その声を聞いた瞬間、ニトロは、芍薬は、ミリュウは、パトネトは、フレアまでもが一斉に階段の方へ顔を向けた。
「二人とも、よくできました! ブ・ラーーーヴォー!」
それを聞き、そいつを見、ニトロは脳味噌が×の字に割れるかと思った。
そこにはにこやかに、これ以上ないほど上機嫌に満面の笑顔で藍銀色の髪の麗人を従えた――
「お姉様!?」
反射的に叫んだのはミリュウであった。
ニトロはミリュウの声を背に浴びながら、黒いイブニングドレスの裾を翻してやってくる宿敵の姿を眼にして唇を真一文字に結び、眉間に激しく皺を刻む。
「何故こちらに!」
立ち上がり、完全に素に――いつも通りのお姉様大好きっ
無理もない。彼女はあまりにも驚いていた。第一王位継承者は今はまだ宇宙にいるはずなのだ。
そう、王家専用星間航空機に乗っている限りは。
そこに思い至ったミリュウが目を見開き、その反応を見たティディアはほくそ笑み、それから一つ、息をついた。
「『何故』って? 決まっているじゃない」
ティディアは、目元に優しさを湛えて言った。
「妹が大変なことになっているんだから、どんな手を使っても駆けつけないわけにはいかないでしょう?」
ミリュウは息を飲んだ。その眼に涙がたまる。
「……」
その時、ミリュウの姿を肩越しに振り返り見ていたニトロは“それ”を見逃さなかった。
彼女は感激と感涙を面に表すと同時に、それ以上のものにはブレーキを掛けていた。彼女の目に、もう女神を見る依存的な輝きはない。そこにはただ、姉に想われていたことへの喜びだけがある。
そしてニトロは、堂々と歩を進めてくる元凶に向き直った時、妹の変化を見抜いたティディアが満面の笑みの奥に微笑を重ねたことも見取っていた。その姉の重ねた微笑には安堵も含まれている。彼女の心情が、ニトロに強く伝わってくる。
――が、
「『妹が大変なことになっているんだから』なんて他人事みたいに言えた身分じゃないだろう」
座したまま腕を組み険立った声を上げるニトロを見て、ティディアは笑顔の形を変えた。――得意気に。
「そうねー。でも当事者として考えた限りの最良の結果は得られたわ」
ニトロとすれ違いながら言い、そうしてニトロとミリュウの間で立ち止まり、当事者どころか諸問題の元凶たるティディアは『恋人』と妹を見比べ胸を張り、
「私の配役、大正解!」
「うっさいわド阿呆!」
ニトロは声を張り上げ立ち上がり、このクソバカ女を捻り飛ばしてやろうと一歩踏み出し――と、ふいにパトネトの、幼い子どもの人の怒りに怯えた顔を見て、思い留まった。
「……一から十まで、何もかも自分の思い通りみたいに言いやがって」
怒気を押し込めた言葉に、ティディアはふふんと鼻を鳴らす。
「概ねそんな感じよ?」
「腹が立つ奴だな本当に、お前は」
「事実だもの」
「事実なら、何でここまで問題を放置していやがった。妹の悩みにお前は気づいていただろう」
「そりゃもちろん。でも、ミリュウは王女よ?」
「そりゃそうだけども」
「私も王女様」
「知ってるわ!」
「私が『王女』なんてどうでもいいわよー、なんて言っても説得力あるわけないじゃない」
「お前の立場上はそうかもしれないけど『お前』に限って言えば説得力ありまくるだろうが」
「――ハッ!」
「ハッ! じゃねえんだッ、お前は!」
ニトロは戦慄き、怒鳴った。
「一体どこまでふざける気だ!」
「初めから一ミリたりとてふざけてないわよ。だって私は劇薬だもの」
「あ?」
「女神の言葉は、信徒には届かない。届いたとしても麻酔か麻薬になってしまうだけ。そんなことを初めから女神が知らないと思う?」
ニトロは口をつぐまされた。
「私が慰めても、結局それはその場凌ぎのこと。心を麻痺させて苦悩を感じさせないことができても苦悩が消えるわけじゃない。麻痺していても、麻痺していればこそ、苦悩に蝕まれた心は本人が気づかぬ間に急速に死んでいく」
「……だからって、お前な……」
「正直に言えば、もうちょっとゆっくり自立の道を示すつもりだったのよ」
「ああ?」
所々に本音のようなものを混ぜながら、しかしどこまでも傲慢に、露悪的に言うティディアの姿にニトロは苛立った。
ティディアは苛立つニトロを微笑んだまま見つめ、
「誤算だったわー。この私が特別な人を作っちゃうなんて、ね?」
「……」
ニトロは腕を組み、吐息をつき、
「それはまるで俺こそが真の諸悪の根源――て言われてる気がするんだが?」
「そうよぅ。あなたは悪い人、本当に、人の心を惑わす悪魔だわ」
「お前に悪認定されたらそれは悪魔じゃなくって悪魔も真っ青になって逃げ出す魔王だろうさ。だがそれはない。やっぱり断然お前が悪い」
「どこが?」
「どこが!?」
「具体的に、私が、悪かったのはどこ? 私はミリュウを真っ当に育ててきた。私はミリュウを守ってきた。私はミリュウに、私の与えられる最上のものを与えてきたわ。確かに『捌け口』を作っておけなかったのは失策ね。けれどそれは結果的なこと。近い将来にそれも用意するつもり――いいえ、必ず用意していた。そしてミリュウが幸せに感じられる人生を整え続けていった。さて、私のどこが悪い?」
「その傲慢な考え方と物言いじゃないか?」
「あら、ニトロにしては平凡なツッコミね」
ニトロは眼の険を増し、歯を剥いて言った。
「それじゃあ言い方を変えてやろうか。お前を悪だと言うのは価値の置き所の問題で、その善悪もきっとどこまでも曖昧なものなんだろうさ。確かにお前の言い分は正しさを持っているよ。ミリュウは基本真っ当な人間だ、お前は妹を守っていた、お前はお前がその時点で与えられる最上のものを与えていた――全てはお前のために」
「突き詰めれば人間は皆、自分のためにのみ動いているわね」
「その通り。極論を語ればそうなる。
だけど、お前は、酷い奴だ」
ティディアの笑顔が、少し、色褪せる。
「希代の王女、無敵の王女、覇王の再来、天才にして蠱惑の美女、クレイジー・プリンセス・ティディア様? 貴女様ほどのお方であれば、妹様をもっと別の形で幸せにすることも可能だったと存じますが、いかがか?」
ティディアは笑顔を消していく。
ニトロは言う。
「俺は人を育てたことがないし、王族でもないからこうやって偉そうに言えるんだろうがな。ミリュウを『悪ではないやり方』で押さえ込みながら『ミリュウ姫』を誰よりも利用してきたお前は、やっぱり、外道だ。とても酷い奴だよ」
「……そうね」
ティディアは消した笑顔の跡に微笑みを刻んだ。
その微笑は自虐を孕む。
それを見ながらも、ニトロは付け加えた。声の中に地鳴りのような怒りを含めて、
「その上、最後の最後で全部俺に丸投げしやがって。ああ、そうだ。これだけは反論の余地がないだろう。なあ、ティディア……原因のくせして『信徒』と『悪魔』に身も心も切らせ合いながら高みの見物ってのは『悪』じゃあないのか?」
「そうね」
言って、ティディアは大きく息を吸った。気のせいだろうか、その呼吸音は、泣き出す前の子どものように少しだけ揺れている。
「高みの見物がリスクを抱えないことで、心も痛まないわけじゃあないけれど」
しかしティディアは泣くことはない。彼女は、自分とニトロのやり取りに口を挟まず、これまでの妹だったら絶対に姉の味方をしていただろうに決然として口を挟まず、ただひたすらに事の推移をじっと見届け続けているミリュウを見つめ、それからニトロに目を戻し、
「それでも、ニトロの言う通り。あまりにフェアじゃないわね」
ティディアは、すっと両手を胸の前に出し、それを頭上に持ってくると、ぽんと頭を叩いた。
「というわけで、私も身を切ってみました」
ティディアが再び両手を頭上へ挙げる。
すると彼女の髪が頭からはがれた。
「 ぶッ」
ニトロは吹いた。目に飛び込んできたつるりとしたものに、
「うえええええええ!?」
ニトロは間抜けに声を上げた。
ティディアを挟んだ向こうではミリュウが、
「ヒ!」
と、小さな音を立てて息を止めている。
「でも流石に自傷してみせます、ってのはドン引きされるじゃない?」
瞠目する二人に対し、狙い通りとばかりにからからと笑ってティディアは自毛のカツラを影のように従っていた執事に放り渡す。
「だから、これでどうにか許してもらえないかしら」
息を止めていたミリュウが息を吸い、悲鳴を上げた。
ティディアの頭を、愛する姉の頭を――その頭髪が綺麗さっぱり刈り取られ、挙句丁寧に剃り挙げられてカンテラのオレンジ色を照り返す美しい頭皮を凝視しミリュウは悲鳴を上げていた。
「
姉に駆け寄り、その事実に目を見張って、それ以上の言葉を紡げなくなったミリュウが体を震わせる。
「これが少しでも償いになるのなら」
ティディアは震えるミリュウの短く切られた髪に触れ、言った。ミリュウは首を振る。何かを言おうとして、言えず、姉の腕を掴んでうつむく。ティディアはうつむいた妹の頭を優しく撫で――それを、ミリュウに遅れて駆け寄ってきていた弟が見上げていた。
その一方で、ニトロは、光をラリンと反射するティディアの頭を見つめたまま乾いた笑みを引きつらせていた。