次の部屋には何もなかった。
 ただ、その部屋は明るく、暖かな空気に満ちていた。折々吹く穏やかな風は心地よく、石造りの部屋の中であるのに、気持ちのいい草原にいるかのようであった。
 ニトロはここにずっといたいと思った。それだけ居心地のよく、全能感すら湧く安息のある場所だった。
 しかし、ニトロはやがて気がついた。
 この温かな空気の中に、毒があることを。
 その毒は心に作用する。
 ニトロは耳を澄ませた時、聞いたのだ。穏やかな風の中にまぎれるティディアの囁きを。どんな苦痛に苛まされていようと、それを全て忘れさせてくれる魔法の囁きを。
 ニトロは、彼だからこそ、その囁きの本質に気がつけたのかもしれない。
 彼は既に『ありえたかもしれない未来』においてティディアに骨抜きにされた自分を想像していた。その未来では、彼は、ティディアの『愛』に癒され“麻痺”していた。
 穏やかな風が懐に女神の魔法の言葉を忍ばせて運んでくる。
 魔法の――呪いの言葉を。麻酔であり、麻薬である言葉を。
 そう自覚した時、ニトロは見た。彼の傍にずっとミリュウがいたことを。
 ミリュウの体は透き通っていた。
 それは自己というものを失くし、ふわふわとその場に“存在意義”という抽象観念だけで存在しているようであった。
 ふいに崖の下を覗き込んだ時のような恐ろしさを感じて、ニトロは扉を開けた。

 暗闇がニトロを包み込んだ。
 前の部屋とは対象的に、新たな部屋は寒々しく重苦しい空気で満ちていた。風も吹かない。体を動かすと水の中にいるように闇が揺らめいた。
 そして、息ができない。
「!?」
 ニトロは慌てた。
 現在、自分はこの世界に限りなく『生きている』。
 仮想であるはずの息のできない苦しさは限りなく現実的に彼を苦しめる。
 この状態でこのまま窒息することは現実世界での生存も脅かしかねない。
 ニトロは周囲に目を凝らし、耳を澄ませた。
 ミリュウを探そう。彼女のいるところにはきっと酸素があるはずだ!
 しかしミリュウはどこにも見つからなかった。暗すぎて周りが全く見えないこともあるが、どんなに動いても何にも当たらない。壁もない。部屋は無限に広がってしまったかのようだ。
「――?」
 そのうちに、ニトロは息ができないまでも窒息死はしないようだ、ということを悟った。
 もう何分も息ができず、窒息の苦しみは続いているが、気を失うことはない。耐え難いほどに苦しいが、それでも死なない。
「どこでも地獄か!」
 叫ぶための息はどこから手に入ったものか。ニトロは遂にそう叫んだ自分の声に驚き、その声が微妙に反響していることを知り、もう一度大きく叫んだ。
 彼の声が遠くに届き、遠くから何か音が返ってくる。
「……鼓動?」
 ニトロはもう一度叫んだ。
 すると彼の声を聞いたことで何かが目覚めたかのように、そちらから一定のリズムで温かい音が送られてきた。
「鼓動だ」
 もう間違いがなかった。
 それは確かに心臓の音であった。
 トクン、トクンと心地良い音が聞こえてくる。
 トクン、トクンと聞こえてくる心音がはっきりしてくる度に、ニトロの周囲が明るくなっていく。
「息が……」
 できるようになっていた。
 トクン、トクン、トクンと優しい音がニトロを包む。
 ニトロは音と光に包まれて、ここには限りない愛情があることを感じていた。
 偽りも、隠し事もない慕情。
 トクン、トクン、トクン、トクン――
 ニトロは不思議と確信していた。
 自分は、この心音を打つ者に心から愛されている。
 傲慢でも自惚れでもなく、この体この心にこの安らかな心音は清らかな情愛を伝えてくるのだ。
「ニトロ」
 ふいに声が聞こえた。
 その声を聞いた時、ニトロは震えた。思わず口からその名がこぼれる。
「ティディア」
「ニトロ」
 心音に重ねて彼女が応える。彼に名を呼ばれて、喜んでいるかのように。
 温かな音と光に包まれて、ニトロは感じる。
「ニトロ」
 ティディアの愛を。
 彼女が、心から、一人の男に向けている感情を。
「……え?」
 ニトロは戸惑った。
 ここはミリュウの世界のはずだ。
 なのに、何故?
 ニトロはたじろぎ周囲を見回した。
 そうだ、こんな風にティディアに俺が愛されていたら……彼女は!?
「ニトロ」
 己が名を呼ばれる度に、ニトロは悔しいかな、強烈な安堵を感じていた。喉の渇きもなくなっている。彼女の声と音とこの光に包まれていれば、周囲に満ちる息のできない暗闇から自分は守られるのだ。そしてまた、あなたをそれから守ってみせるという強い意志を、ニトロは心臓の音から伝え聞いてもいた。
「くそ、一体何でだ?」
 ニトロは戸惑った!
 これでは、このままでは、ティディアに本当に愛されていると信じてしまいそうだ。あいつに事の真偽を確かめるまでもなく、一人の人間として深い愛情を向けられていると、そう思い込んでしまいそうだ。
 胸に迫る。
 目の前で告白されているかのように、胸に迫る。
 優しく抱かれながら愛を約束されているかのように、胸に迫ってくる。
「ニトロ」
「いやいや待て待て」
 ニトロは戸惑いながらも、やおら理解した。
 そうか、これは本当に直接自分の心に流れ込んできているから、こんなにもあいつの情が胸に迫ってくるのだ。
 共感はしてもいい、だが同調はしてはならない――ふいにそう思うが、いいや、無駄だった。これは同調の故ではないのだ。共感の故に、胸に思いが溢れているのだ。ティディアが生み出す温かな情に、共感してしまった己の情が揺れているのだ。
 そしてこの情をこんなにも素直に俺に伝えてくるのは……伝えられるのは、一人しかいない。
「――伝えられるのは?」
 ニトロは、ふと思い出した。
 この世界で目を覚ます前に見たミリュウの記憶。
 トクン、トクン、と音がする。
 ニトロはこの音を、ミリュウの記憶の中でも聞いた。
「ああ、そうか」
 ティディアがクロノウォレスに発つ前夜の記憶だ。
 ミリュウはティディアに抱かれながら、姉の心臓の音を聞いていた。ニトロ・ポルカトの話題を出し、その音を確かめるように聞いていた。
 この心臓の音は、脈打つ感情は――温かい。涙が出るくらいに慈しみに満ちている。それなのにどこか切なくて、触れればすぐに壊れそうなほどに脆そうで、だけど強い。強くて、無垢で、愛しくてたまらない。
 愛しさに打ちひしがれるように足元を見れば、ミリュウの宮殿と島を取り囲む外海とは比較にもならない美しい海があった。
 あまりの美しさに目をそらし、天を仰げば、宮殿の中にいるはずなのに、そこには抜けるような広い青空がある。
 彼女達は伝えてくる。
 その情の深さは、海の深さ。
 その愛の深さは、空の深さ。
「ああ、ちくしょう」
 ニトロはうめいた。
「ニトロ」
「――俺は」
 ティディアに、
 あのクレイジー・プリンセスに、
 大ッ嫌いなあのバカで傍若無人で無茶苦茶で痴女な上にふざけた希代の王女様に、
「俺は、こんなに愛されているのか……」

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