その先では相変わらずミリュウがティディアにレッスンを受けていた。
ニトロは扉を開けた。
ティディアの叱責を受けるミリュウは次の努力のために気合を入れ直している。
ニトロは扉を開けた。
お姉様のため! ミリュウはひたすら我が身を削る。削り磨かれることで輝きを増す宝石のように。研磨されるたびに少しずつ痩せ細りながら、そんな自分を誇り、そんな自分を装身具として身を飾る姉を讃え、そのためにこそ、そこにこそ彼女は己のアイデンティティと存在理由を見出す。
ニトロは扉を開けた。
ティディアはミリュウを、変わらず無感動に見つめている。
ニトロは扉を開けた。
ミリュウはいつか自分が世間にどう呼ばれているかを知った。『劣り姫』――あの偉大な姉に比べて、あまりにも劣る妹姫。
ミリュウは喜んでいた!
ああ、わたしは人にお姉様の妹としてちゃんと認められている。お姉様と比べる価値はあるのだと、女神様と比べられるくらいには価値のある妹なのだと! 劣り姫!
「ああ、なんて素敵な名前」
ニトロは、溜め込んでいた感情を爆発させた。
「ド阿呆!」
彼は劣り姫という名に感涙を滲ませるミリュウを掴もうとした。
だが、掴めない。
彼の手は虚しく空を掻く。
ならばとニトロは扉を開けた。
次の間でもニトロはミリュウには触れられない。
ニトロは扉を開けた。
ダンスレッスンの風景。ニトロは……ミリュウを無視し、彼女にステップを踏ませるために手を叩くティディアの前に立った。
「そうだった。俺は悪魔だったね」
つぶやき、ニトロはいきなりティディアを殴り倒した。
ミリュウには触れることのできなかったニトロであるが、ティディアを殴り倒すことはできた。
その事実にニトロは笑い、突然の暴挙に悲鳴を上げているミリュウをすり抜け扉を開けた。
「やっぱり俺はティディアには触れられるのか」
扉を開けると音楽の授業風景があった。ティディアは、今ではとても貴重なクラシカルなピアノを弾いている。ミリュウは発声練習をしている。ニトロはピアノの蓋をいきなり閉めた。指を挟まれたティディアが悲鳴を上げ、それよりも大きな悲鳴をミリュウが上げる。
ニトロは扉を開け、その先にいたティディアを薙ぎ倒し、扉を開けながら叫んだ。
「ミリュウ・フォン・アデムメデス・ロディアーナ!」
ニトロの前に宮殿のテラスで手を振る姉妹が現れる。ニトロのドロップキックがティディアをテラスから追放する。
「聞こえるか! ミリュウ!」
敬称を捨て、扉を開け、彼はティディアにダンスを教わるミリュウに再会する。
「これはティディアじゃない! いいや、確かにティディアなんだろう! だけど、これはティディアの全てじゃない!」
ニトロは無感動に妹を見るティディアをバックドロップで床に叩きつける。即座に踵を返して扉を開け、妹に外国語で本を読み聞かせているティディアを張り倒し、扉を開けるや猛然とティディアに襲いかかる。
「聞け! ミリュウ・フォン・アデムメデス・ロディアーナ!」
ミリュウの世界を悪鬼のごとく跋扈し、女神をことごとく蹂躙しながら彼は叫ぶ。
「あなたはもう知っているだろう! ティディアは、これまでのティディアとは変わった! それなのに何故、あなたはまだティディアを知った気でいられるんだ!?」
ニトロはミリュウを叱責するティディアを突き倒し、倒れたティディアを指差し、
「このティディアを否定はしない! けれど、否定もする! ミリュウ、聞け! いいや聞いているだろう!? ミリュウ!」
ニトロはどこかにいるはずの『ミリュウ』に向けて叫んだ。
「ティディアはあなたを愛している!」
反応はない。
「道具としてでなく、一人の、たった一人の血の繋がった妹として、あなたを愛している!」
反応はない。
ニトロは扉を開けた。
テーブルマナーを教えるティディアの頭を掴み、それをスープ皿に叩き込み、
「俺は知っているんだ! ミリュウ! ティディアはあなたを愛している! そうでなければ――」
ニトロはテーブルの向こうで悲鳴を上げているミリュウを見つめ、最も認めたくない現実を前提とした言葉を、歯を食いしばり、
叫ぶ!
「そうでなければ、あなたを俺に委ねるものか! 愛する俺を天秤にかけてまであなたを守ろうとするものか! 俺があなたの記憶を見たように、あなたも見ただろう! ティディアは、俺に、あなたを頼んできた! 俺は知っているんだ。あなたは知らないだろう、だけど俺は知っているんだ! ティディアは確かにあなたも一人の人間として愛している! いつからだと思う? 最近になって急に? それとも本当はあなたはずっと人間としても愛されていた? そこからあなたは目を背けたかった? いいや、そんなことはどうでもいい、あいつがあなたを愛しているという事実だけあれば十分だ、例え! あなたを愛するようになった『原因』が、それがあなたの言うようにあいつが弱くなったためだろうと……それこそがあいつの弱点になってしまうんだとしても、ティディアは――間違いなくあなたを愛せるようになっている!」
ニトロは怒鳴った。
「ミリュウ! そしてあなたは馬鹿だ! 大馬鹿者だ! あなたは間違っている! 俺は確かにあなたと似ているのかもしれない、あなたに俺は同情できる、あなたも俺に同情できるだろう、それくらいには確かに似ているんだろう! だが、ミリュウ! 見誤るな! あなたはあなただけの人生を歩んでいる、あなただけしか歩めない人生を! それは俺には決して歩めない道だ! こんな地獄の日々は俺にはきっと耐えられなかっただろう、けれどあなたは耐えてきた! あなたは間違いなくこの国の立派な王女で、ティディアの妹で、パトネト王子の姉で、セイラ・ルッド・ヒューランが誇る主人で……そうして俺に喧嘩を売った、俺とは絶対に同じなんかじゃない、誰が代わることもできない『あなた自身』を全うしているたった一人の人間だ! 劣り姫? 他の誰がそう言おうとあなたがあなた自身を貶めるな! 誇れ! ミリュウ・フォン・アデムメデス・ロディアーナ!」
次々とミリュウの世界のティディアを叩き潰しながら声を張り上げ続けたニトロは、再度湧水の池の部屋に戻ってきていた。
「……」
そこではミリュウが、コップを握り締めた少し幼いミリュウが、初めて、怯えたように彼を見つめていた。
「……もう意識せざるをえないのかな」
皮肉気に笑いながら、ニトロはミリュウに歩み寄った。幼いミリュウが後ずさりをする。彼女の手には半ば水のこぼれたコップがある。彼女は池に戻る途中だった。
「もらうよ」
ニトロはミリュウからコップを奪った。
「あ!」
ミリュウが悲鳴を上げる。ニトロは、コップを奪い取ることができた。
「悪いね。でも、喉が渇いているんだ」
ニトロはそう言うとコップに口に運び、一気に水を飲んだ。冷たく透き通った水は素晴らしい甘露で、よくもミリュウはこれを手にしながら飲まずにいられたものだと思う。
美味なる水にため息を吐いたニトロは、ミリュウが凄まじい形相で睨みつけてきていることに気がついた。
ニトロは、しかしミリュウをそのままに捨て置いた。池に歩み寄り、コップを水に沈める。湧水は氷より冷たく、彼は指先から首にまで突き抜けてきた痛みに思わず震えた。
「……まったく」
コップを冷水で満たし、ニトロはコップから水がこぼれるのも気にせず玉座に向かった。
玉座では、ティディアが相変わらずの無感動で……いや、違う、少し微笑んでこちらを見ている。
ニトロは段を軽やかに上がり、背にミリュウの殺意を浴びながら――正面にティディアの微笑みを受けながら、コップを見つめた。
一握りのコップの中で揺らめいているこの水は、もしかしたらミリュウの涙なのだろうか。
この冷たさは、そのまま彼女の凍える心なのだろうか。
「……」
ニトロがティディアを見ると、ティディアはコップの水を請う眼差しを向けてきていた。飲ませて? と。明らかにミリュウとは違う対応であった。
ニトロはコップを差し出し、それをティディアが受け取ろうとする瞬間、コップの水をティディアに浴びせかけた。
「ああ!」
悲鳴とも怒号ともつかぬ声をミリュウが上げる。
しかしティディアは怒らない。それどころか微笑んでいる。
ニトロはため息をついた。
「違うな、ミリュウ。こういう時くらいティディアも俺に怒るさ。怒って、そうしてボケの一発でもかましてくるんだ」
ニトロはコップを放り捨て、びしょ濡れとなったティディアの肩に手をかけた。
背後から足音がする。
きっと鬼となったミリュウが割れたコップを拾って、そのガラス片で刺そうとやってきている。
しかしニトロは構わず、両手で肩をつかまれたことをキスの前兆とでも勘違いしたらしいティディアに言った。
「あっちのお前も後で覚えとけ」
そしてニトロは背を弓なりに逸らす。歯を食いしばり、首の筋が浮き、僧帽筋が首を固定し、体を折り曲げるための全ての筋力を爆縮させるための息が吸われ、
「やめて!」
ミリュウの嘆願も無視し、ニトロは渾身の力を込めてティディアの頭蓋を砕かんばかりに頭突きを――