宮殿に足を踏み入れた瞬間、ニトロは猛烈な解放感を味わった。
 宮殿内は広くない。むしろ狭い。それなのに、ニトロは解放されていた。
 あの圧力の暴威から。
 あの粘りつく地面から。
 あのふいに掴みかかってくる手から、天の地の底から轟いてくる雷鳴のような声から、恐ろしい無限の眼差しから。
 ここはつまり、シェルターだった。
 だが、
「相変わらず、喉だけは渇くなあ」
 しかしそれ以外は実に楽だ。
 ニトロは大きく息を吸いながら周囲を見渡し、首を傾げた。
「変な造りだ」
 おそらくロディアーナ宮殿のように古典的な造り……宮殿には廊下がなく、無数の部屋と部屋が連なる構造をしているのだろうが。だからって、玄関入ってすぐのエントランスが何もない四角形の部屋――ということはあるまい? 上階への階段もなく、調度品もない。ただ四方を壁に囲まれた部屋。しかも壁は下部に隙間がある上に柱がない。
「どうやって支えてるんだ?」
 常識的な構造は必要ない世界だとしてもそれが気になり、ニトロは身を屈めて壁の隙間を覗き込んだ。が、何も見えない。隙間の先は真っ暗である。左右の内壁には扉が据えられているのだが、隣の部屋の欠片も見えない。
「さすがに外壁には隙間はないか」
 つまり、どうやらこの宮殿は外壁だけで支えられているらしい。内壁は、壁とは言っても実質天井から垂れる巨大な石板に過ぎない。
「現実ならこんなところにゃ怖くていられないな」
 いつ潰れてもおかしくない……そう考えたところでニトロは気づいた。
「なるほど。ある程度解りやすく具体的に造られているんだな」
 この世界は。
 何しろ自分で自心を適切に図化することですら極めて困難なことなのだ。もし本当に他人の心の風景を何のフィルターもかけずに見たとしたら、それはきっと別の人間には写実主義者が象徴主義的な技法で宗教絵画を目指してシュルレアリスムに傾倒しながら描いた抽象画――とでもいうような、訳の解らない混沌図にしかならないだろう。
 そういえばと省みれば、外で見舞われた現象の数々も“こちらの心情”で解釈できるものだった。
「……人の精神パターンを解析して、そこから心理を抜き出して、さらに心理的負担やらをこんな風に具象化する? それを可能にするシステムに、そこに無理矢理人を引きずり込む装置?」
 言いながら、ニトロは呆れた。
「どんな天才マッドサイエンティストだ」
 齢七歳にして工学分野において類稀なる能力を発揮する『秘蔵っ子様』。ドロシーズサークルでは女の子にしか見えなかったパトネト王子。可愛い顔して末恐ろしい第三王位継承者。
「……二人の異常な天才に、見事なまでにサンドイッチか」
 そうつぶやきながら、ニトロは次の部屋に進もうと右の扉を開けた。すると、左の扉も同時に開いた。思わぬ反応にニトロはびくりとし、
「連動してるの?」
 振り返った時、彼の目に湧水の池が飛び込んできた。
「……」
 部屋を移った覚えはないのに、ニトロは別の部屋にいた。
 どうやら扉を開けた時点で部屋自体が切り変わるらしい。部屋の大きさも変わり、ちょっとした空き地程度の大きさになっている。ニトロの目を奪った美しい湧水の池は、湧き水らしい冷気を漂わせて石畳の部屋の中央に忽然と現れていた。
 そして、
「――ティディア」
 ニトロの目は、自然とその“存在感”に引きつけられていた。
 部屋の上座とでもいうのだろうか、その位置に、玉座がある。玉座は巨大な敷石を大中小と三段積み重ねた上にあり、少し今より幼い容姿ではあるが、そこには間違いなくティディア・フォン・アデムメデス・ロディアーナが威厳を漂わせて静かに座している。
「……ミリュウ姫」
 次いで、ニトロは玉座を置く台の下に跪くミリュウに気がついた。彼女も今より少し幼い。顔を上げ、ミリュウは台上の玉座を仰いだ。ティディアは無表情に妹を見下ろしている。
 ミリュウは立ち上がった。
 彼女は手にクリスタルガラスのコップを持っていた。
 厳かに湧水の池に歩み寄り、透き通ったコップでそれよりも透き通った水をすくう。
 表面張力ギリギリでこぼれないでいる――というほど満杯に水を注ぎ、彼女はそろそろと歩き出した。
 どうやらティディアに運ぶことが、彼女の重大な使命であるらしい。
 ニトロはコップにある水を見る内、喉が焼けつくように乾いてくるのを感じていた。それは自分と『同じ人』……ミリュウも同様であるようだ。こぼれないように、こぼれないようにと少しずつ歩を進める彼女は、魅入られているように手の中の水を見つめている。よく見ればその双眸も潤いをなくし、涙も作れないほどに彼女は乾いているらしい。
 もしその冷たい水を一気に飲み干したらどんなに至福を味わえることだろう!
 ニトロは思わず生唾を飲み込む。
 ミリュウも喉を鳴らす。と、その音が手に伝わったかのようにコップから水が一滴、こぼれた。
「あっ……」
 ミリュウが小さく声を上げた。
 それだけでニトロは胸が張り裂けそうな絶望を感じた。
 ミリュウは青い顔で玉座を見ている。
 玉座のティディアは失敗したミリュウを無表情で見下ろしている。
 ミリュウは、速やかに池に戻った。水を汲み直し――たった一滴こぼれただけであるのに!――再び慎重に歩き出す。
 つまずいてこぼした。ミリュウは池に戻る。
 風が吹いてこぼれた。ミリュウは池に戻る。
 うまく水を汲めない。ミリュウは何度も冷たい池に手を入れる。
 玉座の段を上る際にこぼれた。後一歩。ティディアは懸命な妹を冷ややかに見つめている。ミリュウは池に戻る。
 ニトロは食い入るようにその光景を見つめていた。
 冷たさのあまりに真っ赤になった手でコップを握り締め、何十何回目かの挑戦でようやくミリュウはティディアに満杯の水を運ぶことができた。
 満面に笑顔を浮かべるミリュウに対し、ティディアは無感動にコップを受け取り、その水を喉の渇く妹の目の前でこともなげに一瞬で飲み干した。
 と、これまでずっと無表情であったティディアの頬がほころんだ。
「偉いわ、ミリュウ」
 ティディアが言う。
 ミリュウの笑顔が輝く。
 しかし、ニトロは見逃さなかった。
 ミリュウは心から喜びを表しながら、一方で、その瞳には絶望を湛えていた。
 何故か? それはすぐに分かった。
 ティディアはミリュウにコップを返した。
 ミリュウは池に戻る。
 池に戻り、再び困難な運搬作業を開始する。
 運搬の成功は姉の褒めの言葉をもらえる喜びと共に、ミリュウに次の『試練』の開始を告げるものでもあったのだ。
 湧水の池から漂う冷気が増している。
 温度が下がっているらしい。
 ミリュウは震えながら水を運ぶ。震えているから水をこぼす。その度に彼女は無感動な姉の眼差しを見る。そして池に戻り、成功する度に冷たさを増す水に手を入れる。アカギレができて血が滲んでいた。その血が彼女の成功を妨げ、彼女はまた池に戻る。諦めず、歯を食いしばり、ようやく成功した時には姉のほんのわずかな温かみを受けて絶望に心を引かれながら傷を癒し、しかしすぐに先より凍える池に手を入れる。
 ミリュウは、けして解放されない。
 無限に水を運び続ける。
 それでも、ここは外より解放されている。
「…………」
 ニトロは脳裏にある言葉を口にしていいのか分からず、ひとまず、気づけば傍らにあった扉を開いてみた。
 やはり部屋の様子が変わった。
 いや、変わりすぎた。
 今度の部屋はニトロにもなじみのある風景に似ていた。
「ファミレス?」
 そう、そこにあるのはファミリーレストランそのものだった。
 目の前のテーブルに、やはり他の誰よりも強烈な存在感を放つティディアが座っている。その向かいにはミリュウがいる。
「――そんな記憶があったな」
 確か、ルッド・ヒューランも連れていたはずだが……今はいないようだ。二人きりのテーブルに話の華は咲いていない。
 だから、姉妹の隣のテーブルに咲く会話はなはとても賑やかで、楽しく感じられた。そのテーブルにいるのは女子高生のグループだった。顔はぼんやりとかすんで判らないが、それでも彼女らが心底楽しそうにしていることは分かる。
 ミリュウはそれを羨ましそうに見つめている。彼女の深い憧れが伝わってくる。
 が、彼女は姉がそれをどのように見つめているのかにふと気づき、下を見た。
 しばらくして、ミリュウがまた隣の女子高生達に羨望を向ける。羨望を向けて、恥じ入るようにまたうつむく。
 いつの間にか、女子高生らのテーブルの先にもう一つテーブルが現れていた。
 そしてそこには、
「俺だ」
 高校の制服を着た自分が、ハラキリと、ヴィタと、もう一人現れたティディアと歓談している。そちらのティディアは笑い転げていた。女子高生らを非人情に観察するミリュウのテーブルの姉とは違い、表情も豊かに、実に楽しそうに笑っていた。
 ミリュウはそれを羨ましそうに見る。
 が、ミリュウの視線は楽しそうな姉を見ていない。
「……俺を?」
 そう、ミリュウはカプチーノを飲むニトロ・ポルカトを見つめていた。
 彼女が自分に対して羨望を向けてきていたことは知っている。しかし……なんだろうか、その眼差しは羨ましがるだけではなく、恨みのようなものも込められている。
 ティディアをそんなに笑わせられることが悔しいのか?
 見ていると、ふいにあちらのニトロ・ポルカトがテーブルを離れた。ハラキリもついていく。テーブルにはティディアとヴィタが残って歓談していた。そして、とうとうあちらのニトロとハラキリは戻ってこなかった。
 ――ミリュウは、それをずっと唇を噛んで見つめていた。
 ニトロは理解した。
「そうか」
 ミリュウはテーブルから離れない。いや、離れられない。
 彼女があくまで王女であるために。
「けど、俺はあくまで一般市民だ」
 そして彼女は、彼女が強く自覚していたようにティディアの肉親である。
「けど、俺は違う。例え結婚しても、違う」
 今や『ニトロ・ポルカト』にかかる期待は一個人の裁量でどうにかなるものではなくなっていたのだとしても、それでも、ニトロ・ポルカトはこの場から去ることができる。手段を問わねば究極的にはどこへだって逃げられるのだ。
 だが、ミリュウはそうはいかない。
 王女という立場を既に背負う者と、王という立場を背負うかもしれない者にはどうしても大きな差があるのだ。また、例えニトロ・ポルカトが王という立場を背負ったとしても、場合によってはそこから一般市民に戻る道はある。そして、もしそうしたら? 自分には大きな過去を持ちながらも、いっそ名も顔も変え、住まう国も変えれば安穏とした生活を送れるかも――という希望がか細くも確かに存在している。
 だが、ミリュウはそうはいかない。
 例え王女という立場から何とか離れられたとしても、顔と名を変えたとしても、彼女にはどうしても彼女自身の血肉が残ってしまうのだ。王の一族という血と肉が。ティディア・フォン・アデムメデス・ロディアーナに最も近い血と肉が! 彼女は逃れられない。彼女の存在そのものが彼女を縛る鎖でもあるのだ。彼女は存在する限り『わたし』に苦しめられるのだ。
 同じ人間――反面、全く違う立場
 同じだからこそ、その差異は残酷なまでに色濃く浮かび上がる。
 ふいに、消えたニトロ・ポルカトを睨んでいたミリュウが、彼を羨み恨む己を恥じ入るようにしょげ返った。
 ニトロは居たたまれなくなり、扉を見つけて、開いた。

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