「――言うな!」
弾かれたようにニトロの首を両手で掴む。
砕けた手で、それでも彼の首を絞める。
「言うな!」
だが、ニトロは叫んだ。
「言ってやる! ミリュウ! ティディアのあなたへの愛情を認めると、あなたがあなたの全てを支配する絶対的な姉を憎める理由がなくなるからだ!「言うなっ「本当に愛して欲しいのに愛してくれない姉に本当に愛されてしまっては、愛してくれない姉を憎むことができなくなるからだ!」
「言うなあ!!」
ミリュウがニトロの首を強く強く絞める。だが、首を絞められているのはミリュウであった。
「お願いだから言わないで!!」
ミリュウの懇願をニトロは拒絶した。『ニトロ・ザ・ツッコミ』――その性分はそんな懇願じゃあ抑え込めない!
「あなたは、だから俺を攻撃することができた! 姉が弱くなったと言いながら、弱くしたのは俺だと言いながら、俺こそが姉の弱点だと知りながら、それでも姉を愛するあなたは姉の愛する俺を攻撃することができた! 殺意をこめて! 俺は芍薬がいなければ死んでいただろう! ハラキリの助けがなければ俺も芍薬もまとめて殺されていただろう! 俺が死ねば姉がどれだけ悲しむかをあなたは理解しながら、だから、俺を攻撃した!」
「言わないで」
「あなたは弱くなった無敵の王女の唯一の弱点を初めて攻撃した、あいつの最初の敵だ!」
ミリュウの指がニトロの喉に食い込む。ミリュウが咳き込む。血飛沫を吐きながら、それが己の首を絞めることであっても、それでもミリュウは手と指に力を込める。ニトロは叫ぶ。
「あなたはアイデンティティと存在理由を奪った悪魔を攻撃しながら、同時に女神も攻撃していたんだ! 姉に恨みをぶつけていたんだ! それを『お姉様のため』――その大義名分で覆い隠していた! 何故なら! そうしないとティディアを心の全てで愛しているあなたは指の一本すら動かせないために!」
ニトロの首を絞めていたミリュウの手が、喉に食い込んでいた指が、ニトロの示した矛で貫かれ、盾で殴られ、激しい音を立ててへし折れる。その拍子に、あまりの痛みのせいか、絞められていた首が解放されたからか、ミリュウが甲高い呼吸音を立てた。
ニトロは、言う。
「あなたはそれも知っていた。あなたはあなたの全てを知っていたから、だから、ひどく自分を嫌悪した。俺を攻撃する自分が悪いことをしていると知っていて、仮とはいえ『死』を自ら志願して体験するくらいに――それくらい自分を責めていないと己を保っていられないくらいに、あなたは同時に自分を殺したかった。本当は死にたくなんかないのに、あなた自身の意志であなたを殺さなければならないと思うくらいに思いつめた。
……破滅神徒とは、よく言ったものだね。あなたの自己嫌悪が産んだものを表すのに、実に相応しい名前だ」
ミリュウがうなだれ、その手がニトロの首から離れて力なく垂れ下がる。
「もちろん、俺を攻撃したのは姉への仕返しのためだけじゃないだろう。考えてみれば、結局あなたが激情を理不尽にぶつけられるのは俺しかいない。国民や周囲の人間に当たるわけにはいかない、あなたは優等生な王女だから。執事に当たるわけにはいかない、彼女はあなたの大切な拠り所だから。パトネト王子には当然当たれない、守ってやらなきゃいけない可愛い弟だから。全ての創造主・女神ティディア様には? 直接ぶつかれば、あいつへの憎しみより強いあいつへの愛情で支えられているあなたは、そうしようとした時点で自動的に死んでしまう。それは姉の恥になる。
唯一、俺だけだ。ニトロ・ポルカト――姉を奪った憎い男、女神を貶めた悪魔。あなたが唯一攻撃対象としてもっともらしい理由を作れる『希望』は俺だけだ。それが、逆恨みに過ぎないとしても」
ニトロは吐息をついた。
「俺が……あなたに謝られていたことは、知っているね」
この世界に来る時に、ニトロに流れ込んできた感情と記憶の中で。
ミリュウはこくんとうなずいた。
「どんなに否定しても、もう、あなたは俺に、俺が言った全てを告白している」
遡れば姉のことを想う彼女のところどころには、姉のためという言葉に隠された恨みも見え隠れしていた。
ミリュウは……こくんとうなずいた。
「……逆恨みくらいしか感情の捌け口がないってのも、きついもんだね」
「それでも貴方にあんなことをしたわたしは許されるものじゃない」
ミリュウは血を吐きながら、言った。
ニトロは顔を上げるミリュウを見つめていた。
「ねえ、ニトロ・ポルカト、わたしだった人。わたしのなりたかった『私』――ほら、ご覧になって?」
ミリュウは力の入らない指で懸命に服の裾を掴み、操り人形が滑稽にポーズをとるように膝を曲げる。無理に笑って彼女は言う。
「わたしは、醜いでしょう?」
ニトロは腫れ上がった頬と瞼に挟まれて糸のようになった目の奥、彼女の姉と同じ色をした瞳を見返した。
「ああ、醜い」
ニトロに肯定されて、ミリュウは続けた。
「わたしは愚かでしょう?」
「ああ、愚かだ」
「わたしは人でなしなの」
「うん」
「わたしはどうしようもないクズなのよ」
「そうだね」
「わたしは一体、どうしたらよかったのかな」
逃げることもできず、誰を責めることもできず、重圧に耐えながら己を責めるのにも限界がきたら。
ニトロはそれを問いかける『ありえたかもしれない未来』を見つめ、肩をすくめた。
「泣いてみたらどうだろう」
「泣く?」
「あなたのためだけに。他の全ての何もかもを忘れて、せめてあなたのためだけに泣いてみたらどうだろう」
ミリュウは小首を傾げた。
「それがわたしにとってどれだけ難しいことか解って言っている?」
他の全ての何もかも。ティディアのことも。
ニトロは言った。――嘆きのあるがために嘆く必要はない。だが、嘆きが訪れた時は、
「泣くことくらい、いいじゃないか」
すると、ミリュウがニトロに体をぶつけてきた。そのままニトロへしがみつき、彼の胸に顔を埋めて、彼女は言った。
「ねえ、ニトロ・ポルカト、わたしだった人。わたしのなりたかった『私』――お願い。あなたがわたしに泣くことを許して。王女であることを泣いてはならないわたしに、王女であることを泣くことを許して。お姉様の妹であることを嘆いてはならないわたしに、お姉様の妹であることを嘆くことを許して。……あなたを羨んで泣くことを許さないわたしに、あなたを羨んで泣くことを許して」
「いくらでも許すよ、ミリュウ。いくらでも泣けばいいんだ」
「ごめんなさい、こんなことにまであなたを煩わせて」
「うん」
「……ありがとう」
「うん」
ニトロの胸に、ミリュウの嘆きが伝わってくる。
「ぅええええ」
ミリュウは、泣いた。
「うえええええええええん」
自分のために、声を上げて、自分のためだけに、初めて泣いた。
……泣き続けた。