「ミリュウ!」
部屋に飛び込んできた声に、ミリュウはキーを打つ指を止めた。
振り返ると、ルッド・ヒューラン邸の薄い扉を壊れんばかりに開けて入ってきた姉がいる。
「ミリュウはどっちがいいと思う!?」
ティディアは鼻息も荒くその両手を示した。
ミリュウは目を丸くした。
簡単な部屋着姿の姉の片手にはモヒカンタイプのカツラがあり、もう一方には孔雀の羽に飾られたカツラがある。
「どっちが見た目、面白い!?」
薄く紅を引いた唇を弓なりにして姉は問う。少々瞳孔が開き気味だった。姉はここに来た時からずっとそわそわしていたが、それはもちろん一ヶ月ぶりに想い人とプライベートで触れ合うことが楽しみで仕方がないためだ。楽しみで仕方がなさすぎて、その時が間近となった今、その思いが羽目を外し始めているのだろう。きっと姉の頭の中には『ボケ』が詰まっている。ボケ倒す気も満々であろう。ボケ倒しすぎて今日の日をも倒してしまうかもしれない。
そういえば、と妹は思う。
あの心の世界で見た、ニトロ・ポルカトのティディアへの拒絶の歴史。無論それは歴史の全てではなく、印象深いものをピックアップしたダイジェストではあったが、中でもシゼモの一件は強烈な『裏切り』として義兄の記憶に刻まれていた。そしてミリュウは、その『裏切り』をした姉の顔が、直前、あまりの喜びに満ちていたことを知っていた。
(……なるほど)
今、あの件に非常に似た状態になっている気がする。可能ならば可能な限り姉の思う通りに行わせてやりたいが、明らかに酷く裏目に出るであろう事を放置するのは違うだろう。もちろん本来自制心の強い姉が途中で我に返る可能性は高いが、ここは万全を期した方がいい。
――何故なら、
(恋の病の諸症状、盲目――なのですね)
そう思えば、これまで本当に恐ろしかったクレイジー・プリンセスが、恋に浮き足立つ一人の女として可愛らしくて堪らなくなる。
妹は、むふーと鼻息を吹いて答えを待つ姉に微笑みかけ、
「どちらも素敵ですが、おやめください」
ティディアの表情が、明らかに曇った。伸び始めた極短い毛髪の下に不満が募る。
ミリュウはもう一度言った。
「お控えください、お姉様」
「でも……ニトロのツッコミが……」
物欲しそうな調子でティディアは言う。ミリュウは首を小さく左右に振り、
「ボケを最優先でお狙いになるのは懸命ではありません」
「だって嬉しいのよ? ニトロに一ヶ月ぶりにプライベート・ツッコミをもらえる、やっと……やっと! 待ちに待ったこの日なのよ!?」
「一ヶ月ぶりにプライベートで会うお姉様が何かをしようとしてくることは、ニトロさんも予想しているはずです。特に出オチは予想されているでしょう。冷笑されてしまいますよ?」
「実はそっちも楽しみ」
「お気持ちは解りますが、ここはお忍びください」
「えー」
未練がましく、ミリュウを非難するように口を尖らせる。しかしミリュウは言う。
「カツラは無しか、被るなら自毛のものになさってください。急がなくとも、ニトロさんはそのうちツッコンでくださいます。あの方は『ニトロ・ザ・ツッコミ』ですし、お姉様はそんなことをせずとも、いつどこでだっておボケになられるのですから」
「あら、ミリュウったら分かっているじゃない」
感心したようにティディアは言い、そして眉をひそめた。
「というか出オチなんていつ教えたっけ?」
「勉強いたしました。さあ、もうそろそろご到着される時間なのですから、しっかり用意を済ませてきてください。
……ちゃんと、スキンシップできるように取り計らいますから」
ミリュウがにこりと笑って言うと、ティディアは少し驚いたような顔をして、
「ちょっと直に見ない間に、随分頼もしくなったのね」
そうして浮かべられた姉の笑顔に、妹は目尻を下げる。その誉め言葉は、成人の誕生日――日は少しずれたけど、セイラを初めルッド・ヒューラン家が催してくれたささやかなお祝いのパーティーにおけるプレゼントとして最高のものであった。
と、ミリュウは窓の外に変わりがあるのに気づき、そちらを見、
「大変」
彼女はティディアに振り向いた。
するとティディアは窓の外、この二階からちょうど見下ろせる乗馬場の柵沿いの道。傍らに淑やかなキモノを着た芍薬を従え、パトネトを肩車して歩き、隣の親友と何やら言葉を交わしている『彼』を見つめて動きを止めていた。
「お姉様!」
ミリュウは慌てて姉の肩を押した。
「さ、お早く。ヴィタ! 聞こえるわね! カツラは無し! ニトロさんがもういらっしゃいました!」
隣の部屋からエプロン姿の――中庭のパーティー会場でバーベキューの肉を自ら焼いたそばから食べるつもりなのだ――藍銀色の麗人が出てくる。
「お引取りしましょう」
「え、あ、わ!」
門前で待ち構えていたセイラが彼らを出迎えに行っている。その出迎えを迎えるために彼らは立ち止まる。その間、ずっと想い人に見惚れていたティディアがヴィタに無理矢理担がれ連れていかれる。
それを見るミリュウは目を細め、
「本日の主役は私ですよ、お姉様」
「分かった! ちょっと出過ぎた真似をする!」
妹の意図を――流石はお姉様だ――即座に掴んで返事をした直後、ティディアは隣の部屋に連れ込まれていった。
「ふふ」
これで一つ、ツッコミどころの仕込みはできた。
ミリュウは小さな満足感を覚えながら息を吸い、
「さて」
と、つぶやき、彼女は気を取り直した。姉は早着替えを得意とするから、こちらももたもたしているわけにはいかない。
ミリュウは部屋に戻ると鏡の前に立ち、いそいそとペンダントをつけた。
それは――細やかな鎖につながれるオープンハート型のペンダントトップ。心はただ開かれているだけでなく、その内に三日月を抱いている。そしてその三日月もまた、一粒のサファイアを抱いている。白金製のハートとクレセントが描く曲線は素晴らしく上品であり、母に抱かれた子のようにはにかみ煌めく宝石は可愛らしい。――去年の誕生日に、お姉様がお義兄様と一緒に選んで贈ってくれた大切な宝物だ。
「よし」
と、うなずき、身だしなみの最終チェックをする。青空色のルッドラン地方伝統のドレスに乱れはなく、髪はセイラがセットしてくれたまま整い、化粧にも問題なし。最後に純白の大振りな花飾りのついた帽子を被り、少し角度を整える。
ミリュウはもう一度うなずき、部屋を出ようとして――
「あ、いけない」
と、出しっぱなしだった
「……最後のあたりは、今はまだ絶対内緒ね」
微笑み、まとめたうちのどの点を挨拶に組み込むかを決めてデータを完全消去する。
それから画面も消して、彼女は部屋を出た。隣の部屋の扉をノックし、
「お姉様、準備はできましたか?」
「あと十秒!」
きっかり十秒後、若草色のルッドラン地方伝統のドレスに身を包んだティディアが部屋から出てきた。姉の被るお揃いの帽子には薄黄色の小振りな花飾りがあり、胸元にはミリュウのものとペアになる、ルビーを抱いたペンダントが輝いている。
「お似合いです」
「ミリュウこそ」
そして姉妹は顔を寄せて、笑いあう。
窓の外には残雪に飾られた山並みと、白い浮雲の流れる青空が広がっていた。