大勢の人間――国民の前で、どこかの宮殿のテラスから王女姉妹が笑顔で手を振っている。その背後に伸びる姉妹の影はまるで影絵劇のように動き、姉の影は妹の影を操り、姉の影に操られる妹の影がミリュウ本人を操っている。本人の体から骨が折れたような音がしようと影は無理矢理本人を動かす。それと同時に影自身も耐えられないように薄くなっていく。しかし失った色を戻すための顔料を他から得られることも無く、ミリュウの影はしだいに消えていきながら、それでも何とか消えてなくならないように姉の影の陰に入ることで自分の色を取り戻した気になって安堵する。ただの誤魔化しで、目を塗り潰す。
ニトロは扉を開けた。
異様な形の姉妹の関係性が積み重なっていく。
ミリュウは一方的にティディアに依存していく。
しかしティディアは何にも依存しない。だが、依存を受け入れ、それをいいように操る。
いつしか超一流の人形師によって、人形も一流になっていく。
ニトロは扉を開けた。
ニトロは扉を開けた。
ニトロは扉を開けた。
ニトロは、もう知っていた。
人形は自己が磨き上げられ、それが人形師の利益になることを心から喜びながら――そうだ、まるでオリジナルA.I.達がマスターに尽くすことを幸福とするように、彼女もティディアの生きたオリジナルA.I.として尽くすことを喜びながら、一方で、常に絶望していた。
彼女は確かにティディアに最も近い道具であっただろう。ニトロ・ポルカトが道具として愛されている時期にも、それは変えようのない事実であっただろう。
だが、彼女は気づいていたのだ。
彼女は道具であるからこそ、人間ティディアに同じ人間としては尽くすことは絶対にできない。
もしかしたら、
「だからこその『
扉を開けた先で、ミリュウはティディアを神として崇めていた。
神と信徒の間には往々にして契約が取り交わされる。
しかしここにある契約は、神から信徒に向けられるものではなく、信徒から神に向けられている。
ミリュウは祈り、思う。
神は特別に誰か一人を愛さない。
神の愛は、等しく皆に注がれる。
わたしも皆と同じように等しい愛の中にいる。
それなら、どうぞお姉様、あなたはわたしの女神様でいてください。
あなたが誰をも愛しながら誰をも愛さぬ神であるならば、わたしはあなたの『愛』で満足できる。いつも渇いている喉も、あなたの『愛』によって癒される。
「いつも渇いているのに癒される?」
ニトロは扉を開けた。
また湧水の池でミリュウがティディアに水を運んでいる。
「違うだろう」
ニトロが扉を開けると、また暗闇の部屋に出た。
ニトロだけに注がれる愛。
こちらを見るミリュウの祝福と、諦め。
ああ、お姉様はとうとう人を愛されたのですね。人として、愛しい殿方を愛されているのですね。
でも、そうするとわたしの『
「……」
ニトロは扉を開けた。
ミリュウはティディアとダンスレッスンをしている。膨大な量の勉強をしている。スピーチの仕方を教わっている。国民と触れ合い、また国民に罵倒され、また国民を支配しながら、『王女』のあり方をミリュウは吐き気を覚えながらも懸命に飲み込んでいく。
しかしティディアの求めるものには上限がない。
何故なら基準は、ティディアなのだ。
ティディアと同じ資質を持たないミリュウには決して克服できない無限の試練。しかし悲しいかな、乗り越え続ければ人より確実に優れられる道程。
「地獄だ」
ニトロはつぶやいた。息のできない苦しみのあまりに叫んだ言葉――それを彼は繰り返した。
地獄。
いや? もしかしたらこれは『王女』にとって地獄でもなんでもなく、当然のことなのかもしれない。しきたりに縛られることを飲み込んでいたマードールのように、これは当然のことと認められるべきことなのかもしれない。――あるいは、認めることこそが外の人間のできる優しさであるのかもしれない。
しかしそれでも、少なくともニトロには、目の前に繰り広げられる光景は過酷なものとしてしか映らなかった。思い出される『現実』の写真。仲良くティディアとミリュウが並ぶ写真が悲しく思える。ティディアが手本となって幼いミリュウに王女としての立ち姿を指導している有名な写真が思い出される。それが地獄の本格的な始まりだったのかと思うと、胸が苦しくなる。
ニトロは扉を開け続け、次第に『あるもの』を探し始めていた。歪な姉妹の奇妙な親愛関係を見届けながら、彼女の動機が『全て』であったのならば、絶対になくてはならないものがまだ彼の目には現れていなかったのだ。
「……」
ニトロはティディアに抱きしめられて慰められるミリュウを見ながら、思わずにいられなかった。
本当は、ミリュウは、俺が『一人の男性として愛されたい』と考えていたように、根底では彼女も同じく『一人の妹として愛されたい』と考えていたのではないか?
なのにミリュウはそれも諦めきっていた。
何故なら、ミリュウ・フォン・アデムメデス・ロディアーナは、ある時期までは間違いなくティディア・フォン・アデムメデス・ロディアーナの最大の理解者であったからだ。
妹は知っていた。
姉は、人を愛さない。いいえ、愛せない。姉には人間らしい愛情が、本当はないのだ。
恐ろしくも親しみ深く、慈愛に溢れたティディア姫。その親しみも、慈愛も、ティディア本人から溢れているものではない。それらは全て“王女ティディア”から精製されている“人工物”にすぎない。天才が作る限りなく本物に近い贋作。贋作でありながら万人に本物であると認められるために『本物足りえる愛』。
ミリュウはその最高純度の『本物足りえる愛』を受けられる人間だった。そしてそれは、本物の愛を欲するミリュウの喉の渇きを誤魔化すには十分な純度の『愛』でもあったのである。
王・王妃――両親は公務で忙しい。
長兄・次兄・長女はミリュウをその凡庸ゆえに王家の失敗作、“劣等遺伝子”の固まり、それとも実は母は不倫をしていてアレはその不義の子なのだろう――と、妹を、妹として認めない。ニトロはミリュウの記憶の中で聞いた。長女は次兄に言う「それでも『王女』ではありますから、良い商いになりましょう? 殿方も王女との一夜の夢とあれば、例え腐肉が相手でも大金をはたきましょう」次兄はうなずき、長男は笑って言った「だけど木偶は穴も硬すぎるんじゃないのか? 何だったら俺が少しくらい使える程度にはしてやるよ」――人でなしとミリュウが呼ぶ兄弟の、あまりに彼女を卑しめる言葉。連中はミリュウがそれを理解できないと思っていたのだろう。彼女の目の前で話していた(そしてニトロはその時そこで実際に目撃していたと記憶違いをしそうになっていることに気づいて慌てて頭を振った)なれどニトロは知っている。ミリュウは、それほど劣っているわけではない。むしろ歴代の中でも優秀な部類に入る王女だ。彼女はちゃんと理解していた。「しかしティディアに知れたらまずいだろう」「問題ありませんわ。少々脅しつければコレは何も言えませんもの」――理解した上で、心を震わせながら、解らないふりをしていた。
さらにミリュウの周囲にいる人間は、当然、『王女』に従う者ばかりであった。ルッド・ヒューランは言っていた。ミリュウは繊細であると。実際、繊細な少女であった。彼女は周囲の心の機微を敏感に感じ取れる人間であった。それは現在でも、彼女が優しく、兄弟の中で両親に最も似た人徳を持つと呼ばれるに相応しい人間であることで証明されている。ただ、それが彼女の苦しみを生む要因でもあった。
……繊細な王女は、いつも一人であった。
彼女は家族の愛を受けられない。ティディアは愛してくれるが、ミリュウは早いうちから心の底ではそれも偽物であることを悟っていた。
だが、だからこそ、ミリュウはティディアの『本物足りえる愛』に縋った。何故ならティディアはその『愛』しか持っていないのだ。ならば、それしかないのであれば、それはむしろ本物といってもいいのではないか? それしかないのなら、それこそが本物で間違いないではないか。――言葉遊びにも似た価値の転倒。されど、姉の『特別な愛』を向けられる人間にとっては甘美な発見。
ミリュウがティディアの『愛』に縋り切ったことを誰が責められるだろう。
外から見れば……ニトロから見れば、確かにミリュウが姉の『愛』だけに救いを求めたのは失敗だったと思える。
だが、ミリュウの世界にはそれしかなかったのだ。
それしかないのに、それに縋るなと言うのは無理筋というものであろう。
時が経ちセイラ・ルッド・ヒューランのような支えを得たとしても、いつまでも彼女の中心をティディアの『愛』が占拠し続けるのも自然な帰結というものであろう。
例え姉の『愛』が彼女の求める“愛”の偽物だったとしても、事実彼女は姉に救われてきたのだ。人でなしの兄姉から守られ、周囲の目や口から心身を守る
ミリュウがティディアを盲信することになったのも誰が責められよう?
ミリュウがティディアのために執念を燃やすことに、一体どんな不思議があるだろう。
全ては『愛』のためなのだ。『愛』のためであったのだ。
だが、『ニトロ・ポルカト』の登場により、その全てが否定された。
あるいは『ニトロ・ポルカト』が世界の理を変えてしまった。
ミリュウが本物だと信じ込んできたものは、やはりどうしたって偽物なのだと暴露されてしまった。
彼女の過去はその瞬間、本物の黄金ではなく、黄金っぽくメッキ加工された