「ふざけるな!」
 ニトロの額は空を打ち、彼は怒声に打たれた。
「……」
 ニトロは振り下ろした頭を振り上げた。
 眼前にはミリュウがいた。喪服のような黒い服を着て、青いチョーカーで首を締め付ける彼女が、わなわなと体を震わせていた。
「よくも……」
 険しく顔を歪めるミリュウの肌に青い紋様はない。しかしそれ以上に恐ろしい陰影が彼女の顔を彩っている。
「よくもわたしの……お姉様を……」
 ミリュウは拳を握り、ニトロを睨み、骨が砕けそうなほどに噛み締めた歯を剥き出して唸る。
「よくも……よくも……」
 ニトロはミリュウの凄まじい怒気を浴びながら、嘆息した。
「よくもわたしの心の中でまで穢してくれたな?――なのに、そうやってうめいているだけかい?」
 直後、ニトロの左の頬をミリュウの拳が打った。
 ミリュウにしては渾身の力であっただろう。ニトロの頬の内側が切れて口内に血の味が広がる。しかし、ニトロはさらに言った。
「で?」
 再びニトロの左の頬を拳が打つ。ニトロは血の混じった唾をミリュウの足元に吐き出し、
「弱いな。結局、あなたのティディアに対する思いはその程度か」
「黙れ!」
 ニトロの左の頬を三度ミリュウの拳が打った。が、三度目の拳を、ニトロは頬で受け止めていた。ミリュウの拳で頬を押さえつけられながら彼女に迫り、目を細める。
こうやってティディアを殴れたらよかった
「違う!」
 ニトロの挑発にミリュウは顔を紅潮させて激昂し、左の拳でニトロの右の頬を打った。
「違う!」
 右の拳でニトロの頬を打つ。
「違う、違う、違う!」
 繰り返し、繰り返し、ミリュウは滅茶苦茶にニトロを殴り続ける。
「わたしはお姉様を嫌ってなんかいない! 憎むことなんてあるものか! わたしはお姉様を愛している! お姉様を心から! 心の全てで、心の底から、全て、全て、全てで! お前の言葉は妄想だ! わたしはお前と同じなんかじゃない! わたしはお前と同じにお姉様を嫌ってなんかいない! お姉様の愛を受け! お姉様の愛が真実だと知りながらも、今も! 愛されながらもお姉様を嫌い続けていられるお前なんかと同じにするな!」
 ミリュウの拳は、どす黒い血の色で染まっていた。
 だが、それはニトロの血ではない。
 人を殴ったことのない彼女の拳は彼を殴る度に傷つき、ついには折れ、骨を折りながらも殴り続けたことでとうとう砕け、その破片が彼女の肉を刺し、そして彼女の拳は内側から血に染まっていた。
「わたしは生まれた時からお姉様を愛しているんだ!」
 ミリュウは怒りに泣きながらニトロを殴る。
「わたしはお姉様のために身も心も捧げると誓ったんだ!」
 そのうちに、ミリュウの顔に変化があった。
「お姉様のためなら命も惜しくない! どんな屈辱にも耐えられる! だけど、お姉様がそれを喜んでいたのだとしても、お姉様が穢されることだけは許せない! お前なんかに! わたしと同じだったお前なんかに!」
 ミリュウがニトロを殴る。
 すると、傷を受けるのはミリュウであった。
 いつの頃からか、ニトロが殴られる度、ミリュウが殴る度、ニトロの殴打の傷が癒え、ミリュウの頬に殴打の傷が移っていた。
「既にお姉様のお心は傷ついている! お前のせいで!」
 ミリュウの拳がニトロの右目を打つ。――と、ミリュウの右の瞼が腫れ上がる。
「これからもお姉様の愛は傷つく! お前のために!」
 ミリュウの拳がニトロの鼻を打つ。――と、ミリュウの鼻骨が折れて血が溢れ出す。
「ふざけるな! ふざけるな! それなのにお前はお姉様を侮辱し傷つけ続けるんだ! お前を許せるものか! 他の誰が許しても、お姉様がお許しになったのだとしても、わたしだけはお前を許せるものか!」
 ミリュウの顔面は、今や見る影もなく赤黒く膨らんでいた。唇は切れ、頬は腫れ、歯も折れて言葉を紡ぐことも辛いはずだ。
 しかし彼女は血を吹きながらニトロを殴る。
「ニトロ・ポルカトを愛することで弱くなられた哀れなお姉様! お姉様を弱くしたお前は! お前がお姉様の弱点であるからこそお姉様に攻められないことをいいことに、だからお姉様が本気で攻撃できないのにそれに勝った気になって、調子に乗って、お姉様を責め続けて……許せない。許せるものか。お前のような悪魔を!」
「俺は、俺を人質にしているから、ティディアに負けない?」
「そうだ!」
 ミリュウに鼻を殴られ、その一瞬はニトロも痛みを感じる。しかしそれ以降の傷と痛みはミリュウに移り、折れた鼻をさらに潰して団子のように顔を変形させる彼女を見つめ、ニトロはうなずいた。
「そう、なのかしれない」
「仮定ではない、そうなんだ、でなければ無敵の王女がお前みたいな一介の男に拒絶されることを許し続けるものか!」
「あの恐怖のクレイジー・プリンセスが」
「そうだ!」
 ニトロは笑った。
「やっぱり、そっちも俺がティディアを拒絶していた歴史を見たんだね」
 ミリュウが拳を止めた。
「なら、俺があなたからティディアの思いを受け取ったように、あなたも俺から受け取れていたはずだ」
「違う、あんなのはお前の勘違いだ、優しいお前がわたしに同情して――」
「そう同情したよ。だけどそれとこれとは別の話だ。ティディアは、あなたも確かに愛している。その思いを、俺があなたから伝えられたように、あなたも確かに受け取ったんだろう?」
「ッ言うな!」
 ミリュウがもうぐちゃぐちゃになった拳でニトロを叩く。ニトロの頬をミリュウの拳から流れる血が濡らす。
「なぜ拒絶する?」
 ニトロは静かに、薄く笑みながら、問うた。
なぜあなたはティディアの親愛を拒絶したいんだ?」
 その瞬間、ミリュウの様子が一変した。

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