱりパーティーには来られないって」
「うん、いいよ」
パトネトの答えは至極あっさりとしたものだった。弟はザックからパジャマとモバイルを取り出している。詰める順番を変えることにしたらしい。最後に出てきたのは外出用の私服の上下、靴下もあった。
それを見て、ティディアは――正解を解っていながらも――問うた。
「何の準備をしているの?」
下着を畳んでザックに詰めながらパトネトは言う。
「お泊まりの準備だよ」
――お泊まり!
正解を解っていながらも、いざ正解を聞いた瞬間、ティディアは予想だにしない衝撃に襲われていた。
(――お泊まり!?)
脳が痺れる。
ティディアは、正解を解っていながらも、再び問うた。
「いつ、どこにお泊まりするの?」
それはあまりに愚かな質問であろう。もちろん、それもティディアは解っていた。しかし準備に夢中なパトネトは何の疑問も抱かずに答える。
「明日、ニトロ君のおうち。ニトロ君がせっかくだから泊まっていきなって」
「――!!」
ティディアの脳天から尾骨にかけて何だかえっらい電撃が突き抜ける。
ニトロの家に、お泊まり!!
そのあまりに甘美な響きが彼女の心臓を鷲掴みにする。
だが、彼女は、つい十数秒前、弟のこの部屋に入るまで“その概念”を忘れていた。いや、忘れていたというのは少々違う。そもそも彼女は、その概念に考えを及ばせることができていなかったのである。
何故ならば。
ニトロの家に泊まる……もし、自分がそうしたいと思ったら? そうしたいと言ったら? ニトロは微笑んで言うだろう「今すぐ脳外科に行こう」――私がニトロの家にお泊まり、などとはありえないことだ。だから全く考えていなかった。その可能性すら現時点では論外。その可能性自体が脳裏の奥にある引き出しの奥の隅に開けられた深い穴の奥のさらに深淵へと放り込まれて存在を限りなく消失していたのである。
だが、しかし、ニトロの家にお泊まり!? あまつさえ彼が「泊まりに来るか?」と誘ってくれる!?
嗚呼……なんと……なんという素晴らしい『夢』だろう!!
「――……」
ティディアは、気がつけば己の心音を聞いていた。
ほんの刹那の間に、彼に、あの可愛らしい不機嫌を見せた年下の男性に、そう、あのニトロから「泊まりに来るか?」なんて聞かれる事を白昼夢に見て! 彼女は頭がくらくらするくらいの興奮を覚えていた。体の芯が熱を持ち、全身の皮膚がほのかに上気し、心臓は頭の中心に移動してきたかのようだ。耳の裏側から鼓動が聞こえる。口を開けば心音が鳴り響きそうにも思える。
……だが。
彼女の興奮は、長くは続かなかった。
むしろ、興奮の強度が激しいばかりに、反面、ほんの刹那の白昼夢から戻ってきた彼女は冷徹な『現実』を味わうこととなったのである。
――そう。ありえない。
「もしかして」
ティディアは――そうだ、ありえないことだ――理性により急速に体が冷え、萎んでいく心音がやがて聞こえなくなるのをそのままに、
「一日早くパーティーをしてもらえるの?」
「うん。遅くまでたくさん遊ぶんだ。ご飯もいっぱい作ってくれるって。夜はね、エビがいっぱいのマカロニグラタンなんだよ! ニトロ君、僕のだいすきなの覚えててくれたんだ! ケーキも手作りなんだって。イチゴがいっぱいってお願いしたら、わかったって言ってくれたんだ」
パトネトは嬉しそうに言っている。
弟の喜びが、ティディアの痺れていた脳を先とは逆の意味で痺れさせる。
彼女は微かに眉を垂れ、
「お姉ちゃん、そんな話は聞いてないわ」
「だって今日約束したんだもん」
「……今日?」
「うん。夕方電話がかかってきて、誕生日のお祝いだけど、って」
ティディアは歯噛んだ。ということは、漫才の練習前には既に約束されていたということだ。
「お姉ちゃんも、行きたいな」
「だいじなお仕事があるから誘っちゃダメだよって、ニトロ君は言ってたよ?」
「……」
ちくしょう、と、ティディアは内心うめいた。
「そうね、言ってみただけよ」
確かに明日は重要な仕事がある。朝一でクロノウォレスの外相と星間通信会談をし、それから来月の王・王妃の外遊に随従する者達と会議をし、昼には西大陸へ飛んで、あちらで妹がサインを代行した案件に関連する会議に参加する。それらを――特に後者を――クレイジー・プリンセスの面目躍如とばかりにぶっ千切ることは可能ではある。が、もちろんそれをすればニトロは怒るだろう。その上、パトネトを介して釘を刺されてなお、ということになれば怒りの上にひどい侮蔑まで買ってしまう。
(裏で動いていたのは私じゃなくて、あっちだったってことね……)
もしやニトロのあの照れ臭さや、両親と会うことに対する抵抗感はこれを隠すための演技だったのだろうか。――ふと、ティディアはそんなことを考えた。そして、それは嫌だな、とすぐに思う。しかし思ってまたすぐに彼女は考えを改めた。
ニトロは、パトネトに口止めをしていない。
ということは進んでこの話題を出さなかっただけで、元より隠すつもりもなかったのだろう。とすれば、あの照れ臭さと抵抗感は彼の本心だ。そうであれば、やはり嬉しい。
(嬉しいけれど……!)
かといってニトロに“してやられた感”は拭えない。というか、これまでその件を察することも出来ずに隠し通されていた以上、完全にしてやられた。用意周到な罠というわけでもない小さな企みではあるが、それでも面白くない。そして何より面白くないのは――
「いいな」
ふいに口をついた己の小さな嫉妬、意図せずこぼれたその声にティディアは自分自身でひどく驚いた。
慌ててパトネトを見る。
弟にも、聞かれていた。
弟は大きくうなずいていた。
「うん、いいでしょ!」
パトネトの応えはとても無邪気だった。その目は荷物を詰め込み終え、きちんと閉じたナップザックに向けられている。ちゃんと自分一人で用意したことに満足の鼻息を鳴らして、明日これを背負ってニトロの家に行くのが楽しみで仕方がない――弟の赤らんだ頬はそう語っている。
「うん、いいわね」
ティディアは、弟の無邪気さに救われた気がした。
(もしかしたら)
ミリュウも、ずっとこんな気持ちを味わっていたのだろうか。
そう思い至れば、ずっと妹を支えてくれていた弟がこんなご褒美を受け取るのは至極相応のことだ。この子を羨ましく思ってしまうのはどうしようもないが、それでもティディアは調子を取り戻し、微笑みを浮かべ、
「楽しんでいらっしゃい」
――と、パトネトがそこで初めてティディアへと振り返った。
じっと姉を見つめ、やおら何か納得したように、彼はにこりと微笑む。
「うん!」
うなずく弟にはつい半年前からは信じられない明るさと力強さがある。
そこに『彼』の良い影響を見て取ったティディアは微笑みを深めた。
彼女は弟に歩み寄り、そして、その額に口づけをした。
ところで――パトネトがニトロの家に『お泊まり』するのは良いとしても。
弟の部屋を出たティディアは、全速力で自室に戻った。
乱暴にドアを開け、部屋に飛び込む。中には既にヴィタがいて、彼女はドリンク専用のワゴンの上に置いたクリスタル製のティーポットへフレッシュハーブを入れているところだった。
「お帰りなさ―」
と、言いかけたところで、主人の形相に気づいたヴィタが珍しくぎょっとする。普段は藍銀色の髪に埋もれるようにして隠してあるイヌの耳がピンと立ち上がってもいた。
「
「――着信拒否サレテイマス」
先手を打たれていた! 芍薬ちゃんだな!? ティディアは執事に振り返り、
「ヴィタ!」
執事は命じられる寸前から用意を始めていた。私用の携帯電話を操作し、一息置き、
「同じく拒否されています」
「〜〜〜〜〜ッ!」
ティディアは拳を握り締め、地団太を踏んだ。
「ッっもーーー! 文句くらい言わせなさいよ!」
一際強くダンと床を踏みしめ、ティディアは叫んだ。
「次会った時には絶対すっごいセクハラさせてやるんだから!」
「……」
「……」
「…………」
ティディアは叫んだ姿勢のまま動きを止めていたが……やがて、完璧ツッコミ待ちのセリフにいつまでたっても反応がないために、しょんぼりとうなだれた。
「――ヴィタ?」
うなだれたまま瞳だけを向けられたヴィタは、主人の苛立ちの原因は解らぬまでも“想い人からいけずをされた”状況であることは把握し、その上で、ゆっくりと首を左右に振った。
ティディアはヴィタから視線を外し、
「p?」
「録音ヲ送信シテオキマショウカ」
「あ、やめて、それはダメ」
「カシコマリマシタ」
少々淡白な部屋付きA.I.の反応は、実にpらしいものである。ティディアは小さく浮かべた苦笑を契機に気を取り直し、一度うんと背筋を伸ばし――しかし、再びうなだれた。
「……ちぇー」
頭髪を剃り上げたおよそ一ヶ月半前に比べれば随分と髪も伸び、そろそろベリーショートといった風情の形の良い頭が寂しそうに揺れている。もし足元に小石でもあれば、彼女は間違いなくそれを蹴飛ばしていたことだろう。
「目が醒めるものではなく、体が温まるものに変えましょう」
まるきり初恋に翻弄される少女……とまでは言わないが、それでも完全に恋の病に罹りきっている主人の様子にクスクスと笑いながらヴィタが言う。
「そうね……」
ティディアはため息をつき、腰に両手を当てて今度こそ背筋を伸ばし、
「それを飲んだら眠るわ。資料は起きた時に」
後半はpに向けられたものだった。A.I.から了解を受け取ったティディアは、もう一度息をついて心持ち肩を落とす。
「起床時間がずれるけど、ヴィタはいつも通りのスケジュールでいいから」
「かしこまりました」
ヴィタはポットからフレッシュハーブを取り除くと、ワゴンの中からティーキャニスターを取り出した。ラベルには『ポルカトブレンド・1』と記されている。ヴィタが私的に交流のあるニトロの母から教わったものだ。
「せめて良い夢をご覧になれるといいですね」
ティースプーンで葉を量り入れながらヴィタが言う。
ティディアはポットに熱湯を注ぐ執事の洗練された所作を眺めながら、やおらニヒルに笑った。
「良い夢なら、もうお腹一杯よ」