気がつくと、ニトロは薄暗い天井を見上げていた。
周囲にある光源は温かみのあるオレンジ色で、源では明るく熱く、辺縁に向けては暗闇に溶け込むように淡く、少し非現実的な存在感で空間を照らしている。
ニトロの見る天井に、ヒビはない。
巨大な一枚岩を削り出して作られた天井は今現在も磨き立ての艶を守って、そこにある。
当然、その奥から響いてくる雷鳴もない。
「……」
ニトロは背中に温もりがあることに気づいた。
石床に直接寝転んでいるのではなく、マットか何かが敷かれているらしい。後頭部にも柔らかな敷物がある。腹には薄い毛布がかかっていた。
「――?」
ふいに天井を見上げるニトロの視界に、人影が入り込んできた。
頭から肩にかけての人影。瞳の奥に人工的な光を点すのはアンドロイドの証だった。
「分カルカイ?」
ニトロはぼんやりとした心地でその声を聞き、オレンジ色がかった影の中にぼんやりと容貌を浮かべるアンドロイドへ微笑んだ。
「分かるよ」
「気分ハドウダイ?」
「最高じゃあないな。でも、最低でもない」
「頭痛ハアルカイ? 頭ノ中ニ違和感ハナイカイ?」
「頭痛はないよ。違和感はある。現実感が少しなくて、まだちょっと『向こう』の感覚が残ってるかな」
「
「経験で語ればまさにそれ。ほんのちょっとまどろんでる感じ」
「好キナ色ハ?」
「? 新緑」
「サッキ、バカガ呑気ニラブレターヲ送リ付ケテキタヨ」
「ようし、これでまた一つあいつを怒る理由ができた」
アンドロイドが――もうその顔ははっきりと判る、芍薬がどこか安堵したようにうなずき、
「ゴメンヨ、今ノハ嘘」
「そっか。でもいいよ。どうせ怒ることに変わりはないんだ」
芍薬は微笑んだ。
大丈夫だ、『後遺症』は全くない。好みの色への断言も早かったし、何よりティディアへの反応が実に“正しい”。
「オカエリ、主様」
「ただいま」
ニトロは大きく息をついた。
感覚も現実を取り戻しつつある。
彼はゆっくりと上体を起こし――芍薬の手が背を支える――周囲を見回した。
やはりここは霊廟で、石像の彫られた柱が無数にある大きな地下室だった。少し離れたところには数十のアンドロイドが不気味に整列している。おそらく、自分達を別の世界に送り込むためにはそれくらいの演算機が必要だったのだろう。
「……相当なことをしたみたいだね」
芍薬は――仮想世界でのニトロの状況把握力に感嘆していたものだが、それがこちらに帰ってきても変わらないことに改めて感嘆のうなずきを返し、
「
「寄生虫?」
「特ニ主様ト姫君ノ中ノ
「恐ろしい話を聞いている気がするんだけど?」
「恐ロシイモンダヨ。基幹ソフトハ自作シテ、規格ノ合ワナイ既存技術ノ寄セ集メノ部分モ含メテ『一ツノシステム』トシテ成リ立タセテミセタンダカラ。――アノ歳デサ」
背後へ振り返る芍薬の視線の先には、さらなる地階に続く封印された門の側、薄いマットの上に寝かされているミリュウがいる。その傍らにローブを着たままのフレアがあり、そしてフレアの足元には膝を突いて姉を見守る小さな男の子がいる。
「ミリュウは?」
ニトロはあちらの名残で敬称を外していた。言ってからそれに気づいたが、まあ、それはもう瑣末なことか。
「まだ眠っているようだけど」
「自分ノ頭ガメインステージミタイナモンダッタカラネ。主様以上ニ深ク入ッテイタ分、復帰ニ手間ガカカッテルダケダヨ。今ノトコロ別状モナイ」
「そっか」
ニトロは安堵し、それから、ふと思い出した。
「『中継』は?」
その問いに、芍薬は腕を組んで少し困ったように首を傾げ、
「決闘ノ『決着』マデハ少シ“ディレイ”ヲカケツツ生中継」
「その後は? っていうより、“その後”も?」
仮想世界でのことには、かなりプライベートな内容が含まれている。自分もミリュウの人生の全てを見たわけではなく、要所要所の断片に触れてきただけではあるが、それでも彼女の内心を含め王家の内幕などはそうそう簡単に流布していいものではないだろう。
それを気にしているマスターに、芍薬は思わず笑みを送った。
「本当ニ、主様ハオ人好シダ」
「――ああ、まあ」
ニトロは何を言われているのか理解し、誤魔化すように頭を掻き、
「……でもまあ……一応うちの君主ご一家様方だからね。銀河に恥を晒しすぎるのも何かと、ね。今更だけどさ」
芍薬は笑った。
「御意。デモ王子様ハ『オ姉チャンノ苦シミ』ヲ知ッテ欲シカッタダケミタイデネ。ダカラ主様ガ心配シテイルヨウナトコロニハチャント配慮シテイタヨ。マズハ主様ノ記憶カラ取リ出シタ、ルッド・ヒューラントノ会話ヲ冒頭ニ据エテ……編集ノ魔術トデモイウヤツカナ、以降ハミリュウ姫ノ苦悩ヲ伝エルノニ必要ナ情報ヲ見事ニツナイデ『教団ノサイト』デ中継シテタ。今ハ録画モードダカラ、ソコハ安心シテネ」
ニトロはうなずき、しかしすぐに“絶望的な希望の存在”に思い至り、
「俺とティディアの真の関係は削除されてなかったりしない?」
「手ガ空イテタラ無理ニデモ捻ジ込ミタカッタケド、ゴメンヨ。力ガ及バナカッタ」
「あ、いや、芍薬が謝ることじゃないよ。でも……そうか、解ってたけど、それはちょっと残念」
と言いつつ、ニトロは息を挟み、
「じゃあ、順当に俺とミリュウのやり取りを、か」
「御意。内容ハ相当カットサレテルケド、必要十分ニ」
「――最後も?」
「最後モ」
「……何か……恥ずかしいな」
「恥ズカシイコトナンテ一ツモナイサ。タダ……マタ、英雄扱イダ。チョットバカリ、コレマデトハ質ガ違ウケドネ」
「?」
芍薬のため息混じりの言葉に、ニトロは眉をひそめた。
「ダッテ、主様、王女様ノ心ヲ救ッタンダ。雄々シイ勇者ニ熱狂スルッテイウ感ジジャナイケド、何テ言ウンダロウネ、穏ヤカニ……英雄ッテ、思ワレテイルヨ」
「……」
ニトロは黙した。
どう反応したものか分からなかったのだ。
ただ……思う。
「救った、か」
「御意」
「そんなのは、おこがましいよ」
「?」
「救ったのは、彼女を大事に思う人。ルッド・ヒューラン様に、パトネト様。俺は単なるお手伝いで、無理矢理駆り出されたカウンセラー。絶対に英雄なんかじゃない」
「……ソウイウコトニシテオクネ」
「ありがとう」
ニトロは肩を揺らし、それから、
「でも、それだけ?」
芍薬はニトロの問いの示すところを察し、
「『劣リ姫』ノ苦悩ヲ知ッタ国民ガドウイウ判断ヲスルノカ、ドウイウ態度ヲドウ表スノカハ今後ノ話サ。スグニドウコウトハイカナイヨ」
「……それもそうだね」
「デモ、今朝マデノ騒ギミタイナノハナクナッテル。今ハ概ネ気マズク戸惑ッテイルカナ」
「今朝?」
予測はしつつも実際の動きは見ていないニトロが問い返すと、芍薬は肩をすくめ、
「『いつの時代も、人の世は身勝手に満ちている』」
「『私も含め』――弁護士フェルナンド・ポルカロの言葉」
あの『映画』の後日、ハラキリが読んでいた
「いい風が吹くといいんだけどね」
肩をすくめて厭世的にニトロが言うと、今のやり取りで主に異常が残っていないことを完璧に確信しつつ、芍薬は苦笑した。
「ミリュウ姫ノタメニ?」
「いいや、打算的に、俺のために」
ニトロはにやりと露悪的な笑みを浮かべて、
「でなきゃ『英雄方面』の事後処理まで面倒すぎる」
わざとらしい“身勝手”な言い分に、芍薬は苦笑を笑顔に変えた。
「御意」
芍薬が楽しげにうなずく先で、パトネトに動きがあった。
弟王子は姉姫に覆い被さるように顔を寄せている。聞こえてくる会話は、ニトロが芍薬と交わしたものとほとんど同じものである。
そして確認作業が終わり、上半身を起こしたミリュウの胸にパトネトがしがみついた。
姉はややもすれば倒れそうになりながら、しっかりと弟を抱き止めた。
彼女は泣いているらしい。
素直に流れ落ちている涙の下で、弟への謝意が紡がれている。
ニトロは黙ってそれを見つめていた。
彼の胸には少しの達成感がある。この後の面倒臭さはあるものの、とりあえず最大目標であった『現状の問題解決と、再発を防ぐためにその原因を根本からなくすこと』には成功したとみていいだろう。
それに――
……理不尽にもひどい迷惑をかけられた身とはいえ。
まだ決着をつけないといけない諸々の感情が残っているとはいえ、
(いい光景ではあるかな)
互いに泣いて、抱きしめ合う姉弟の姿というものは。
と、
「っ」
ニトロは、ふと顔を上げたミリュウと目が合い、惑った。
さて――二人の関係は先とは違う。人間に戻った破滅神徒(不思議なことにあの禍々しい『聖痕』が今は一種独特な魅力のある化粧に思える)と、一体どういう風に接したものか。
ニトロがぎこちなく考えるのと同様に、ミリュウも同じ気持ちであるらしい。しかも激情をあけすけに開陳した彼女の側からすれば気恥ずかしさも強いだろう。彼女は少し目をそらし、しかし思い直したように目をニトロへ合わせると、ふっと、かわいらしく笑った。
ニトロは彼女の執事の言葉を思い出した。
そして彼女の執事の語った通りの笑顔を見て、微笑みを返した。
――その時だった。
「はい、カーーーーーットォ!」
霊廟に、底抜けに陽気な声が響き渡った。