ニトロは認めざるを得なかった。
 ミリュウの心と記憶を介して、しかし、あのミリュウの心と記憶を介しているからこそ、ニトロはそれを認めるしかなかった。
 すると、それを認めたニトロの目が、視界の隅にうずくまる少女を見つけた。
 彼女はニトロを包む光と、光の外にある暗闇の境界にいた。境界の、暗闇側に。
「……」
 ニトロは、彼女が今、どんな顔をしているのか――それを見るのを怖く感じた。
 だが、目を逸らすわけにはいかない。
 ニトロは彼女に近づいた。
 と、そうすると彼女がうずくまったまま自動的に離れていった。
「――?」
 戸惑い、もう一度近づくが、ミリュウに一向に接近することができない。というよりも、ミリュウは光側に入ってこられないようであった。
 彼女の顔は暗闇が隠している。
「ニトロ」
 うずくまる妹を無視して姉は男に愛の声を届ける。
 その度に光が増し、ニトロは温かな水の中で浮いているような幸福感に包まれる。
「ニトロ」
「――違うだろう」
 ニトロは、拳を握っていた。
「違うだろう、ティディア」
 すぐそこにお前の妹がうずくまっている。
 寒くて、息ができない暗闇の中でじっと耐えている。
「それなのに放っておくのか?」
 ニトロの言葉に反応したように、光に照らされる範囲が増えた。
 それでもミリュウはこちら側にこられない。
 しかし、変化はあった。
 ミリュウの顔が光によってぼんやりと照らし出されたのだ。
 ニトロは拳をさらに強く握った。
 そこにある表情は、一体どんなに恐ろしい形相を刻んでいるのだろうか……そう思っていたのに。
「……」
 ニトロはミリュウの顔を凝視し、困惑するしかなかった。
 そこにあったのは、寒くて息のできない暗闇の中にうずくまる彼女が浮かべていたのは――祝福の笑顔であった。
「どうして……」
 ミリュウはこちらを見つめて、微笑んでいる。
 ニトロのよく知る和やかな笑顔で心の底からの祝福をこちらへ贈ってきている。
 そこに羨望や妬みはない。敵意や殺意もなく、あの『破滅神徒』の鬼気迫る執念も何もない。むしろそこには……もし祝福の他に彼女の心を見出そうとするのなら、祝福の影には小さな諦めがあった。
 ――諦め?
「何を諦める?」
 人生を? 命を? それとも、自分が姉に愛されることを?
「ニトロ」
 微笑んでいるのであろうティディアの声にニトロは抱かれ、ミリュウは窒息しながらこちらを見つめている。
 ニトロはティディアの愛とミリュウの祝福に挟まれ、惑い、望んだ。一度ここから離れたい。これまでの自分の大前提――『ティディアは俺を愛していない』――その崩壊に心根も揺れている。このままでは俺はここから抜け出せなくなる。
 その思いが通ったのだろうか、うずくまるミリュウの背後に扉が見えた。
 ニトロは走り、ミリュウの傍を駆け抜け、扉を開けた。

 ニトロが訪れたのは、あの湧水の池の部屋であった。
 そこでは相変わらずミリュウが水をティディアに運んでいる。
 ニトロの喉は、再び渇いていた。
「……ああ」
 彼の目の奥に、暗闇に見たミリュウの祝福が浮かぶ。
 水をこぼしてしまったミリュウが池に戻っている。
 その顔に――泣き出しそうなのに、泣き出しそうになることすら許さない彼女の意志に、あの祝福が重なる。あの諦めが重なる。
 そこにいるミリュウは相変わらず池の水を汲み、何度も失敗し、成功するまで努力し続けるのだろう。
 先ほどはそれを見続けることができたニトロは、今はそれを見続けようとすることもできなかった。
 ――ティディアの愛を知ったことで。
 ニトロは、冷たいティディアに見つめられながら試練を乗り越え続けるミリュウの絶望を、本当の意味で知れた気がしたのだ。
 ニトロは扉を開けた。
 その先ではティディアの打つ拍子に合わせてステップを踏み、ダンスを練習するミリュウがいた。ティディアは無感動にミリュウを見つめる。無感動? いや、違う。ニトロは思い改めた。それはただ無感動なのではなく、真剣であるが故の無感動なのだ。
 ニトロは扉を開けた。
 そこではミリュウがティディアの監視の下にテーブルマナーを習得しようとしていた。
 ここでもティディアは表情も感情も消してミリュウを真剣に見つめている。真剣に鍛え上げている
 姉の目は、姉の目ではない。かといって教師の目でもない。妹を見る姉の目でも、生徒を見る教師の目でもない。まして子を見る親の目でもない。
 ニトロは理解した。
 ティディアの目は『素材ミリュウ』を『優等生な王女』に作り変える職人の目なのだ。そして鍛えるために、真剣に情を注いでいる姿なのだ。職人が弟子に与える愛情ではなく、作品に与える愛情。同じ“愛”でありながら、決定的に違う『愛』。
 ……この世界で目覚める前に見た、彼女の記憶と心。
 それだけではなく、王城で彼女が吐き出していた真情までもがニトロを打つ。
 あの玄関の前にいた人形――
 まさにあれこそミリュウだ。
 ミリュウはずっとティディアに『道具』として、『作品』として愛され続けてきた。目の前でスープを飲もうとしているミリュウは、今も、磨き上がっていく宝石ものへ送る姉の愛情をその身に受けている。
 ……それは、やっぱり違う。
 ティディアが俺に送っていたものとは全く違う。
 ニトロは扉を開けた。
 そこでもミリュウはティディアに鍛えられていた。
 ニトロは扉を開けた。
 そこではミリュウはティディアに慰められていた。だが、ただの慰めだったら良かった。ティディアの優しい言葉はミリュウの心に深い根を下す。ミリュウはそのために姉がなくては自己を支えられない心を育てていく。そうやって育っていく心に、ティディアは水と肥料を与え続ける。
 ニトロは扉を開けた。
 ニトロはまた温かな愛情を感じた。しかしそれはティディアが彼に与えるものではない。ミリュウがティディアに与えるものであった。
 そう、ミリュウは、ティディアを心から敬愛していた。本当に、心から。だからどんな形であれティディアから向けられる感情を喜んで受け入れていた。それがどれほど打算的なものであり、どれほど狡猾で姉妹の間に育まれるはずの親愛からは程遠いものであっても、それを喜んで抱き止めていた。
 ニトロは扉を開けた。

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