これほどニトロの目の前から逃げ出したいと思ったことは、かつてティディアにはなかった。彼と目も合わせたくない、合わせればきっと泣き出してしまう。彼と口も利きたくない、これ以上はさっき以上に馬鹿なことを言い出してしまう。
 ニトロがため息をつく。
 その息が何トンもの重さを持っているようにティディアには感じられる。
「ちゃんと、ミリュウとじっくり話し合えよ。全部告白しろとは言わないけど、これまでのこと、これからのこと、ミリュウの中では区切りがついているだろうけど、お前ともきっちり決着をつけないと駄目だから」
「うん」
 ティディアにはうなずくことしかできない。
「パトネト様にはもうちょっとバランスよく物を教えないと、本当にマッドサイエンティスト街道まっしぐらだ」
「うん」
「それから、これから一ヶ月、絶対に俺に話しかけるな。触るな。会いに来るな。電話もメールもしてくるな」
 ティディアは顔を上げた。
 ニトロと――恐ろしいほどの怒りを湛えた彼の瞳とばちりと目が合い、心が震え、しかし、懸命に耐える。
「仕事は?」
 声はかすれてしまっていた。我ながら情けない縋り文句だとも思う。それでもティディアはその点に縋るしかなかった。
「極めてビジネスライクに付き合うさ」
 切り返しのセリフとしては範例的であるが、ティディアからすればそれは鋭いナイフを顎の下から刺し込まれるようなものであった。つまり、ニトロは、暗に仕事場でも仕事以外の会話や接触を禁じてきている。もしそれを破れば今後絶対に許さないという意気も込められている。
「ああ、一つ例外。マードール殿下との会談には俺も行く。その時ばかりは仲良くしようか」
「――仲良く、なったの? マードールと」
「お陰様でな」
「そう……」
 それからしばらく続いた沈黙の後、ティディアはようやく口を開いた。
「でも、随分厳しいのね。それが私への罰?」
「随分優しいものだと思うぞ? 何なら優しく抱きとめて一緒にシャワーを浴びて激しいセックスでもしてやろうか? 意味もなく」
「……ニトロも、酷い」
「正直、できれば今後顔も見たくないような相手にはね」
 ティディアはぐっと歯を噛み締め、流石に言い返した。
「愛されているって知って、それでその態度はいくらなんでもあんまりじゃない!?」
「愛されてると知ったからって掌返して好意的になる? そんな軽いものをお前はお望みか?」
 ティディアはようやっとの反撃も軽く一言で潰されてしまって眼に涙が滲むのを止められなかった。
「お前が妹に対して、現状で取れる最善の選択をしたっていうことは、理解している。それしか取れなかったんだろうってことにも理解はできる。俺に丸投げしたのも、何の説明も無かったのも、妹を止めようとも弟を止めようとも全くしなかったことも、結果として、お前がそうしたからこそミリュウの絶望を減らすことに成功したんだと思う。俺は何も知らされてなかったからこそ『敵』を理解しようと努めることになったんだから。そうでなければ、ミリュウの心をほぐすことは、例え『悪魔』でも『同じ人』でもできなかったろうさ。
 ……だけど、理屈で解っても、お前のしたこと、してきたことは感情で許せない。やっぱりお前のしてきたことは俺が嫌いだと思うことばかりだ。例え過去の過ちだとしたとしても、その上で今回の件を考えればお前はあまりに身勝手だ。だからお前も、髪を剃るなんてことじゃなく、それはそれで思い切ったと思うけれど――ちゃんと痛い目を見るべきだと思うんだよ」
「……痛い目って……」
 ティディアは涙を流すことは辛うじて堪え――これで泣くのはあまりに情けない――言った。
「ニトロにそうされることが私の一番の痛手だって解って言っているのね」
「全部ね。解ってる。俺も身勝手にお前の心を利用して、卑怯な罰を与えている」
「……」
 ティディアは、やおら笑った。笑うしかなかった。
「そう言われると、何も言えないわ」
 何でだろうか、急に清々とした気分になり、言う。
「分かった。一ヶ月、我慢する。でも浮気しないでね?」
「浮気ってのは恋人か夫婦間で言うもんだ。
 ……まあ、でも。その単語が使えるように努力してみればいいよ」
「え?」
「こっちは全力でフるけどな」
「……ニトロ?」
「言ったろ、理屈では解ってるって。もし、お前が今回の手も打たずに妹を見殺しにしていたなら俺はお前を生涯嫌い続けただろうけど」
 ニトロはティディアを見つめていた。彼の瞳には既に怒りはない。ティディアが罰を受け入れた時点で清算したのだ。
 彼は息をつく。
「やり方はどうあれミリュウが守られてきたのは事実だし、例え表面的だったとしてもティディアが妹を大切に守ってきたのも事実だ。家族の間の感情とか関係性って複雑だろ? そこに他人がああだこうだ言えることは本当はないんだと思う。だから、俺は今、きっと出すぎた真似をしている」
「ニトロは、もう家族じゃない」
「妄言抜かすならもう一ヶ月サービスするぞー」
「うわ、ごめん! 今のなし!」
「……まったく」
 慌てふためいていたティディアは、ニトロの呆れ声に……ああ、何故だろう、例えようのない安堵感を与えられ、そしてじんわりと胸に広がる温かなものを感じていた。
 それなのに――
「……」
 当のニトロはこちらの気持ちなど意に介さないようにため息をついている。そして、
「何だかんだで、お前は『お姉ちゃん』だよ。立派とは言わないけど、面倒見のいいお姉ちゃんだ。なのに姉妹間のことで、当のミリュウを差し置いて俺がお前を生涯嫌うってのもおかしな話だろう?
 それに――」
「それに?」
「お前は俺も守ってくれていた。殿下に関する件、聞いたよ。……少しは、感謝しているんだ」
 ニトロは言い難そうに述べる。その感謝の中には少しの照れ臭さが滲んでいる。これまでこちらを真っ直ぐ射抜いてきていた瞳はかすかにそらされている。ぶっきらぼうに、けれど彼の真心を湛えて。
 ティディアの胸に広がっていた温かなものは彼女の心の奥底にまで浸潤し、魂までをも潤わせていた。
「ねえ、ニトロ」
 思わずというようなティディアの呼びかけにニトロが驚く。
「――何だよ」
「さっきまで手酷く痛めつけて、その後に優しい言葉。より惚れさせようとして、わざとそうしているの?」
「ンなしち面倒臭いこといちいちするか」
 ニトロに素直に返され、
「そう」
 ティディアは微笑んだ。
 本当に目の前の男性は、出会った頃とは比べ物にならないくらいに大きくなった。
 難問を抱えた妹を任せることができて、今や完全に国民の心にも偽りない実力と存在感を鮮烈に刻み込み、それだけでなくこの私をも手玉にとって、そして私を……簡単に感動させてくれる。
「ねえ、ニトロ」
「だから何だよ」
「愛しているわ」
 ニトロは、少し目を丸くしてティディアを見た。
 ティディアは、背を真っ直ぐ伸ばして、真摯にニトロを見つめていた。
「私は心から、あなたを愛している」
 繰り返し告げる彼女の頬には少しばかり紅が差していて、その顔は、美しい
「……お前は気づいてないみたいだけど」
 愛を告げてくるティディアを美しいと思ってしまったことに悔しさを感じ、それもあってニトロはことさら邪険に言った。
「今回の件でさらにでかい不利を背負ったんだからな?」
「? 何かしら」
「曲がりなりにも殺意込みで襲撃してきた妹。思い返せば寒気しかしない手段を講じてくれたマッドサイエンティストな弟」
 二つ指を折りながら言い、それからニトロはティディアを指差し、
「トドメに阿呆極まる大ッ嫌いなクソ女!――そんなのを妻に娶って準クレイジーな義妹義弟を作ろうなんてことになったら、誰より俺が一番クレイジーってことになるだろう?」
「あら、素敵じゃない」
 ティディアはあっさりと言い返した。
「それこそ理想の『ハッピーファミリー』よ」
「阿呆。その場合、皆に笑われる頭が超絶ハッピーなのは俺じゃないか。冗談じゃない」
 ニトロもさらりと言い返す。
 ティディアは微笑み、
「やっぱり素敵。掛け替えのない旦那様だわ」
「やっぱり俺とお前は基本的な価値観からして違うなあ。やめとけやめとけ、俺はお前とは合わないよ。結婚したとしても離婚まっしぐらだ」
「いいえ、私はニトロ以外には考えられないし、考えたくない。それにニトロに愛されたなら、離婚なんて絶対にないって確信している」
 ティディアは少し前屈みになり、ニトロを下から覗き込むようにして、
「だから、ニトロ。絶対に私を『愛している』って言わせてみせるから」
 ニトロは鼻で笑った。
「俺は手強いぞ、ティディア・フォン・アデムメデス・ロディアーナ。そこんところ頑固な上に、芍薬に守られている。つか、むしろこっちが絶対に諦めさせてやる」
 腕を組んで言う彼の隣で、マスターと同じく腕を組んで芍薬が胸を張る。
 一部始終に聞き耳を立てていたヴィタがくすくすと笑っている。
 ティディアの胸に万感の想いがこみ上げる。
 ああ、やっとスタートラインに立てた。立たせてくれた。妹が、ミリュウが!
「望むところよ、ニトロ・ポルカト」
 ティディアは薄く涙を浮かべ、お陰でこれからの一ヶ月がよりいっそう地獄だと思いつつ、それでも強気に言い放った。
「あなたも気づいていないみたいだけど、私をフるのは国を獲るより大変なんだから」

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