「地獄だ」
 そして、女神の胸の奥にあった本物の黄金を手に入れた悪魔は、彼女の目の前で笑いながらその黄金を投げ捨てる。「なんてこと……なんてこと……」つぶやいていたミリュウ。ああ、彼女の絶望はどこまでも多面体だ。一面だけでは収まらない。魂を壊死させる毒のカクテル。言葉を選ばなければ、それまではまだ神が奪われただけですんでいたのだ。神が消え、過去がメッキとなったとしても、それでもまだメッキされているだけの価値はあった。しかし悪魔は女神の黄金をさも糞のごとく軽んじた。ニトロに自覚はなかったとしても、ミリュウにとっては間違いなくそう感じられることであった。黄金が糞であれば、糞を模したメッキは一体何になる? ニトロは――悪魔は、その時、ティディアの愛を軽んじることでミリュウの命を支えてきたものまで粉々に吹き飛ばしてしまったのだ。
 その時点までは、ミリュウは、ニトロの予想通り、『未来に繋がる希望』を抱いていた。
 ニトロ・ポルカトが姉の失望を買う人間だと証明できたら?
 ニトロ・ポルカトに対しわたしが少しでも優位を示せたら?
 だが、それらも一瞬でゴミとなった。そんなことはもうとっくの昔に消費期限の切れた希望ぜつぼうに過ぎなくなった。そして彼女には、終に、とっくの昔からずっとあった絶望きぼうだけが残った。
「地獄だ」
 湧水の池のミリュウの手はぼろぼろだった。だが、ティディアの手は妹に差し伸べられない。それが当たり前であればミリュウは耐えられる。だが、それをミリュウが当たり前だと感じられなくなったら……
「……どこだ?」
 ニトロは『あるもの』を探し続けていた。
 探し続けているのに未だ現れないそれが確実に“ここ”あることを彼は知っていた。この世界にはミリュウの心が満ちている。ここではミリュウの感覚が嘘偽りなく伝わってくる――ティディアが俺を愛していることを伝えてきたように、彼女の本心もこの胸に伝わってくるのだ。
 だから、ニトロは感じ取っていた。微弱だが確かにあるその心を。それなのにいつまでも形を成して現れてこないということは、もしかしたらミリュウ本人はその存在に気づいていないのかもしれない。しかし、ニトロは、彼だからこそその心に共感できる――“それ”があることを確信できる。ニトロは探し続けていた。
「どこだ?」
 ニトロは扉を開け――ふと、『あるもの』を探しに逸る気持ちを抑え、立ち止まった。
 そこは小さな小さな部屋だった。
 人一人しかいられない部屋。分厚い壁で囲まれた個室。
 そこにニトロはミリュウといた。
 彼と彼女は重なっているが、交わらず、ぶつからず、奇妙な存在となってそこに共存していた。
「……ルッドランティーの香り?」
 まだ本物の香りをかいだことはないが、ニトロは鼻をくすぐる独特の良い香りにそう思い至った。
 きっとそうなのだろう。
 耳には『春草』が聞こえている。
 ここまで無限回廊のように何十と見続けてきた無数の『ティディアとミリュウ』の部屋とは違い、ここにはミリュウとミリュウの好きなものしか存在していない。
 どうやらここは、ミリュウの最後の砦であるらしかった。
 ニトロは柔らかな部屋着に身を包むミリュウへ微笑みかけた。
「小さな部屋だね」
 しかし彼の声はミリュウには聞こえないようだ。彼女は穏やかに本を読んでいる。貴重な紙製の本。タイトルを覗き込めば『花園に来る』とあった。アデマ・リーケインの著作で、彼女が好きな本だ。
 ミリュウは穏やかに本を読んでいる。
 ニトロは彼女を見つめ、つぶやいた。
「一つ、気づいたよ」
 ニトロはここまで様々なミリュウの姿を見てきた。ティディアの下で王女として磨き上げられていく『劣り姫』。無限に同じことを繰り返されている光景。自分には地獄としか思えない日常。
「だけど、あなたは一度も逃げようとはしていなかった」
 ミリュウは、きっと一度もサボったことすらないのだろう。真面目な優等生。無論、お姉様に見捨てられたくないという脅迫感もあったか? とはいえ、何にせよ、彼女は、一度たりとて泣き言を口にせず、懸命に姉の期待に応えようとし続けていた。
 それにはもちろん姉に『愛』を注ぎ続けてもらうため、という動機もあるだろう。
 しかしその一方で、素晴らしい姉を持つ妹は、どうしても姉を愛さずにはいられなかった。才能に溢れ、美しく、銀河のどこに出しても誇れる希代の王女。普通の人間なら自慢せずにはいられない家族。素敵なわたしのお姉様!
「……尊敬するよ」
 ニトロは、言った。
「けれど、少しは逃げたって良かったんじゃないか?」
 そうすればここまで追いつめられることもなかったんじゃないか? 姉から逃げても、良かったんじゃないか?
「……怖すぎて、できないか。そんなこと。見捨てられたくないし、あなた自身が、それを許せないものね」
 ミリュウは本を読み続けている。
 と、突然、ニトロは何かが弾けたような音を聞いた。
「?」
 何の音かと見回すと、狭い部屋を守る壁に亀裂が入っていた。
 すると、その亀裂から、けたたましい赤子の泣き声が入り込んできた。
「うわ!」
 ニトロは耳を塞いだ。が、意味がない。そのあまりに恐ろしい赤子の鳴き声は骨を伝って脳の内部にまで響いてくる。
 赤子の声はどんどん高まっていく。
 外から壁を叩く音が伝わってくる。
 それにつれて壁が崩壊を始める。
 なのに、ミリュウは動かない。
 自分の大切な部屋が壊れていくことにもじっと耐えているように、本を読み続けている。
 ニトロはその時、ミリュウが同じ箇所を何度も繰り返し読んでいることに気がついた。

 ――うずたかく積まれた薪が燃えていく。
 ――独りの僧が焚かれゆく。――
 ――今、彼が叫ぶ。
 ――「神を愛することが罪でないように、神を憎むことも罪ではない。なぜなら、神は神を憎むものをも愛しておられるからだ!」
 ――彼の声は彼への憎しみの声に塗り潰される。彼と同じ神を信じる者達の憎悪の熱に身を焦がし、それでも彼は説く。
 ――「憎しみから生まれた愛が穢れていると誰が言う! 憎しみは! 愛を生んだ時にきよめられた!」
 ――罵倒の舌が彼を舐め、炎の勢いが増し、彼の足はもはや焼け爛れ、滴る血液は流れ出すそばから炎に巻かれて天を突く。
 ――僧衣を剥ぎ取られ、粗末な胴衣すら与えられず、屈辱にも裸体を晒し、殴り打たれてどす黒く変色した身を赤く染めながら、それでも彼は叫ぶ。愛する神のため、愛する神を貶める信徒への怒りを。
 ――「聞け、人よ! 神の祝福を受けし肉らよ! 愛が浄らかなものだけで出来ていると思うことこそが罪であり、傲慢であり、また人の真実の原罪なのだ!」

 ミリュウの手の中で本が燃え始めた。
 それでもミリュウは動かない。
 火が本からミリュウに移る。まるで書物に語られる僧のように燃えながら、それでもミリュウは動かない。これが運命で、わたしはその全てを受け入れるとでも言うように、彼女はずっと耐え続けている。
 恐ろしい赤子の泣き声の中、火に包まれながら……ふと、ミリュウがつぶやいた。
「愛は、それでも、浄らかなものだけでできているのだと思う」
 ニトロは歯噛んだ。
 違う。それは――『希望』だ。それはただのあなたの願望にすぎない。あなたはそれも知っているはずだ
 ニトロは言った。
「嘘だ。あなたはティディアを嫌ってもいる。もしかしたら俺以上に。いいや“もしかしたら”なんかじゃあない。あなたは……ティディアを、憎んでいる」
 はっと、ミリュウが、燃えながらニトロを見上げた。
「だけど、それなのにあなたはティディアを本当に愛している。あなたの愛は本物だ。だから、あなたは姉を憎む自分も許せない。だから……だからただ一つの『浄らかな愛』で自分の心を偽りたかったんだろう?」
 突然、ミリュウが笑った。
 壮絶な嘲笑であった。
 ニトロの脳裏に言葉が浮かぶ――『とっくに間に合わなくなっていた』――ニトロは小さく笑った。ため息混じりに。
「それでもあなたは逃げもせず、逃げもできず、逃げることを許さず、その上自分の心に自分の心で蓋をして――だけど覆い隠された心は本物で、それを覆い隠した心も間違いなく本物で……複雑だ、複雑すぎて、考えているこっちがどうにかなりそうだよ」
 ミリュウは声もなく哄笑していた。
 ニトロに向けてではなく、自分に向けて。嘲るように、誇るように。怒っているかのように。嘆いているかのように。
 やがて炎はミリュウを真っ黒に焦がし、焦げた彼女は炭化した皮膚の形をゆっくりと変え、やおら彼女は、真っ黒な蛹となった。
 殻の中でドロドロとなったミリュウは、複雑怪奇なその心と混ざり合っている。
 いつかこの部屋には壁を破壊して恐ろしい泣き声を上げる赤子が入り込んでくる。赤子は暴れながら、壁だけではなく蛹をも割るだろう。そしてその時、『破滅神徒』が産声を上げるのだ。
 ――ニトロは扉を開けた。

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